2008/08/31

08.8.31「一番大切ないましめ 」

マタイ 22:34-40
:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:38 これがたいせつな第一の戒めです。
:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

マルコ12:28-31
:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

申命記 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

レビ記 19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。



序)聖書にはたくさんの戒め、約束、教え、勧め・・・などありますが、モーセの十戒でもわかるように、戒めはとても大切です。約束や教え、勧めなどは、そうしなければならない、というほどの強い拘束力もありません。
でも、戒めは、「・・・しなければならない。・・・しなさい。」といったような強い拘束力をも持ったものであると思います。
では、一番大切な戒めは・・・それが今日の御言葉です。

しかし、そのことを学ぶ前に、ひとつ確認しておきましょう。
Ⅰヨハネ4:7-11--
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって・・・

「まず神が私たちを愛して下さった。愛して下さっている。」ということを確認しましょう。
・十字架の死 ・罪からの救い、解放 ・永遠の命 ・今も共にいて下さる etcによってもわかります。
勿論、聖書に書いていますしね。

そして、今日このことだけは、心に留めて下さいね。
頭に覚えるだけではなく、心に留めるんですよ。
マリヤがイエス様の言動を心に留めたように・・・
頭でっかちのクリスチャンになる必要はありません。
心豊かなクリスチャンになりたいですね。

「まず神が私たちを愛して下さった。下さっている」

では、見ていきましょう。

1.「神を愛する」

2.「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」

聖書でもっとも大切な命令は?「大宣教命令」?
いいえ、神を愛し、人を愛すること(このメッセージの箇所)です。
大宣教命令もかなり大切な重要度の高いものであることは確かです。
でも、今日の箇所の方が大切です。

人には私たちの心が伝わります。
本当にその人を愛して、その人のことを思っているのか?本心から?
例えば誘って教会に来てくれたら(素晴らしいことです)、
そして、これからも続けてきてほしい。是非、イエス様の愛を知ってほしい。イエス様に出会ってほしい。本当の救いに導かれてほしい、、、そのように願い、祈り、更に行動するなら素晴らしいことですし、それは、愛、ですね。

でも、私は宣教の義務を果した。信じるかどうかはこの人次第、血の責任はこれで私にはない。などという本心が奥底にあるなら、それは本当にその人を愛している行動といえるでしょうか?

本当に愛しているとわかるまで、何もできないかも知れません。
愛するから、救われてほしいと願うのであり、役に立ちたいと思う。
だから、宣教があるんです。教会が大きくなるためでも、教会が組織化するためでもありません。
神がその人(全ての人)を愛しておられる。わたしもその人を愛している。
だからその人に仕え、その人を助け、その人を救ってあげたいと願う。
そして、イエス様の救いに預かって欲しいと願う。。。

勿論、行動が先立つ場合もあります。
そこに、愛があるのか?と言われてもよくわからないけど、とにかく救われてほしいと願い伝道することもあるでしょう。
それもありです。自分の中に愛がないと思うなら、愛なる神様に、愛を求めればいいのです。
そのように、伝道等の行動が先立ち、そこに愛を求めて、神を愛し、人を愛するということもあります。

とにかく、全ての土台、全ての動機は、「愛」からであるということです。


モーセの十戒で見てみると、
出20:3--
●神を愛する
・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
・あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
・あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
・安息日を覚えて、これを聖とせよ。

●自分を愛するように隣り人を愛する
・あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
・あなたは殺してはならない。
・あなたは姦淫してはならない。
・あなたは盗んではならない。
・あなたは隣人について、偽証してはならない。
・あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない

他にも、聖書のあらゆることは、「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」時に、全うされるのです。

3.これらふたつのいましめに、律法全体と預言者とがかかっている。
聖書に書いてあることを実践しようとする。つまり、戒めを守り、教えに従い、約束のために行動し、勧めを受けていく・・・言い換えれば御言葉に生きようとすることは、全てこのふたつの戒めに集約できるのです。
全ての土台なのです。

賛美し、礼拝するのは、神を愛しているから。
聖書を読むのは・・・
祈るのは・・・
交わるのは・・・
助けるのは・・・
話しを聞くのは・・・
福音を伝えるのは・・・
仕えるのは・・・
教えるのは・・・
  全て、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するから、することであり、できること。

救われる為には何をすればいいのですか?>>悔改めて、イエスの名によるバプテスマを受ける。
救われた後は何をすればいいのですか?>>>神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。

難しい神学や教えを理解しないとクリスチャン生活はできないのでしょうか?
学びたい人は学べばいいと思います。否定はしませんが、多くの人は、もっとシンプルな生活をしたいと願っていると思います。
神もまたいわれています。
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛しなさい」と。
そうする時に、御言葉に生きることが御言葉を知らない人にも成就していくのです。

そして、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するのは、
まず、神が私たちを愛し、今も愛し続けて下さっているからなのです。ここに動機があり、根拠があります。

サマーカンファレンスを通して、素晴らしい恵みをいただきました。
まさに神さまが私たちを愛してくださっているからです。
そして、私たちはこの神さまを愛するがゆえに、応答しようとしているのではないでしょうか。
それぞれが示されたことがあるでしょう。思わされたこともあるでしょう。
私も自分の今のいろんなことに対して、少しずつですが、取り組んでいく決心をしました。
どのように取り組んでいくべきなのか、主に聞きながら御言葉をいただき、行動していきたいと願っています。

オアシスチャーチの基本理念は、このメッセージです。

「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する人、教会を目指す」

この朝、わたしたちを愛してやまないイエス様が一番大切な戒めとして言われている
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」ことに一歩踏み出せる人は幸いです。

2008/08/24

08.8.24「主のみこころは何であるか」

エペソ5:15-21
:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

序)祝福されたカンファレンス
先週は、祝福されたカンファレンスの時がもたれて感謝でした。
イエス様が私たちを覚えてくださっており、必要な恵みを与えてくださり、本当に素晴らしいときとなりました。
私たちがこの恵みと祝福から、成していくことを確認していきたいと思います。

1.神に感謝する。

:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

まずは、素晴らしい神様の恵みと祝福を感謝しましょう。

私たちは神様との素晴らしい契約がなされているのです。
罪人ですが、罪のないもののようにされている。罪赦されたものです。
そのままで、受け入れられ、価値があり、愛されているのです。
だから、このカンファレンスも素晴らしい恵みと祝福が用意されていたのです。

主に、感謝を数えましょう。そして覚えましょう。
主に感謝の賛美を捧げましょう。喜びの声をあげましょう。
それは、神様の御心にかなったことだからです。


2.主のみこころを悟り、行動する。

:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

このように救われた私たちは、天国への約束が与えられただけでなく、まだ、この知らせを知らない人への使命をも与えられています。
そして、長年それをやってきたけど、救われない家族や友人がいるかもしれません。
でも、イエス様はあきらめておられません。
感謝です。イエス様があきらめておられないのですから、私たちもイエス様と同じ目をもたせていただきたいですね。
聖霊によってそれも可能です。
主は必ず救ってくださいます。感謝です。

長く同じことをやってきたけど、だめだったから、もうだめかもしれない。
と思っているなら、その根幹をひっくり返しましょう。
パラダイムシフトという言葉を使っておられましたね。
そのためには、私たちは意識して心を一新していく必要があります。
それらもまた、神が私たちにしてくださるのです。
神が私たちにしてくださるというのは、何もせずにじっとしていればいいのではありません。
神様に求めるのです。
求めなければならない、、のではなく、
求めることができる、、のです。なんと素晴らしい恵みでしょう。
神様の御心がどこにあるのかを悟る為に、主に祈りましょう。
そして、御霊によって悟らせていただき、いろいろな機会を十分に生かして用いるものとなりましょう。
これが神様の前に、私たちが与えられている素晴らしい使命であり、行動です。
小さなことでも構いません。神様から示されたなら、それを行動に移しましょう。
その時に神様は素晴らしい御業をなしてくださいます。


結)結果は主に委ねる。
私たちが主への感謝を数え、感謝をささげ、賛美を捧げていくときに、
結果、私たちの心に喜びがますます湧き上がります。
私たちが主の御心を求めて祈り、悟り、行動していくときに、
結果、主がすばらしい御業をなしてくださるでしょう。

しかし、私たちは、それらの結果を求めるものであってはならないと思います。
私たちが求めるのは、イエス様です。
このイエス様に感謝を捧げることが素晴らしいことなのです。
このイエス様と同じ目で、使命に生きることが素晴らしいことなのです。
それらによってもたらされる結果は、主に委ねましょう。

結果に目を向けるならば、結果が見えないと、イエス様に目を向けることさえ困難になってしまいます。でも、イエス様に目を向けて、イエス様を求め続けるならば、私たちは、いつも主に目を向け続けることができるでしょう。

:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

イエス様に結果を委ね、イエス様の御心がなんであるかを求めて祈り悟り行動する人は、イエス様を恐れ尊んで、互いに主に仕えるように仕え合い、赦しあい、愛し合い、従うことができるのです。
この素晴らしい恵みに、今日、さらに進んでいくなら、幸いです

2008/08/10

08.8.10「イエス様に近づこう」

ヘブル4:14-16
:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

序)イエス様に近づくとき
今週はいよいよサマーカンファレンスがあります。
毎週の礼拝や、日々の主との交わりを通しても、イエス様に近づくことはできますが、特別に長い時間や期間を通して、イエス様に近づくことは、素晴らしい恵みです。
今日はそんなサマカンを前に、イエス様に近づこうと題して、分ち合いたいと思います。

順に見ていきましょう。

1.イエス様は大祭司 :14

祭司とは、神と民の間で執り成す役割をする人です。
民の罪を羊等に負わせ、その羊をほふり、そのささげものをもって、神の前に立ち、民の罪の赦しを求めて執り成す人です。
民は神の前に直接立つことはできず、祭司を通して神様にささげものをしたりしていたわけです。

今は、私たちはイエス様の十字架のあがないによって、神様と交わることができるようにされています。
まさに、イエス様が祭司となって下さっているわけです。

だから、信仰の告白を堅く保とうではないかと勧めています。

私たちの信仰の告白が虚しく終わることもなく、無駄になることもないからです。
それは、イエス様が偉大な大祭司としていてくださるからです。

先日、内閣の改造がありました。
総選挙がまたあるのかもしれません。
どちらにせよ、私たちの声が届くことはなかなかありません。
なかなか私たちの声が届かないというのが私たちの現実の生活での実感です。

でも、神様に対して、声が届くという素晴らしいことがあるのです。
だからこそ、「信仰の告白を堅く保とう」と勧められているのです。

祈ったことは既になったと信じなさいとありますが、これも信仰の告白ですね。

こんな話しがあります。
昔、ある村で雨が長い間降らないので、作物にも悪い影響が出てきて困っていました。
その村の教会では、雨が降るように、神様に祈る祈り会がもたれていました。
その日も祈り会のある日でした。
ある婦人は、その日もいつものように祈り会にいく予定でした。
家では「早く祈りが聞かれて、雨が降ってくれないかねぇ」といっていました。
そして、祈り会にいく為に、教会へいこうと家を出ようとしたときに、
子供が言いました。
「お母さん、傘は持っていかなくていいの?」
お母さんは言いました。
「何いってるんだい。こんなにいい天気なのに、雨なんて降るわけないでしょ」
すると、子供は言いました。
「でも、今から神様にお祈りするんだから、帰りは雨が降るんじゃないの?」
おかあさんは「・・・・・」

子供は神様を純粋に信じているんですね。
だから、イエス様も幼子のようにならなければ神の国に入れないとさえいわれたのでしょう。

私たちは、大祭司であるイエス様がおられるのですから、信仰の告白を辞めるものではなく、堅く保つものになりたいですね。


2.イエス様は弱さを知っておられる :15

この大祭司なるイエス様ですが、私たちの弱さを知って下さっているのです。
同じように地上での罪の誘惑の世界を歩まれて、同じような試みに合われたお方です。
しかし、私たちと決定的に違うことは、罪を犯されなかったということです。

イエス様は罪を犯されなかったからといって、私たちの弱さを見て、軽蔑されることはなさいません。
その弱さに同情して下さる、その気持ちを分かって下さる方なのです。

ダビンチコードという映画が以前ありました。
ぼくは見てませんし、原作も読んでませんから、よく知りませんが、
ダビンチが書いた絵等に暗号のようなものが仕組まれており、イエス様はマグダラのマリアとの間に子供がいて、今もその子孫が続いているというようなことが描かれているらしいですね。
キリスト教のことをよく知らない人が見れば、
「もしかしたら、そうかもしれないんだなぁ。結局、宗教の一つで、そんなもんかぁ」って思われるかも知れませんね。
これが本当なら、イエス様は罪を犯されたことになります。
はっきり言っておきましょう。
100%ありません。
イエス様は罪を犯されなかった神の子です。

でも、私たちの弱さを理解してくださる理解者でもあるのです。
素晴らしいですね。
きっとマグダラのマリアの弱さも理解し、同情されたでしょう。
だから、マリアはイエス様に従う人生をその後歩んだのだと信じます。

イエス様は、あなたの弱さもご存知で理解して下さるお方なのです。


3.イエス様に近づこう :16

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは弱さを持った罪人です。イエス様の十字架がなければ、神の前に立つことなど到底できないものです。
でも、イエス様はわたしたちの為に、十字架にかかり、その全ての支払いをして下さって、神様と私たちとの断たれていた関係の間に入って執り成して下さる大祭司として今もいて下さるのです。
このあわれみと恵みを受けることが赦されています。

なんという素晴らしいことでしょう。
そして、更に、あわれみと恵みを受けて、おりにかなった助けを受けることも約束されているのです。
その為に勧められているのが、「大胆に恵みの御座に近づこう」ということです。

恵みの御座とは、
祈り、礼拝、賛美等、神様と交わり、神様を思う場所がそうではないでしょうか。

「わたしは弱いもの、神様の前に出ることなんてできないもの・・・」と思い、遠ざかっていないでしょうか。

神様はもうすでにそんなことはご存知です。
あなたの罪も弱さも嘆きも悲しみも・・・。

だから、あなたも受けることができる「あわれみと恵み」を用意して下さっているのです。
それは、イエス様の十字架による救いです。
このイエス様の救いを受け入れたなら、更に受け続けるために、恵みの御座に近づくものになりたいですね。

2008/08/03

08.8.3「あなたの前に開かれる門」

黙示録3:7-13
:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

序)人生を切り開くのは・・
あなたの人生を切り開くのはあなたです。という言葉はよく耳にしたことがあるかと思います。
確かにそういう面はあるでしょう。
でも、自分だけではどうしようもない面があることも事実ですね。

今日は読んでいただいた箇所から、「あなたの前に開かれる門」というテーマでお話します。

1.だれも閉じることのできない門

:8見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。

イエス様は、だれも閉じることのできない門をあなたの前に開いておいたと言われています。
私たちは自分の人生は自分で切り開こうとします。
それは、素晴らしいことです。
でも、それだけではどうしようもできないこともあるのです。
でも、ここにそのヒントがあるのではないでしょうか。

あなたの人生の歩みの中で、あなたの前に開かれる門があるのです。
そして、その門はイエス様が開いてくださるのです。
あなたの力では開くことができない門です。

「タイミング」という言葉がありますが、よく「~~はタイミングだ」なんて言います。
結婚はタイミング?不動産の売買はタイミング?

自分が結婚したいと思っても、相手がいなければ結婚できません。
自分だけではどうしようもできない部分があるのです。
でも、あるとき、心ときめく人が現れました。
結婚のタイミングでしょうか?
いえ、まだわかりません。相手もあなたに結婚を意識するのかどうかわからないからです。
お互いの気持ちが結婚に向いたとき、それがタイミングなのかもしれません。
その部分は、イエス様が門を開いてくださったときだということなのかもしれません。

土地を買って、家を建てたいと思ったときに、自分の思うような場所に、地域に、向きに、環境にその土地があるかどうかわかりません。
その土地、場所は、そこにしかない、世界でただ一つのものです。
まさにタイミングが大切です。

これらは、主がその門を開いてくださったということなのかもしれません。

神様は、一人ひとりの人生それぞれにスポットライトを当ててくださっています。
あなたには、あなたの門があるのです。
そして、それは誰にも閉じられたり、開かれたりされることはありません。
そして、あなたが開くことも閉じることもできないのです。
その門を唯一、開いたり閉じたりできる方が、イエス様です。

:1に
・・『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
とあるように。。

さて、あなたの門は開かれているでしょうか。
イエス様が開いてくださっているでしょうか。
イエス様にあなたの門を開いていただく為に必要なことは・・・


2.御言葉を守り、主の側に立つときに 

:8なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

神の言葉を守り、イエス様の名を否まなかったから、あなたの門を開いておいた、といわれます。

御言葉を守り、イエス様を自らの主として公言していくときに、イエス様は誰も閉じることのできない門を開いてくださるのです。

すぐ後の9節に、
黙示録 3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
とあります。

ここが、御言葉を守り、イエス様を否まないということと関係あるのではないかと思います。

ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなく、うそを言っているサタンの会衆に属する者たちがいるということがまず聖書に書かれているということは、そういう存在がいるという事実を受け止める必要があります。
そして、その者たちが、あなたの足元にきてひれ伏して、あなたをイエス様が愛していることを知らせるというのです。

御言葉を守り、主を否むことせず、主の側に立とうとするなら、それをさせまいとする力が働いてくるということは想像できます。
少なくともサタンは、あらゆる手段を使って、そのようにしてくるでしょう。
その一つが、ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなく、うそを言っているサタンの会衆に属する者たちによるということを示しておられるのではないかと思うのです。

少なくとも、私たちはサタンのあらゆる妨害に対して、たとえ少しばかりの力しかなかったとしても、御言葉を守り、主の側に立っていくなら、サタンさえ、閉じることができない門を主が開いてくださるのです。

イエス様に、あなたの門を開いていただく為にも、御言葉を守り、イエス様を否まず、主の側に立ち続けるものでありたいと思います。


結)あなたの前に開かれた門に向かって
あなたが、御言葉を守り、イエス様を否まず、主の側に立つならば、イエス様はあなたの前にだれも閉じることのできない門を開いてくださいます。
さて、あなたは、どうするのでしょう。
その門から入っていくこともできますが、入らないこともできるのです。
私は、その門から入って、イエス様の用意されている素晴らしい人生を歩みたいと願います。
イエス様があなたの前に門を開いてくださっているのなら、あなたは入って進んでいくべきではないでしょうか。
あなたにだけイエス様が用意してくださっている門から、入っていくなら、幸いです。

最後に、全ての人に開かれている門について触れておきましょう。
それは、「救いの門」です。
イエス様は、地上の生涯の最後に十字架に架かられました。
それは、全ての人の罪を身代わりに背負って処罰を受けられたのです。
あなたの罪もそこでイエス様は帳消しにしてくださったのです。
そうです。救いの門をイエス様が開いてくださったのです。
この門は、今すでにあなたの前に開かれています。
あなたは、その門から入って、イエス様の救いを受け取りますか。
それともその開かれた門には入らずに、救いを拒否するのでしょうか。
実はこの門はいずれ閉じられるときがきます。
それが、世の終りです。そして、あなたがその門を入るために与えられた時間も限られています。
あなたが生きているうちです。
あなたは、死んでから救いの門を入ることはできません。
だから、あなたは、生きている今、イエス様があなたのために開いてくださっている救いの門から入っていって、この救いを自分のものとしてください。
そして、イエス様はあなたがまだそれを受け取るかどうかもわからないうちから、あなたを愛するがゆえに想像を絶する痛みと苦しみの末、命を捨てて、救いの門を開いてくださったのです。
あなたがこの地上で唯一の存在であり、イエス様が宝物のように愛しておられる存在だからです。
救いの門を入って、このイエス様のもとへ進んでいきましょう。
そこに、あなたの答えがあります。

祈りましょう。