2008/06/29

08.6.29「満たされるイエス様」

マルコ8:1-10
:1 そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
:2 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
:3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
:4 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
:5 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。
:6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
:7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。
:8 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
:9 人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。
:10 そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。

序)集まる。
みなさんは、何かの為に集まったり、並んだりしたことはありますか?

ぼくはあります(^^;
学生の時には、パチンコ屋さんの開店前に並んだこともあります。
先着○名様とかのものをゲットするために並んだこともあります。
遊園地やテーマパークでは、アトラクションに乗るために並びます。
また、子供の運動会には、親が集まってきます。
テーマーパークでは、パレードのために、人々が集まってきます。

人は何か自分がほしいものを得るためであったり、何かを期待して集まったりします。

ここでは、4000人もの人がイエス様のもとに集まってきていたのです。

今日はここから、共に教えられたいと思います。


1.イエス様のもとに集まっていた。

4000人もの人がイエス様のもとに集まっていたのです。
それはイエス様を求め、イエス様に何かを期待し、そこに集まってきていたのでしょう。
聖書を見ると、3日間も食べるものもないのに、イエス様のもとに集まっていたようです。
ある人は遠くからきている人もいたようです。
3日も食べられないような状態でありながら、イエス様を求めて集まっていた人達。
本当にイエス様を求める心、信仰で溢れていたのでしょうね。

私もそのように本当に飢え乾いてイエス様を求めていただろうかと考えさせられました。
食べるものに困ることもないし、車でどこへでも行けるような時代。
なかなかこの時代のこの出来事を理解することは難しいかも知れません。
でも、ひとつ言えることは、イエス様を求める心、信仰をもつことは本当に大切なことであるということです。
10人や20人ではないのです。
4000人です。
マルコ伝のもっと前から読むと、男だけで5000人が集まっている記事も出てきます。
また、いろんな状況の人がイエス様を求め、イエス様に期待して集まり、並んでいることがわかります。

私たちの信仰をもう一度見直す機会となるなら、幸いです。

私たちは、
何の為に礼拝に集まるのでしょうか。
何の為に祈るのでしょう。
何の為に御言葉を読むのでしょう。
何の為に福音を伝えるのでしょう。
何の為に愛し合うのでしょう。
イエス様を求めるため、イエス様と出会うため、イエス様にささげるため、イエス様に触れるため、イエス様に近づくため、イエス様に期待して・・・。
イエス様の為に集まっていますね。

絶えず、イエス様のもとに集まり、イエス様に目をむけるものでありたいですね。


教会は集まるためにあるということも言えると思います。
ここで4000人が集まったのは、最初から4000人がイエス様を目指していたのかというと、そうじゃなかったかもしれません。
イエス様を求めてイエス様のもとへ向かっていった人々を見て、自分も・・と集まった人もいたかもしれません。
また、多く人が集まっていったので、ついていった人もいたかもしれません。
どちらにせよ、イエス様を求めて集っていった人々には大きな影響力があったと言うことができると思うのです。

伝道を考えるときも、イエス様を求める人々に影響されたり、そこに人が集まるから影響されたり、その集まった場所にイエス様を求める人々が形だけでなく心からイエス様を求めているから影響されたりするのではないかと思うのです。

そういう意味では、個人的な信仰は個人的な信仰生活で送ることは可能かもしれませんが、イエス様の影響力が大きく人々に及ぼされていく為には、集まることはとても重要な意味を持っていると思うのです。だから、教会が存在するということも言えるのではないでしょうか。
私たちが集っていることは本当に大きなことなのです。



2.イエス様は満たされる。

さて、イエス様はその中でこの群衆たちをどうされたのでしょうか。

4000人もの人がいるのです。
弟子達も言っています。
「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
実際にパンは7つしかなく、魚が少しあっただけのようでした。
弟子達だけでわけても足りないんじゃないかというような量です。
それなのに、4000人もの人をどうやって・・・。

イエス様はこの7つのパンを感謝して裂いて配らせました。
すると、どうなったのか書いてませんが、4000人が満腹になったというのです。
イエス様がどのような方法でされたかを今日は注目しません。
イエス様はわたしたちが不可能と思えるような状況であっても、満たされるお方であるということを知りましょう。
パン7つで4000人を満腹にされたのです。
イエス様を心から求めて集まった人ばかりじゃなかったかもしれません。
そのような人々に影響を受けて集った人々やなんとなく付いてきて人々もいたかもしれませんが、それらの人々も全て満腹にされたのです。

その前には、パン5つと魚2匹で男だけで5000人を満腹にされたのです。
何倍になったとかじゃないんです。
今あるもので集まった人全てを満たされるお方であることがわかります。

私たちはイエス様に期待し、イエス様を求めます。
そして、イエス様に目を向け続けます。
その時に、イエス様はわたしたちを満たすことができるお方であるということなのです。

大きな集会で、設備も整っていて、すばらしい演奏と
技術的に優れたワーシップリーダーが導く賛美と
有名なメッセンジャーがメッセージする集会では満たされるが、
小さな部屋で、何の設備もなく、
楽器もなく、ワーシップリーダーの技術もなく、
名もないクリスチャンがメッセージする集会では満たされないというのではないのです。
イエス様は、今あるもので、全ての人を満たすことのできるお方なのです。

そのポイントは、

「イエス様」です。

イエス様を求め、イエス様に期待するのです。
大きな集会でも、ワーシップリーダーでも、メッセンジャーでも、ミニスターでもないのです。
イエス様なのです。

だから、教会にイエス様を求める人々が集まり、イエス様を求めているなら、そこに影響されたり、なんとなくでも一緒に集った人でさえ、イエス様ならその全ての人々を満たされるのです。
そのような集会を持ちたいですね。

私たちはイエス様を求め、イエス様に期待し、イエス様に目を向け続けるものでありたいですね。
今日もそう願い、今週もそう歩まれるなら、本当に幸いです。
イエス様がその全てを満たして下さるお方だからです。

2008/06/22

08.6.22「必要な忍耐」

ヘブル10:32-39
:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
:33 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。
:34 あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

口語訳
:32 あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。
:33 そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
:34 さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
:35 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
:36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
:37 「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
:38 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。
:39 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。


序)主に心を向け続ける。
先週は父の日礼拝でしたが、先々週のお話で、主に心を向け続けることがとても重要であること、
また、患難をも喜ぶことをお話しました。
それは、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を、そして希望が失望に終わらないというすばらしい約束を通して、今ある患難をも喜ぶという信仰でした。

でも、実際は患難なわけですから、辛く苦しいことを通るわけですよね。
今までも通ってこられたかもしれませんし、これから通るかも知れませんが、その時の励ましとなり、そんな時でも御言葉によって立つことができ、絶えずイエス様に心を向け続けられるなら、本当に幸いです。

今日は、そんな中で忍耐することについてみていきましょう。


1.確信を放棄しない。

私たちが神様に抱いている確信を投げ捨ててはならないですね。

私たちが救われたのは、イエス様の十字架によるのです。
また、私たちの行いによらず、ただ恵みと信仰によるのです。

私たちはこの確信を持っているから信仰生活を送れるのではないでしょうか。
あるいはこの確信を得るために歩んでいるのだと思うのです。

確信をもっていると、強いですね。
また、動揺するような時にもしっかりと立つことができます。

なぜ、この確信を放棄せず持ち続けていくことを神様はおっしゃるのでしょうか?
それは、その確信には大きな報いがもたらされるからです。



2.必要なのは、忍耐

そして、そのように確信を放棄せず、歩み続ける時に、私たちに必要なものがあるのです。

:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

患難が待ち受けている人生で、私たちは確信を放棄せず、歩んでいきたいですね。
神のみこころを行って約束のものを手に入れるための歩みに必要なのは、
「忍耐」です。

ヘブル12:1-2
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

人生を歩むことは忍耐が必要であることがここでもわかります。
そして、その歩みは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないことがとても大切なんですね。


今は忍耐の時だなぁ、と感じることはありますか?
今、まさにそうだ、という人もいるでしょう。
過去にもそんな時があったなぁという人もいるでしょう。
そうですね。これからもあるでしょう。

でも、ここでわかるように、私たちの信仰をはじめて下さったイエス様が、
私たちの信仰を完成して下さることを信じて、確信を持って歩み続けるものになりたいです。

イエス様が信仰の創始者であり、完成者であるから、このイエス様に目をむけ続けて、忍耐を持って走り続けるのです。


結)確信を放棄せず、忍耐を持って、イエス様を見上げ続ける人生を歩みたい。

最後に一人の方の証を紹介します。
十歳の女の子が突然嘔吐し、その後、食べることも飲むこともできなくなってしまいました。
摂食障害だそうです。特別な治療法はなく、栄養状態を維持しながら時を待つしかないというのが今の医学の現状だそうです。その期間も数年から、長くて7年くらいだそうです。
栄養を届ける為に鼻からチューブを入れた状態での生活が始まりました。
しかし、そのご家族はクリスチャンでしたので、祈りましたし、多くのクリスチャンの執り成しの祈りもありました。
そんな苦しい中で、その都度、イエス様からくる主にある喜びと平安があったそうです。あるときは御言葉が与えられ、あるときは、深い祈りに導かれ、、、
すぐに癒されたということではなかったですが、このご夫妻は、苦しい悲しい感情の中でも、絶えず主にある平安が心の奥底にあることを感じておられたそうです。
娘さんは、約2年半の後にチューブをはずすことができて、完全に癒されたそうです。

このご家族の中にはきっと確認があったに違いないと思うのです。
その確信を放棄せず、忍耐し、祈り続けられたのだと思うのです。
その結果、癒しという報いだけでなく、力強い信仰という報いをも受けられたのだと思うのです。

この方は、証の中でこのようなことも書かれています。
「どんな困難な中でも、神様を見上げる時に、心からの喜びと感謝と笑いがあり得ることを、私たちは体験しました。」

私たちはいかがでしょうか。
確信を放棄せず、忍耐を持って、イエス様を見上げ続ける人生を歩みたいですね。

2008/06/15

08.6.15「父と子の関係」

ルカ15:11-24
:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。


序)父と二人の息子
イエス様が喩えとして話された箇所です。
ここで、父と子の関係をみることができます。
父の日を記念して、ここから共に教えられたいと思います。


1.弟息子の行動

弟息子は、父の財産について、まだ生きている父に対して財産を要求し、これで遠い国に行って、浪費して使い果たしてしまった。

生前贈与というのは、日本でもありますが、これは、親が子供に対して相続の時に与えるものを贈与するわけです。
しかしここでは、子供の方から要求しているのです。
また、一般的に考えるのなら、生前贈与を受けた子供は、その親の面倒を見たり、何らかの形で亡くなるまでの間の世話をしたりするでしょう。
また、この時点での財産であって、実際に父が亡くなるときにそれだけの財産があるかどうかもわかりません。勿論もっと増えているかも知れないけど、減っているかも知れないのです。
しかも、その財産は父が得たものであって、息子が得たものではありません。
弟息子は自分で稼いだわけでもない父の財産を要求したというわけです。

そして、その財産を持って、遠い国へ行き、湯水のように使ってしまうのです。
金融会社のCMじゃありませんが、収支のバランスを考えないと、財産はなくなってしまいますし、借金して使ってばかりでは、負債ばかりが増えてしまいます。
いくら財産があっても、使えばなくなるのは当然です。
収入があって、支出があるのです。
弟息子は、父親から得た財産、つまり臨時収入だけを当てにして支出だけをしていったのです。
これでは、その財産がなくなるのは、時間の問題でした。
そしてとうとう使い果たしてしまったのです。
その時にその地方に大飢饉が起こり、食べることにも困り始めたのです。
そこで、なんとかある人のところで働かせてもらったのですが、それは豚の世話でした。
空腹のあまり、その豚の食べるイナゴ豆を食べたいと思うほどでした。

さて、みなさんはこの息子をどのように思われるでしょうか。

まだ生きている親の財産を当てにして、親の気持ちも考えないで、自分勝手なことばかりして、その財産さえも食いつぶしてしまって、、、
なんておろかな子供なんだ。こんな目にあうのは自業自得だ。。。
痛い目にあったほうがいいんだ。そうじゃないとこの弟息子のためにもならない。。

もし、そう思うとしても、共感する人はたくさんおられるでしょうね。

しかし、ここでとても大切なことをお伝えします。
この弟息子の姿は、「あなた」なのです。勿論、私も含めて。。

私たちは、地上に命を受けて生まれました。
それは、あなたが生まれたくて生まれたのでしょうか。
また、あなたのお父さんとお母さんがあなたをそのお腹の中で組み立てたり、くっつけたりして、まるで粘土で何か作るかのように、作ったのでしょうか。
勿論、お父さんとお母さんがいなくてはあなたの存在はありませんでした。
そういう意味では両親に感謝しなくてはなりません。
しかし、あなたを作り、あなたの肉体をあなたに与えられたのは、神様です。
また、あなたに心を与え、自由な意思を与えられたのも、神様です。
あなたにこの地上の人生を歩むと言う時間を与えられたのも、神様です。
あなたが自分で作り出したものは何もありません。

弟息子は父の財産を与えられ、それだけを当てにして、好き勝手なことをしていたのです。それが自分の生きる道であると思ったのかもしれません。

あなたに与えられているあなたの命も肉体も心も時間も人生そのものも神様から与えられたものです。しかし、そうは考えず、
「自分の命は自分のものだ。この肉体も自分のものだ。どのように考え、どんな思いを持っても、自分のものなんだから、勝手だろう。オレの人生はオレのものだ。誰にも何も言われる筋合いはない。」
たしかに、他の人からとやかく言われる筋合いはないかもしれません。
しかし、あなたが自分のものだと思っているものが実は全て与えられたものであるなら、その与えてくださった方に対して、背を向けて歩むことは果たして正しいと言えるのでしょうか。
それでも、勝手なことをしてもいいと言えるのでしょうか。

だから、この弟息子の姿は、私たち一人一人であるのです。
父から与えられたものであるのに、与えてくれた父を無視し、自分勝手なことをして人生を送っていた弟息子。。
ここに私たちの姿を見ることができるのです。

父なる神様から離れて、自分の生きたいように生き、自分のしたいようにしている私たち。。

このことをまず、私たちは自覚しましょう。


2.我に返った弟息子

そんなどん底の状態にいた弟息子が我に返ったのです。
:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

私たちは、父なる神様から離れて、自分の好きなように人生を送っていると、どうしようもない状態になることがあります。
たとえそうは思わなくても、実は自分がどうすればいいのかわからない状態になるのです。
自分はこのままでいいんだろうか、本当にこんな人生を歩みたかったのだろうか。

でも、解決があるのです。
弟息子は、「我に返った」とあります。本来の自分に気付いたのです。そして、父のもとに帰ることを決心したのです。
自分は父の元にいるべきだったということに気付いたのです。
でも、大きな罪を犯してしまった自分は、子と呼ばれる資格などない。だから、雇い人にでもしてもらいたいとお願いしよう、と思ったのです。

ここにも、私たちの姿を見なければならないと思います。
好き勝手やってきた。罪を犯してきた。でも、本来、私たちに命を与え、地上での人生を与えてくださった父なる神様のもとに帰るべきであることに気付かなければならないのです。
そしてそれは、あなたが変わらなければならないものということではなく、本来あるべき姿に返るのです。

あなたは、父なる神様が造られた、神に似せて造られた、神の傑作として造られた存在なのです。
しかし、その神様から離れてしまって、その人生を今まで歩んできてしまった。
そして、今どんな状態であっても、我に返って、本来の自分を造られた神様の元に返る決意をするならば、それがあなたの本来あるべき姿になるのです。

本来の自分を取り戻しましょう。


結)息子として迎えた父
父の元に戻ってきた弟息子を父は雇い人としてではなく、息子として迎えました。
私たちの目から見れば、弟息子が言っているように、息子と呼ばれる資格はないようにも思えます。しかし、父は息子として迎え、宴会を催したのです。

ここにも重要なことをみることができます。
この息子は、どんな状態であったとしても、父にとっては息子なのです。
親子という関係は、たとえ出て行ったとしても、迷惑をかけたとしても、罪を犯したとしても、変わらないのです。

私たちも、神様を信じたから神様の子となったのではなく、私たちは既に神様に造られた神様の子供なのです。しかし、この弟息子のように、父のもとにいなかったため、子供として権利も恵みも受けられなくなってしまっていたのです。
もし、父の元に返らなかったら、この弟息子は飢え死にしていたかもしれません。
私たちは、神の子として造られています。
だから、神様のもとに返るときに、本来の自分を取り戻し、本来あるべき姿を見ることができるのです。

あなたは、まだ、父の元から離れたままではないでしょうか。
もし、そうであるなら、今日、我に返って、父の元に返りませんか。
父なる神様は、あなたを息子として迎えてくださいます。何も責められません。
弟息子が返ってきたときに走りよって父のように、あなたに走りより抱き、迎えてくださるのです。そして、宴会をされたように、あなたが返ってきたなら、大きな喜びで迎えて下さるのです。

今日、本来の自分の居場所に戻られるなら、幸いです。

また、そこにいるなら、それを感謝して喜びましょう。
そして、まだ戻ってこない子供たちのために祈るなら、幸いです。

2008/06/08

08.6.8「患難をも喜ぶ」

ローマ 5:1-11
:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。



序)信仰によって義とされる。

さて、ローマ書の4章では、アブラハムが行いや律法ではなく、信仰によって、義とされたということについて書かれてあります。
そして、私たちもまた、信仰によって義と認められていることから、5章が始まります。

私たちは、信仰によって義と認められるのですね。

エペソ 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

律法によってであったり、行いによるのではないのです。
もし、行いや律法を全うすることによって義と認められるのなら、私は今日もこのようにみなさんの前で聖書を開いてお話しすることなどできません。
私たちの実際の生活ではいろんなことがあります。
心が穏やかでないようになることもあるでしょう。理不尽なこともあるでしょう。心が沈む時もあるでしょう。
そんな中で、人を心の中で裁いてしまったり、悪口を言ってしまったり、、、と神様の前に喜ばれるとは思えないようなことをしてしまうこともあるかもしれません。

実際、私も経験しています。
その大小はありますのが、ひどい時は、本当に神様に心を向けることに困難を感じることもあるのです。
でも、そんな時でも、神様はその私の悪い心や行動で、義としてくださらないのではなく、
イエス様に目をむけ、心を向け、イエス様の十字架によって救われることを信じていく時に、義として下さって、そんなひどい状態であっても、ありのままで私を受け入れて下さる方であることを知る時に、イエス様に心を向け続けることの大切さを実感するのです。

みなさんもいろんな人生を歩まれているでしょう。
いろんな辛い思いも経験しておられることでしょう。神様の前に罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
でも、信仰によって義と認められるのです。その為にも、いつもイエス様に心を向けて、変わらない救いを受け取りましょう。
その時に、あなたの心が少しずつでも変えられていくのです。


そのように、信仰によって義とされたなら、私たちは、大いに神様を喜びましょう。

1.喜びの先取り

そして、聖書にあるように、患難さえも喜ぶものになりたいですね。

私たちがもし、行いによらなければ、義と認められないとすれば、何と苦難の道が待っているでしょうか。
苦しい道のりを耐え忍び、その中でいろんなことを学び、悟りのような境地を開いて、ようやく義と認められたら、その時にはようやく喜ぶことができるでしょう。

いろんな宗教がありますが、実際にそのようなものもあるでしょう。
でも、それでも救われないのです。なんと虚しいでしょう。


聖書は、患難さえも喜ぼうではないかといっています。

これは言い換えれば、先程の苦しい道のりの中でようやく義と認められて、その時に喜べることがわかっているから、もう今から喜びましょうということとも言えますね。

つまり、同じ道を歩んだとしても、その先にあるものによって喜ぶことができるなら、その時になって喜ぶのではなく、今の困難なことでさえ、もう喜ぼうということなのですね。
喜びの先取りとでもいいましょうか。。

その道のりの中で、
・患難は忍耐を生み出します。
苦しいことを経験していくと、忍耐力が養われていきますね。マラソンでもそうでしょう。人生はよくマラソンにたとえられたりしますが、まさにそうですね。苦しい練習を積み重ねる時に、持久力が養われるように、忍耐が生み出されるのですね。

・忍耐は練られた品性を生み出します。
そして、忍耐は練られた品性を生み出すといいます。私たちの人格もそのような中で形成されて、成長していくのでしょう。
マラソンでいえば、そのような持久力がついていくと、レースのどこでどれだけの力を入れたり抜いたりして、レースに勝つという強さというか、技術的なものが身につくようなものでしょうか。

・練られた品性は、希望を生み出すのです。
そして、さらに希望を生み出すのです。そのように人格が形成され、成長していくと、多少のことでは動揺したりせず、その中であっても、希望を持つことができるようになります。
マラソンでいえば、誰かがレース中盤でスパートをかけて前を走ったとしても、慌てることなく自分のレースをして、最後には抜いて優勝するという希望を見ることができるはずです。

そして、何よりこの希望があるということは、本当に喜ばしいことですよね。
だから、喜べるんだから、そのスタートとも言える患難さえも喜ぼうというのです。
でも、希望が失望に終わるなら、そこには喜びはないですよね。

苦しい道を通って、耐え忍び、その中でいろんな経験を重ね、人格も形成されるかもしれません。
そして、最後に開放されて、喜ぶことができるかもしれませんが、そこに希望を見出すことができるのでしょうか?
それで、救われるのか?死んだあとどこにいくのか?
ようやく信じてここまで歩んできたのに、希望がなかったら、失望に終わったら、なんと虚しい歩みとなるでしょう。

でも、聖書はいいます。
「この希望は失望に終わることがありません。」

失望に終わらない希望があるのです。
なんとすばらしいことでしょう。

もし、私たちの歩みの中で、最後にすばらしい希望が待っていて、その希望は必ずかなう。失望に終わらないということがわかっているのなら、私たちは今の苦難をただ苦しいだけと思うでしょうか?
違いますよね。それは喜びです。
なぜなら、この道の先に確実に希望があることを知っているからです。


2.希望は失望に終わらない。

では、なぜ失望に終わらないのか。
「:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからなのです。

神様はわたしたちに誰も真似できない愛を示して下さいました。
それは、今日読んだ箇所からだけでも十分わかりますが、他の箇所も読めば、読むほどにわかりますよね。
もう一度読んでみましょう。
ローマ5:6-11
:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

だから、私たちは、患難であっても、そうでなくても、イエス様を大いに喜びましょう。
そして、その先にある希望を持ってイエス様を喜び、与えられた人生を歩みましょう。

患難さえも喜ぶ人生を歩みたいですか。
イエス様を信頼し、イエス様に心を向けましょう。
そこから、神の愛が注がれて、私たちの中に「失望に終わらない希望」が与えられます。

神様の愛に応答し、この喜びの人生の一歩を踏み出す人は幸いです。

2008/06/01

08.6.1「終りの時代に備えて-人に惑わされない-」

マルコ13:1-13
:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
:3 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」
:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。
:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
:11 彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
:12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。
:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

マルコ13:31-32
:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。


序)どんな時代なのか。
今は、どんな時代でしょうか。

弟子たちは石でできた立派な宮を見て、なんと素晴らしい建物でしょう、とイエス様に言いました。ところが、イエス様は、この建物がこのまま残ることはない、、つまり、これらの立派と思えるものであっても、砕かれてしまうことを話されたのです。
そして、弟子たちがそんなことが起こるのはいつなのか、どんな前兆があるのか、イエス様に尋ねたときに、イエス様は話し始められたのです。(5節以降)
その内容を見ると、この宮の建物の崩壊について語られたというよりも、天地が滅びること、終りの時代のことを言われていたことがわかります。
つまり、これは、私たちにも大きく関係のあることなのです。
なぜなら、この13章の最後、このイエス様の話の最後にこのようにイエス様が言われているからです。

:37わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。

私たちも含めて、全ての人に対してイエス様が語っておられるのです。
そのイエス様の語られた話を見て、終りの時代に備えるものになりたいと思います。

そのための重要なワードは、
「人に惑わされないように気をつけなさい。」
詳訳聖書では、「だれにも迷わされないように用心しなさい<目をさましていなさい>」
とあります。

さて、順に見ていきましょう。


1.終りの時代の前兆

終りの時代の前兆についてイエス様の言葉からみてみましょう。

・偽預言者、偽キリスト
:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
詳訳聖書では、
多くの者が私のものである<メシヤの>名をもって<自分の名にして>現われ《私の名を使って主張をなし》『私こそ〔メシヤ〕である』と言って、多くの人を迷わせる。
とあります。

私こそ再臨のキリストだと言っている人もおり、それに惑わされて信じてしまった人もたくさんいます。多くの異端があることを思うとき、この前兆はすでに起こっており、さらに進んでくることは想像できます。
日本ではあまり聞きませんが、キリストは肉体を持った使徒に受肉し、まず地上に再臨され、そして、地上にキリストの王国を建て上げなければ、その後のキリストの再臨はない。だから、その使徒の言うことに従わない者を地上から清めなければならないといった教えがあることも聞いています。これに多くのクリスチャンが惑わされているとのことです。
まさに、キリストの名を使って主張をして、メシヤを宣言しているわけです。
しかし、聖書を読めば、キリストがそのような形で再臨するようなことは書いてありません。
それでも、言葉巧みに惑わしていると言うのは、とても危険な時代と言えるのかも知れません。
これもまた、終りの時代の前兆なのかもしれません。

・戦争と戦争のうわさ
:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

多くの戦争がありました。今もまた戦争のうわさも絶えません。
ちなみに、アメリカは、今からほんの230年前に建国された国ですが、現在までに200回もの他国との戦争を起こしています。
でも、終りが来たのではないといわれています。これらも前兆なのです。

・紛争
:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、・・・
民族紛争もあちこちで現在も起こっています。国同士の戦いもあります。
中東やアフリカ等は、よく耳にします。

・地震や飢饉
:8 ・・・、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。
先日の四川大地震もそうですが、多くの地震が起こり、多くの被害が出ていることを思うと、これらも前兆なのでしょう。
また、飢饉についても深刻な時代です。詳訳聖書では、「飢饉や災害」とありますから、自然災害もそれらの前兆なのでしょう。
アフリカでは本当に貧しい生活で、国の平均寿命が40歳代の国もいくつもあるそうです。
それらは、紛争が原因だったり、飢饉が原因だったり、まさにイエス様が語られたことが起こっているといえるのではないでしょうか。


これらを思うときになんとも痛ましい時代なのですが、これらは、産みの苦しみの初めだと言うのです。
そうです。終りの時代なのではなく、その前兆なのですから。。

そして、そんなことを見聞きしたとしても、決して、人に惑わされてはならないのです。

では、終りの時代はどのようなものなのでしょう。


2.終りの時代

:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。

あまり歓迎したくないことをイエス様は語られていますが、聖書を真摯に受け止めなければなりませんね。

イエス様を受け入れ、イエス様に従う人は、議会に引き渡され、会堂でむち打たれる。

これは、クリスチャンが国会議員になって、議会に出席するのとは違います。
引き渡されるのです。
そして、ここでの議会とは、ギリシャ語でサンヘドリン、つまりイエス様が十字架刑を宣告された議会であり、宗教的・政治的な組織です。
ということは、私たちがイエス様を信じて、イエス様に従うなら、宗教的な意味合いで議会に引き渡され、また、会堂でむち打たれるのです。
どこかの公民館ではないのです。キリスト教の会堂なのかもしれません。
あるいは、ユダヤ教の会堂なのかもしれません。少なくともそのような宗教的な意味合いを持つ場所であると思われます。

終りの時代には、このように唯一にして真の神様を信じるものが迫害される時代でもあるのです。
でも、この迫害には意味があるのです。

:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
とあります。
福音が宣べ伝えられる時代でもあるのです。

私たちは今、いろんな方法で福音を伝え、証をしたりしていますし、していくでしょう。
それはとても大切なことです。
しかし、それゆえに捕らえられるかもしれません。
それゆえに、会堂でむち打たれるかも知れません。
それゆえに、議会に引き渡されるかも知れません。
これらのことは、更に福音を伝える機会となるのです。
そして、その時に私たちは何を語るのか、どう話すのか、を準備する必要があるのでしょうか。
ないのです。

:11 彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

詳訳聖書では、
彼らがあなたたちを捕らえて衆議所に連れて行っても、なんと言おうかと前もって心配するな。またそんなことは考えてもみるな。その時<その瞬間>に示された事を言いなさい。語るのはあなたたちではなく、聖霊だからである。
とあります。

ここに終りの時代に私たちが心がけることがもう一つ書いてあります。
語るのは、私たちではなく、聖霊なのです。
私たちが「聖霊に拠り頼むこと」がとても重要なことであるとわかります。
そうでないと、この困難な終りの時代を耐え忍ぶこともまた困難なのでしょう。
なぜなら、
:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
とあります。
また、
:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
:20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。
とあるからです。

イエス様に、心からより頼むものとなりたいですね。


結)決して滅ばない言葉に望みを置いて。。

:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

終りの時代は、とても苦しい苦難の日です。
実際今の日本経済を見ても思います。・・・
これから、どんどん大変な状態になっていくことでしょう。
なぜなら、終りの時代へと突入していくでしょうから。。
そして、選民さえも惑わされるかも知れない時代になっていくのです。
しかし、その時は誰にもわかりません。
もうすぐ来るのかも知れないし、私たちが生きているうちでは来ないのかも知れません。
それでも、いつきても大丈夫なように私たちは準備しておかなければならないのです。
そうイエス様は命じておられます。

経済が崩壊しても、国が崩壊しても、あらゆる人間関係が崩壊しても、教会が崩壊しても、
天地が滅びても、決して滅びることがないものがあります。
それが、御言葉です。聖書です。神の言葉です。

私たちは、人に惑わされることなく、イエス様を信頼し、聖書に望みを置いて、終りの時代に備えるものになりたいと思います。