2009/11/29

09.11.29「 心はどこにあるのか 」

マタイ15:1-9
:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
:2 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
:4 神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」



序)人間のいましめと神様のいましめ
この時代には、人間のいましめ、人間の教え、人々の言い伝えがあったようですし、それによって神のいましめが破られるということもあったようです。
さて、私達の今の時代はどうでしょうか?

人を殺してはいけないと書いてあるのに、なんで戦争なんてするの?
人を殺してはいけないと書いてあるのですから、戦争はだめです。
正義の戦争なんてありません。理由はともあれ人殺しです。
これは人間の教えが神の戒めを破っているといえるでしょうね。

イエス様は人間のいましめと神様のいましめについてどのようにメッセージされているのかを見て行く時に、答えがみえてくるんじゃないでしょうか。


1.心はどこにあるのか。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

人間のいましめと神様のいましめを見る時、神様が偽善者といわれるケースでは、はっきりとひとつのことがわかります。
「心がどこにあるのか?」という事です。

口では立派な祈りをして、神様を告白しているかも知れませんが、その心が遠く離れているならそこには神様はおられません。

1サムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

神様は私達の心がどこにあるのか…その心に目をむけておられるようです。

私達の心は神様の近くにあるでしょうか?


2.心が神の近くにある時。

心が神の近くにある時、私達はどうなるでしょう。

(1)神を身近に意識した生活をするようになる。

神様と親しく交わり、神様を意識する生活ができるようになってきます。

神様の近くに心がある時「イエス様、これでいいと思いますか?」ってすぐにきけるでしょうね。
悪い思いがやってきた時に「イエス様、だめですよね?」と神様を意識して、罪からは遠ざかる事もできるでしょう。
神を意識した生活ができるようになるでしょう。

心が神様の近くにあるとき、わたしたちは神様を身近に意識した生活をするようになるのです。


(2)神の愛が私たちのうちに全うされる。

1ヨハネ 4:12 もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神様の近くに心があるなら、神の愛が心に注がれ、神の愛で、神と人を愛する事ができるでしょう。
その時、互いに愛し合うことができ、神の愛が私達のうちに全うされるでしょう。

神の近くに心があるなら、神の愛が注がれ、神の愛で、神と自分と人とを愛することができるでしょう。



結)神に近づく
私達は、神様の近くに心あるためにはどうすればいいんでしょうか?
神に近づく。それだけです。
神様を想う。神様に心を向ける。
それは、個人的な時間でもできるでしょう。朝起きた時、トイレで、台所で、洗面所で、お風呂で、食事の時、寝る前、・・・。
また、このような礼拝の時間もそうですね。神様に心を向ける時を持つことです。

イエス様から私達に近づいて下さいました。
地上にお生まれになり、人々に仕え、十字架の死に至るまで従順であられ、私達に愛を示し、命を与えて下さったイエス様。
私達はそのイエス様を心に迎え入れ、イエス様を思うなら、既に私達のうちに御子を持っています。命を持っています。信じましょう。
そして、これからも心が神の近くに歩む人は幸いです。

2009/11/22

09.11.22「その名はなんというのですか」

出エジプト3:13-15
:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

序)名前の力
名前には力があります。
モーセは誰の名によってつかわされたのか?ということに関心がありました。
誰につかわされたのか?ということはとても大切なことです。
モーセには自信がなかったのです。
自分がエジプト王のところにいってイスラエルを救い出すなんて。
みんなはなんて言うだろう?逃げてきたわけですから・・・
でもつかわされた方の名前を聞くならば、それで、モーセは確信を持つことが出来ます。
そしてイスラエルの人達がおまえは何者だ!といっても神の名によってつかわされているのです、というならば、きっとイスラエルの人々も納得すると思ったからです。
だからモーセは名を聞きたかったのです。
でも神様はモーセになんと答えられたでしょうか?


1.私は存在している。

私はある(新改訳)
私は有って有る者(口語訳)

それは神様の性質を表しています。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

神様はモーセに答えられました。「わたしはある」
モーセはきっと「は?」と思ったでしょう。いえ私は名前を聞きたかったのですが・・
私はある?

この言葉は神様の名前ではありません。
それは性質をあらわす言葉です。
神様というお方がどのようなお方なのか?ということをあらわしています。
この時、モーセにとって大切なことは、みんなが納得する神の名ではありません。
その名を持つ方がどれほど偉大な方か?ということを知る、ということです。

“私はある”とは、どのような方であることをあらわしているのでしょうか?
原語の直訳は、「私は存在している」とです。
この言葉にはたくさんの神様の偉大さが凝縮されているのです。
神様の素晴らしさは言葉では説明できないのです。だから言われました。
“私はある”


①神様は、それ自体で存在しています。

あなたはどうしてここにいるのですか?
お母さんから生まれたからここにいるのです。
そのお母さんは?お母さんのお母さんが・・またお母さんが・・・

このギターはどうして存在しているのですか?
はい、買ったからです。その前はヤ○ハ楽器が製造したからです。

私達のまわりにあるすべてのものは、何かから生まれてきているのです。
でも、神様はそうではありません。何かから生まれてきたのではありません。
神様は神様として存在しているのです。

・創世記1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
はじめに神は・・・聖書のその前に何も書かれていませんね。
はじめに神は・・・からスタートしています。
つまりこの世界に何も存在していなかった時、神様はすでにおられた、ということをあらわしているのです。
すべてのはじまりは神様です。私はある、それは神様の偉大さを表しています。


②無から有を生み出す力があります。

ということは、すべてのものを神様が造られたのだ、ということです。
すべてのものは神様から造られ生まれてきたのです。
何もなかったところから、神様はこの大地や星や、太陽、生き物を造られたのです。
つまり、何もないところから、新しいものを生み出す力をもっておられる方だ、ということです。


例えば太陽を直径50センチにすると一番近い水星はどのくらい離れるかわかりますか?
約20メートルです。
金星は約39メートル。
地球は約53メートル。
火星は約82メートル。
木星は約279メートル。
土星は約513メートル。
天王星は約1032メートル。
海王星は約1618メートル。
冥王星は約2122メートル。
地球を1mmと仮定すると10メートル先に10センチの太陽があるのと同じです。
我々が見る夜空の星は金星などの9つの惑星等一部をのぞいて、みんなこの太陽クラスなのです。
それも私たち銀河系内の範囲の一部しか肉眼では見えません。
しかも我が銀河系内だけでもこの太陽(恒星)が1000億個以上もあるそうです。

そしてそれだけではありません。1光年は3482キロ先です。でもまだ星はありません。
一番近い星でも二万キロ以上はなれないとないのです。それが無限に広がっています。
これ全部神様がつくられたのです。
そのスケールの大きさに驚きます。
すべてを造られたお方です。

これは“私はある”というお方です。

・イザヤ43:19 見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

そう考えると、荒野に道を、砂漠に川を流れさせることくらい、どうってことないですよね。
そう、この有って有る者はあなたの生涯にも働かれるのです。
そして、何もないところからでも、素晴らしい創造をされる方です。
絶望のふちからでも、最高の希望を与えてくださる方です。


③完全です。
愛において・力において・霊において・・・

マタイ5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
私はあるという方、すべてのはじまりである方は完全な方です。
愛において・・・このすべてがはじまる前から存在しておられた方、そして全てを作り出した方、イエス様はあなたのために十字架にかかって死なれたのです。
ただ、身代わりとなる、ということだけのために。
すべての力、能力、権威を捨てて、あなたのために、私達のために十字架にかかり、死んでくださったのです。
イエス様の愛は完全な愛です。
すべてを満たすことのできる愛です。
そして力において、あなたを覆い、助け、満たすことの出来る方です。



2.本当の名は“イエス”です。

神様は「私はある」、その方がいかに素晴らしい方であるのか?ということをモーセに伝えたかったのです。
その名前が何であっても、その名前を持つ方がいかに素晴らしい方か、ということを知らなければどうしてエジプトにいくことができるでしょう。
仮に行くことが出来たとしても、すぐに挫折して帰ってきてしまうでしょう。
”私はある”、それは偉大なお方です。

では、なぜモーセに神の名が告げられなかったのでしょうか?
それは後にこられる方によって明らかにされました。。

使徒4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

神の名、それはイエスです。
神の名はエホバでもヤハウエでもありません。それは単なる呼び名です。
「イエス」それが神の名前です。

わたしはある、この名のもう一つの呼び名がありました。

3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

“あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が”
これはずっと続いていくのです。
そしてあなたの神という意味があるのです。
そして永遠に私の呼び名である、といわれています。
そうです。イエス様は、あなたの神です。そしてあなたを救う神です。
その名は永遠に変わることがありません。永遠にあなたの救い主なのです。

そして、そのイエス様の名にこそ力があります。
だからイエスの名によって祈ります。宣言します。告白します。

私達を呼ばれ、救われ、用いられる神は、こんなにも素晴らしい方です。
そしてその力ある名を私達は知っています。
このイエス様を知る人は幸いです。

2009/11/15

09.11.15「わたしは何者でしょう」

出エジプト3:7-12
:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」


序)神の前にたったモーセ
燃える柴を見て、近づいたモーセですが、そこで神の前に立つことになりました。
そして、神様がモーセに語り始められたのです。


1.神は知っておられる。

エジプトにいたイスラエルの人々は、苦しい労働に苦しみ、痛み、その中で、神に叫び続けていました。神様はこの叫びを、祈りを、聞いてくださっていたのです。

私たちも祈ります。
「果たして神様は聞いてくださっているのだろうか?」と思うこともあったかもしれません。
大丈夫、心配いりません。神様はちゃんと聞いてくださっています。

さて、神様は聞いてくださるだけでしょうか。
いいえ、そうではありません。神様はそこに救いの手を伸べてくださるお方です。

ここで、神様がモーセに語られたとき、神様がイスラエルの叫びを聞いておられることをモーセは知りました。
しかし、当のイスラエルの人々はまだ知りません。

私たちが祈るとき、届いていて、聞かれていても、それがわかるまでに時間がかかることがあります。
この後、モーセがエジプトに下り、最終的に出エジプトするまで、神がイスラエルの叫びを聞き、救いを与えられたことはわかりません。
でも、すでに神様は知っておられて、救いを用意されていたのです。

私たちが祈るとき、神は既に知ってくださっているのです。
そして、そのために既にその答えを用意してくださっているのです。
ただ、それが届くまでには時間がかかる場合もあるのです。

私たちはこのことから、「神は知っておられて、介入してくださる」という信仰を持って祈り続けるものになりたいですね。


さて、遣わされることになるモーセを見てみましょう。



2.あなたは何者ですか。

神様は言われました。
今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

モーセはどうしたでしょうか?
待ってました!主よ、その時が来るのをわたしは今までずっと待っていたのです!
とは言わなかったのです。

ちょっと待ってください。わたしは何者ですか?
ずっと前にエジプト人を怒りにまかせて殺してしまったのです。殺人者です。逃亡者です。
そんなわたしに何ができるのでしょうか?
はっきり言って私は、ただの羊飼いです。そんな大それたことはわたしには出来ません。

神様の声を聞いて従おうとする、その時、大切なことは
“わたしは何者か?” ということです。

モーセは自分を何者だと思っていたのでしょうか。
エジプト人を殺した犯罪者。
イスラエルの人達を救い出そうとして失敗した失敗者。
王を恐れて逃げだした逃亡者。

だから、モーセは神様の声にすぐに従うことが出来なかったのです。
なぜこんな私にそんなことができるのか・・・。

でも本当はそうではありません。
確かにモーセの過去は事実でしょう。
でもイエス様はそうは見ておられないのです。
同じ経験をしたとしても、私は何者であるのか?どのように自分を見るのか?ということは、あなた自身にまかされているのです。

あなたは何者ですか?

・罪赦された人です。
コロサ1:14わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

モーセは過去に犯した罪が裁かれることを恐れていました。
でもイエス様は裁きの神ではなく、赦しの神であること知らなくてはなりません。
過去にたいして、赦しを宣言しなくてはなりません。


・世界にたった一人しかいない、高価で尊い人です。
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

神様はあなたを何十億のうちの中の一人とは見ておられません。
歴史上たった一人しかいない存在としてみておられるのです。


・イエス様に愛されている人です。
3:7 わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

「私の民」これは私のもの、という意味があります。
イエス様があなたは私のものだ。といわれるのです。
それほどあなたは愛されているのです。
そして、十字架で命を捨ててまで救おうとされるほど、愛されているのです。


そして、モーセに「さあ、あなたをつかわしてエジプトから民を救い出します!」
とこの神様がいわれるのなら、それはモーセにしかできないのです。


イエス様はあなたの心に語りかけるかもしれません。
あなたを用いよう!と。
そんな時、わたしにできるわけがない!ではないのです。
イエス様が語られるなら、それは、あなたにしかできないことだからです。

すべてはあなたに委ねられています。
あなたはどちらを選びますか?
モーセの言葉のように自分を見ますか?
それともイエス様の言葉によって自分を見ますか?
イエス様の言葉を信じる人は幸いです。


3.主が共におられます。
なぜなら主が共に働かれるからです。
:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

イエス様が選ばれたそのしるし、それは主が共におられる、ということです。
これ以上のしるしがあるでしょうか。それは大きなはげましです。

マルコ16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。

主が言われるなら、その責任は主が取ってくださいます。
そして、主は共におられ、共に働いて、その実を結ばせてくださるのです。


結)あなたを通して
あなたを通してもイエス様が働かれます。
イエス様に呼ばれた時があなたが立ちあがる時です。
そして、立ち上がるなら、イエス様は共にいて働いてくださるのです。
それは、あなたにしかできないことをイエス様があなたを通してなされるからです。
応答できるなら、幸いです。

2009/11/08

09.11.8「イエス様があなたを呼ぶ時」

出エジプト3:1-10
:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」


序)不完全な私達を完全に用いられる方
みなさん、パソコンは使われるでしょうか。
今、このメッセージを読まれているということは、使われているのでしょう。
私はほぼ毎日使っています。
私は、クラリスワークスというソフトを愛用しています。でも、このソフトは、Win95版しかありません。それを今XPに入れて利用しています。
ですから、印刷バグなどがあり、完全には使えない状態です。
ウインドウズなので、ワードやエクセルを使えればいいと思い、やってみたときの話しです。
とにかく、何がなにやらわかりません。
改行するだけでも、文字がずれたり、おかしなことになってしまいます。

でも、ワードを使いこなす人がいます。
この人が作った文書は、なんでこんな文書が作れるんだ?と思うほどすごいものができます。
エクセルにいたっては、ちょっとしたソフトのようです。
ぼくはそれを使うだけでも大変です。

ワードやエクセルなどは、高機能ですごいことができるのでしょうが、使える人が使うとすばらしいものができるのに、使いこなせないぼくが使うと、ストレスはたまっても、成果はなかなかたまりません。

実は私達も同じなのです。
イエス様の御心を知り、それに従うことが出来れば素晴らしいのですが、なかなかそうはいきません。思いは良いのですが、方法が間違っていたり、神様の時でなかったり・・失敗の連続かもしれません。
そうです。私達は完全ではないのです。完全な方はイエス様のみです。
だから、安心してください。時々間違って良いのです。
でも、イエス様を愛し、イエス様に従いたい・・という思い、心を持っているならば、
イエス様は、不完全な私達を完全に用いてくださるお方です。

私が使ってもたいした成果はできないワード等も、使いこなせる人が使うと素晴らしい成果が出来上がるように、私達がイエス様に委ねるなら、完全に用いてくださると信じます。

モーセが持っていた思い『神の民であるイスラエルの人々を救いたい!』という思いは決して間違ってはいませんでした。でも方法や時が間違っていたのです。
そして、エジプトから逃げ出し、ミデヤンの地にやってきました。
でもそこでアブラハムの子孫である祭司とであうことが出来たのです。
モーセは不完全だったかも知れません。でも神様はそんなモーセの心を見ておられたのです。そして、モーセを呼ばれるのです。イスラエルの民をエジプトから救い出すために。
今日は、イエス様があなたを呼ぶ時・・・というテーマでお話します。
イエス様が呼ばれるのは、モーセだけではありません。
あなたも呼ばれるのです。素晴らしいイエス様の栄光をあらわすために。


1.イエス様が呼ばれた時・・モーセは羊を飼っていた。

モーセはエジプトから逃げ出し、ミデヤンの地で暮らすことになります。
そして羊を飼っていました。
神がエジプトからイスラエルの人々を導くためモーセの名を呼んだ時、彼は羊飼いだったのです。
実は、これはとても大切なことです。
それは、仕事で仕える、ということの大切さをあらわしているからです。

聖書には仕事をしている時に呼ばれた人が他にもいます。ペテロ・マタイ・ダビデ・・
ペテロは漁師でした。そしてひたむきに仕事をしていたのです。一晩中漁をしていたのですから。
マタイは収税人として働いていた時にイエス様が「私に従って来なさい」と呼ばれました。
またダビデは、(モーセと同じように)羊を忠実に飼っている時に選ばれたのです。
格好良くゴリアテを倒した後・・ではないのです。

Ⅰサムエル16:11 サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。

サムエルがイスラエルの次の王となるべき人がこの家にいる、といってやってくれば、
ひょっとして私かもしれない・・と思ってまっているのが普通でしょう。
でもダビデはそんな時も羊を飼っていたのです。与えられた仕事を忠実に仕えていました。
モーセも同じです。
祭司の娘と結婚したのですから、祭司になっていれば良かったのに・・と考えたことはありませんか?その方がなんだか良さそうですね。
でもイエス様はあえてそうはされなかったのです。
普通の仕事を、忠実に仕えている時に・・・です。

教会では霊的・・という人が注目を浴びますが、私はそうばかりではないと思います。
もちろん、祈り、イエス様の臨在を感じることはとても大切です。
出来るだけ敏感になりたいものです。

私の好きな御言に、、
Ⅰコリント1:22-25
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

しるしや奇跡、知恵を求めるのは異邦人です。
そうではなく単純に十字架にかかられたイエス様を愛する心・・・それが大切です。
私達は、社会や学校でこそ人間関係や色々な問題、試練を経験するのではないでしょうか。
そこで忠実に仕えることができなければ、どうしてイエス様に忠実に仕えることができるでしょう。

マタイ25:40
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
エペソ6:6-7
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。

たとえあなたが聖書とは全く違う仕事をしてたとしても、あなたが忠実に仕えているなら、それはイエス様に忠実に仕えているのと同じことなのです。
イエス様はあなたが何をしたのか、ではなく、いつもあなたの心を見ておられるからです。

わたしは今までいろんなところで仕事をしていました。
学生の時にはいろんなバイトもしてきました。
やめたいと思ったこともありますし、実際にやめてきて今があり、
今も仕事をしています。聖書とは遠い仕事です。
でも、それらの仕事での経験は、どんな聖書学校でも習うことの出来ない多くの学びがありました。その中でいかに忠実に仕えるのか・・、ということもとても重要です。

そしてそんな時こそ、イエス様があなたを呼ばれるのです。
さあ、あなたをわたしの栄光のために用いよう、と。
あなたのまわりの民を救い出すためにあなたを用いよう、と。
信じましょう。そしてイエス様の御声に耳を傾けましょう。



2.イエス様が呼ばれた時・・柴は燃えていた。

さて、モーセは燃える柴を見つけます。
あれはなんだろう?不思議なものがあるなあ・・・と思って近づいていきます。
炎が輝いているのです。

3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

イエス様の臨在がある時、柴は燃えているのです。
私達もイエス様の臨在に触れるなら燃えるのです。
私達の心が燃えるのです。

ルカ 24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達は、イエス様と話しをしているうちに心が燃えてきたのです。
おお!そうだ!そうだ!・・御言は私達の心を燃やします。なぜなら、それは単なる言葉ではないからです。
イエス様の命、生ける御言です。弟子達は御言を通してイエス様の臨在に触れたのです。
燃えること、そして輝くこと・・・それはとても重要なことです。

燃やされるなら、それは力です。
焚き火が燃やされているところは、暖を取ることができますから、人が集まってきます。人を引き寄せる力があるのです。しかし、燃えていない木がそこにあっても、人は集まってきません。
燃やされている人とそうでない人の違いも同じように出てくるでしょう。

輝くなら、それは力です。
光り輝いている場所に人は集まります。虫も寄ってくるでしょう。
輝きに力があるのです。輝く人とそうでない人の違いもまたそのようでしょう。

燃える柴を見てモーセが近づいてきたように、燃えている輝いているあなたを見て人が近づいてくるかも知れません。
私達は、イエス様の御言を通して心を燃やしましょう。
どんな時もワクワクするような希望があなたを包むのです。
どんな時も、輝く炎のように輝いているのです。

そして、本当に主にあって燃やされているなら、燃え尽きないのです。
炎の中の柴が燃え尽きなかったように。。。
一時的な感情だけで燃やされているなら、燃え尽きてしまうでしょう。
それはまさに燃えているからです。明日のジョーのように、真っ白な灰になっちゃうかも。。

私達は、イエス様によって、生ける御言葉によって燃やされましょう。
その炎は燃え尽きない炎です。

結)イエス様は「あなた」の名前を呼ばれる。
神様はモーセの名前を呼ばれました。
それは、神様はすべてを知っているということです。
そして個人的にあなたと出会いたいと願っておられるのです。
そして友達どうしのような親密な関係をイエス様は持ちたいのです。
それはあなたを満たし、心を燃やし、輝かすためです。
イエス様の臨在に触れましょう。
イエス様の御言葉に触れましょう。

2009/11/01

09.11.1「イエス様との関係」

ルカ 19:1-10
:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


序)イエス様がエリコに入って町を通っていかれた時の話しです。
その町にザアカイという取税人のかしらがいました。
このザアカイがイエス様を見ようとやってきたわけですが、見れません。
なぜ見れないのか。。。それは群衆にさえぎられていたからです。ということは、イエス様の通る道の両側にはたくさんの人がいたわけですね。
そこで、ザアカイはそこにあったいちじく桑の木に登ってイエス様を見ようとしました。
そのザアカイとイエス様との関係から、わたしたちとイエス様の関係を見ることができます。
共に見ていきましょう。


1.イエス様は個人的に関わって下さる

イエス様は木に登っていたザアカイに向かって
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
と言われました。
ザアカイは急いで下りてきて喜んでイエス様を迎え入れました。
イエス様が個人的に関わられたことをみていきましょう。

①「ザアカイ」・・・名前を知っておられた。
イエス様はザアカイとは初対面なのに、名前を知っておられたのです。
もし、天皇陛下が通られる時に、その群衆の中にいて、目の前を通っていかれる時にふと止まって、「○○さん。急いでこちらに来て下さい。今日あなたの家に・・・」と言われたらどうでしょう。「なんでぼくの名前を?」と思うでしょう。
イエス様はザアカイと個人的に関わるために名前を呼ばれました。
みなさんは、イエス様にはじめて祈った時どう祈りましたか?
「イエス様、はじめまして。ぼくの名前は○○○○○です。以後お見知りおき下さい。
さて、早速ですが私は罪人です・・・」なんて祈られましたか?
そんな祈りしてませんよね。
「イエス様、私は罪人です。私はあなたを信じます・・」と、自分の名前なんて名乗ってません。
これはどういうことでしょう。そうです。イエス様は私達がイエス様を知る前から私達の名前をご存知なのです。
だからザアカイの名前も知っておられた。きっとザアカイの近くにいた人も、またそこにいた群衆の全ての名をご存知であったと信じます。
イエス様は私達の名をご存知なのです。
教会では、牧師はあなたのことを、10人の教会なら10ぶんの1としてしか見れないかもしれません。200人の教会なら200ぶんの1としてあなたを見ることしかできないかもしれません。これは牧師は人間なのですから仕方のないことです。
しかし、イエス様はあなたを1ぶんの1としてみて下さり、関わって下さるのです。
最初からイエス様は私の名前を知っていて下さり、その名を呼んで下さる方なのです。
それほど親しく個人的に関わって下さっているのです。


②「あなたの家に泊まることにしてある」・・・時間をかけて関わって下さる。
泊まるということは、ゆっくりと交わることをさしますよね。
別に夜更かしするとは限りませんが。。
それほど親しく交わることができ、お互いを知ることができるのです。
ザアカイもイエス様のことをよく知ることができ、親しくなったことでしょう。

イエス様はこのように個人的に親しく関わって下さるのです。
「個人的な関係」これがイエス様と私達の関係の一つですね。


2.イエス様は罪人と関わって下さる。

人々はつぶやきました。「彼は罪人の家にはいって客となった」と。
イエス様は罪人と関わって下さいます。

皆さんはこんな経験ありませんか。
「自分はなんて罪深い人間なんだ。汚れたものだ。神の前に立つにふさわしくないものだ。。。」と思い、神の前に出られない、いくことができないと思ったり、祈れないと思ったり、礼拝にいけないと思ったり。。。
「もう少し神の前に立てるようになってから。。。」と思ったことはありませんか?
イエス様は罪人と関わって下さる方です。
神の前に立てないと思えるような自分、汚れていると思える自分・・・その自分のままで個人的に関わって下さるのがイエス様です。
だから、そのままでイエス様のもとに行けばいいんです。

また、全ての人は罪人です。
私もあなたも。。。
罪許された罪人か、罪許されてない罪人か、の違いはあるかも知れませんが。
ですから、イエス様は全ての人(罪人)と関わって下さる方であることがわかります。
しかし、この箇所では周りの人々がザアカイを罪人呼ばわりしているのですから、同じ罪人同士、人間同士で見ても罪人と見られていたザアカイでさえ、イエス様は関わっていかれたのです。
ですから、私たちもどんな状態であったとしてもイエス様は関わって下さることを知りましょう。


3.ザアカイは個人的に応答した。

さて、イエス様と個人的に関わってもらったザアカイはその後どうなったでしょうか。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

まず、自分の財産の半分を貧民に施すと言いました。
これは、大切な戒めである「自分を愛するように隣り人を愛する」に応答しているのかも知れません。
半分は自分を愛するように自分の為に、もう半分(同じだけ)は隣り人を愛するためにお金に不自由している貧しい人に施すという応答です。
これはザアカイの個人的な応答です。
皆さんが同じことをする必要があるといっているのではありません。
神様の前に自分が個人的に応答できれば本当に幸いです。

もうひとつ、「だれかから不正な取立をしていたら、4倍にして返す」です。
出エジ22:1に、「牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」とあります。
ザアカイはこの羊を盗んだ時の償いである。4倍にして返すということに応答したのでしょう。
『御言葉に応答した』のでしょう。
私たちも神様の前に応答する時、ある時は御言葉に応答しましょう。
これは御言葉を聞くだけでなく、御言葉を聞いて行うことの実践であるといえますね。

私たちも個人的にイエス様に応答したいですね。


結)さて、その時、イエス様はなんといわれましたか。

「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

救いを宣言されました。

そしてこの言葉に注目しましょう。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」

失われていたザアカイを尋ね出して救われたのです。私達も失われていた者ですが、イエス様が探し出して救って下さった。

エゼキエル34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

イエス様自ら尋ねて探し出して下さるのです。
既にイエス様を知っている私たちはどうすべきでしょうか。
イエス様に近づきましょう。イエス様のもとに行きましょう。
ザアカイがイエス様の近くに行ったように。。。
そうしてもしていなくてもイエス様は私たちを尋ね、探し出し、個人的に関わって下さるのです。
このイエス様に応答する人は幸いです。