2007/07/29

07.7.29「御言によって」

1ペテロ1:22-25
:22あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
:23あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
:24「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
:25しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

序)御言葉とは・・
御言葉とはどういうものであるのかを今日読んだ箇所から、いくつかみたいと思います。


1.真理

御言葉とは「真理」です。

御言葉が受肉したのが、イエス様です。
そして、イエス様は「私は道であり、真理であり、命です」と言われました。
ここからも、御言葉とは「真理」であることがわかります。

:22を読むと、心から熱く愛し合いなさいとありますが、これは、イエス様が新しい戒めとして言われた「互いに愛し合いなさい」という御言葉です。
これを実践するために、魂を清め、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったとありますが、そうなったのは、「真理に従うことによって」とあります。
真理に従うことによって、魂が清められ、偽りのない兄弟愛をいだくに至るということです。

つまり、御言葉に自分を従わせることによって、御言葉を実践するために必要も満たされ、御言葉を実践することができるようになるということです。

御言葉は真理です。真理は変わりません。
私達は御言葉を実践したい、御言葉の実を結びたいなら、その真理なる御言葉に自らを従わせることが必要であることもわかります。

互いに愛し合うための愛がない、という人は、イエス様に求めましょう、ということもお勧めします。
また、戒めを守ることが出来ないという人にも、イエス様に求めましょう、と言うでしょう。
しかし、ここでもうひとつ方法がかかれてあるように思います。
それが、「真理に従うこと」つまり、「御言葉に服従すること」です。
これはまた、いろんな意味合いがあると思いますが、一つ一つ詳しい解説はできませんが、
戒めを守ることもそうですし、聖書の言葉が神の言葉であることを疑わずそのまま受け入れることもそうだと思います。
また、自分にはそんなことはできないというような御言葉を否定するような思いを持つのではなく、御言葉にあるから私でもできるようになると信仰を持って告白し前進することもそうでしょう。

御言葉に服従するとき、御言葉を実践する為の必要も満たされてくるのです。
あとはあなたがそれを用いて実践するかどうかになってくるのでしょう。

御言葉によって、御言葉の実を結ぶ備えがされるのです。
そして、御言葉を実践していきたいですね。


2.朽ちない種

御言葉とは「朽ちない種」です。

私達が新たに生まれたのは、朽ちない種すなわち、神の変わる事のない生ける御言によったとあります。

朽ちる種とは、アダム以来の人間の種であり、必ず死を迎える、朽ちる命です。
朽ちない種とは、神様からの死さえも支配している永遠の命に種と言えるでしょう。

私達の体は朽ちる種によっていますし、この世の中もそうでしょう。
途中で変わってしまうこともありますし、朽ちてしまうこともあります。
人間から出ているものは、朽ちるものです。

しかし、御言葉は変わりません。朽ちない種です。
だから、信じていいのです。朽ちないから、不変だから、永遠の命が与えられるのです。

この御言葉によって、新たに生まれた人は幸いです。
まだ、そうじゃない人にも、朽ちない種によって、新たに生まれることができることを是非伝えていきたいですね。


結)御言葉によって
:24「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
:25しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

私達に伝えられた御言葉は、とこしえに残る、朽ちることのない、不変の真理であるものです。
そして、この御言葉が福音であり、福音によって私達は救いを得ることが出来るのです。

イエス様が私達を愛してくださっていること、その愛ゆえに私達のために命をささげて十字架に架かってくださったこと、死なれ葬られ、三日目に復活して朽ちない種によって新たに生まれることを示してくださったこと、死に打ち勝たれたこと、私達に救いを無条件で与えられること、
これらは全て御言葉を捜し求めれば、得ることが出来るようにしてくださっているのです。
そして、この恵みに預かるのは、御言葉によるのです。

御言葉によって導かれ、御言葉によって救われ、御言葉によって御言葉の実を結び、御言葉によって生かされる人生とは、なんと素晴らしいでしょう。

御言葉によって、あなたの歩みを確かなものにするなら、幸いです。

2007/07/15

07.7.15「信仰によって」

ヘブル11:1-12
:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

序)信仰によって・・・
ヘブルの11章は「信仰とは・・」で始まり、「信仰によって・・」という言葉でたくさんの信仰者について書かれています。
私たちは、「信仰」という言葉をよく使いますし、よく聞いてきました。
今さらかもしれませんが、今日は私が最近教えられたと感じている「信仰」について分かち合いたいあと思います。

1.信仰とは・・
「信仰」というのは、
1節に
新改訳「望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるもの」
口語訳「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」
とあります。
このまま受け取ればいいですし、それぞれが主に教えられていかれたら、素晴らしいと思います。
ここからは私の解釈であり、私が教えられていると感じている内容になります。

私は先週、携帯を機種変更しました。
キャンペーンの案内が来ていて、いろいろと考えた上で、「この機種に変えたいなぁ」と思うようになってきました。
HPで、その機種の性能や特徴、どういったことができるのか、また、どんな機能があって、どんな大きさなのか、操作性はどうなのか、、、等、調べました。
ネットの口コミでの評判も読みました。
そして、いつしか、自分が使ったときのことを想像して、シュミレーションしていました。
「こんな場面で、これならこうやって使えるなぁ」
「仕事で、こういう使い方ができるかも知れないなぁ」等など。。。
そして実際に機種変更したときに、自分の場合、どの程度の費用が必要なのか、どういった契約が必要なのか、、といったことを知りたいと思い、ショップへ出向きました。
すると、思ったよりも費用がかかることがわかりました。
一旦帰って考えることにしました。ショップ店員がしつこく勧めたり引き止めたりしなかったのは好印象でしたが。。
そして、考えた結果、機種変更することにし、ショップに向かいました。
そして、現在この機種を持っているのです。
実は、ショップへ一度行って、帰ってきた時点で、ほとんど変更する気持ちになっていました。それでも一度冷静に考えてから決めようと思い、そのようにしたのです。
キャンペーンハガキが届く前は全くそんなことは考えていませんでした。
ところがその機種に変更したいと思うようになってからは、自分の中ではその機種を使っているイメージが出来上がっていたのです。
そして、今それが現実をなっているのです。

ここにも「信仰」を理解する上でのヒントがあると思うのです。

私たちが望んでいる事がらを保障(確信)し、目に見えないもの(まだ見ていない事実)を確信させる(確認する)のです。

まだ手に入れてない機種を自分の中で手に入れたイメージを持って、それを持ち続けていったときに、手に入れる行動をしていくことになったのです。
もし、この機種はいらない、と思っていたなら、いろいろ調べたりしたとしても、手に入れなかったでしょう。

ダイエットを開始して今日で三ヶ月になりました。
何キロとかの数字は、予想できませんでしたが、痩せた自分をイメージして今日まできました。
結果、3ヶ月で6キロ減という目標を突破して、3ヶ月で9キロ減でした。
4ヶ月前には想像できなかったのです。
3ヶ月前に、「3ヵ月後、自分は痩せていて、こうなっている・・・」というイメージを持ち続けてダイエットに取り組んだとき、そのダイエット方法が何であれ、それはもう3ヶ月前に成功していたのです。
これだけ聞くと何か自己啓発セミナーみたいですが(笑)、
信仰とはそれと共通するものがあるのではないでしょうか。

今のあなたは、何ヶ月か、何年か前のあなたが作ったのです。
誰のせいでもありません。
それは同時に、何ヶ月か先のあなたは、今のあなたが作るということでもあるのです。

三ヶ月前に私が、三ヵ月後は痩せていて、その体を維持する為にどのような生活を送っているかをイメージし、三ヶ月前から三ヵ月後の痩せた自分と同じ生活をしてきたときに、三ヵ月後に痩せた自分を現実のものとしたように、
今のあなたが、何ヶ月か後の自分をイメージし、それが実現したあなたがそのときにしていることを今はじめるのです。

「信仰によって・・」と先人たちがいろんなことを実現し、信仰のゆえに称賛されたのは、まだ見ていない事実を確認していたからなのです。

ノアは、まだ見ていない洪水を見て、箱舟を造りました。
アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しを受けた時、それに従い、行く先を知らないで出て行ったのです。

昨年、E宅で子供クリスマス会をしました。
これも、E夫妻が自宅で子供の友達を呼んでクリスマス会をやったら、いい証の時、伝道の時となるんじゃないか・・という思いが、実現していったのです。
まさに、「信仰によって・・」です。
そして、そこに、神様はたくさんの子供たちを送ってくださいました。


ここで、注意すべきことがありますね。


2.望んでいる事がら

それは、「望んでいる事がら」です。

自己啓発や自己実現といったセミナーは、「なりたい自分」になるためのものです。
それは、神様が喜ばれるような自分かどうかは関係ありません。
しかし、私たちは神様に喜ばれるものになりたいと願うものです。
ですから、どんなことを望むのかということは、重要なポイントです。

携帯の機種変更や、ダイエット程度なら、さほど問題ありませんが、
銀行強盗とか、悪徳な商売をして金儲けしようとか、振り込め詐欺で金を巻き上げようとか、
その内容が罪であるなら、もってのほかですし、
あるいは、内容次第では、悪魔が介入してくるかもしれません。

ピリピ 2:13
口語訳>あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
新改訳>神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

とあります。
私たちは、神様からの願いを、志を、私たちの「望む事がら」とできるなら、それは神様が実現へと導いてくださるのです。
別にあなたがダイエットしたいと思うなら、それは構わないでしょう。
機種変更したいと思うなら、それもOKでしょう。

私がダイエットしたいと思ったのは、いくつか理由があります。
太ってしまって、はけなくなったズボンやスーツをもう一度はきたい。
プールや海へ行ったときのぽっこりお腹を何とかした。
体が重く、ポジティブになれないことから解放されたい。
ついつい食べ過ぎて、お腹がもたれたりしないようにしたい。。。

でも、もし、スリムな体になって、かっこよくなって、この夏、海に言ってナンパしたい、なんて思ってたら、悪魔が助けてくれたかも知れません(笑)
ぼくをそのような罪へと陥れる為に。。。


このような自己啓発的な内容は、いろんな商売等でも語られます。
不労所得で優雅な生活、豪華な家に住み、高い車に乗り、旅行三昧で、おいしいものを食べて、、、そんな生活をするために、あなたはそのことをイメージして、自分がお金持ちになったイメージを持って、努力するのです。もうあなたは成功したも同然です、、、と。
その時、お金儲け主義に走り、お金を神様としていくときに、そこに悪魔が介入してくるのです。
悪徳な商売とは、別にマルチだとか、そういったものだけとは限りません。
肉屋だって、悪徳な商売することもできます。
弁護士だって、悪徳な商売は可能です。
公務員だって、警察だって、検察だって、裁判官だって、総理大臣だって、大統領だって、です。
どんな商売だって、悪徳になりうるのです。
それは、「望んでいる事がら」次第だともいえるのです。

少し脱線しましたが、
私たちが神様から願いを起こさせていただく為にも、神様に心を向け、神様に祈り、交わり、神様を礼拝するのです。
そのときに、神が私たちにその願いを起こさせてくださるでしょう。
その時、私たちは、その願いが実現可能かどうかをみるのではなく、信仰によって受け止めるのです。
そして、まだ見ていないこの「望んでいる事がら」を確信し、確認していくのです。
その時、神様が実現させてくださるのです。

神様が起こしてくださる「望んでいる事がら」であるなら、それは最高です。


結)信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。

そして、信仰がなくては、神に喜ばれることはできないのです。

新改訳>:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
口語訳>:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださることとを
必ず信じるはずだからです。

私たちは神様に近づく者であるなら、そうありたいなら、
神がおられる事を信じるはずです。
神を求めるものに報いてくださると信じるはずです。

家族が救われることが望んでいる事がらでしょうか。
家族が救われて神を礼拝していることをイメージしましょう。信じましょう。神がそうしてくださるからです。

信仰によって、神に喜ばれるものになりたいですね。

2007/07/08

07.7.8「約束の地へ入る道」

ヘブル 3:6-19
:6しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
:7ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
:8荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
:9あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
:10だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

出エ17:1-7、民14:1-、詩95:7-11

序)荒野の40年
この箇所は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民がモーセに導かれて、神様の数多くの不思議としるしを見、体験し、エジプトから脱出し、更に神様の多くの御業を見、体験していったにもかかわらず、何度も何度もつぶやき、モーセたちと争い、神様を試みた箇所を総じて書かれている箇所とも考えられます。
それは、出エジプト記からレビ記、民数記にいたるまでの期間の出来事です。

:7-:11に引用されている聖句は、詩95:7-11です。

1.約束の地に入れなかった人々

エジプトを出た民は、エジプト軍の猛追に対し、神様が海を分け、そこを逃れの道として導かれ、エジプト軍は、海に飲まれて滅ぼされたり、昼は雲の柱、夜は雲の柱によって守られ、導かれて、荒野を進んでいくことができたりしました。
あるときは、エジプトにいれば、肉も食べられたのに、こんな荒野につれてきて、飢え死にさせるつもりなのか、エジプトにいたほうが良かったなどとつぶやき、モーセと争い、神様を試みた民に対し、神様はマナを降らせ、養われたりしました。
また、あるときは、飲む水が不足したときにも、神様の御業で、モーセが杖で岩を打つと水が出て、渇きを潤されたり、、、
幾度となく、モーセと争い、主を試み、不平不満を言った民でした。

それらの民は、エジプトで生まれ育ち、大人となった人がほとんどだったようです。
だから、何か不満があると、すぐにエジプトにいたほうがよかった、エジプトに戻ろう、等と主を試みたのです。

そして、民数記14章では、とうとう主は、十度も主を試みた民を滅ぼそうとされました。
しかし、モーセがとりなしたおかげで、滅ぼされることはありませんでしたが、約束の地、安息には入れないと神が誓われたのでした。

そして、ヘブル書では、安息に入れなかったのは、不信仰のためであったと書かれています。
だから、不信仰の心になって生ける神から離れないように気をつけることや、罪に惑わされてかたくなにならないように、、と戒めています。

2.約束の地に入るために

私たちが同じ失敗をしないために、不信仰の心とならないために、ここに答えが書いてあります。

そのキーワードが「きょう(今日)」です。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

「今日」は、今日だけです。24時間前の今日は、今は昨日です。24時間後の今日は、今は明日です。でも今の「明日」は24時間経てば、「今日」になります。
つまり、昨日や明日やそれよりも前も先も「今日」ではないのです。
すなわち、「今日」は毎日やってきて、そして去っていきます。

これは何を意味するのでしょう。
:6に、
・・・もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
:14には、
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

とあります。

エジプトを脱出した民は、神が約束の地へ導かれるという神の約束という希望と確信を持っていたはずです。
それを持ち続けていたならば、荒野での40年間、主を試みることもなく、約束の地に入ることができたはずなのです。

簡単なようで難しいことかもしれません。
毎日毎日、つまり「今日」を毎日主に信頼して、心を主に向けて、励ましあっていくことが、私たちの神様に対する信仰ということが言えるのです。

毎日毎日、マナを食べ続けることは、飽きてくるじゃないかと思えます。
だからといって、主は日替わり定食のように曜日によってメニューを変えるようなことはされませんでした。
神様は毎日やってくる「今日」に同じものを与えて、その繰り返しの日々を送らされたのです。
その中で、民が確信と希望とを持ち続けていけるのか、その信仰を見られたのかも知れません。

私たちの信仰生活でも、何か変化や刺激がほしいように感じることもあるでしょう。
しかし、それは表向きの一時的なものでしかありません。
私たちの心の奥底には、しっかりとして神様に対する信仰を持ち続けていくことが求められているのです。
それは、マンネリ化したものだとか、かわりばえのしないものだとか、そんなレベルの話ではありません。

神様の救いは、変わらないのです。時には刺激的になったり、時にはいい加減になったりするものではないのです。
昨日も今日もとこしえに変わることがないのです。

イエス様が示された愛も同じです。
日によって多少愛の深さが違ったり、、、などということはないのです。
変わることなく、昨日も今日もとこしえに注がれ続けているのです。

神様の側は、何も変わりません。毎日、愛し、救い、養い、戒め、導き、満たされるのです。
私たちの側もまた、神様に対して、希望を確信を持ち続けていくことが、信仰なのです。


勿論、伝道のために、いつもとは違ったことをして、イエス様を知らない人に興味を持ってもらったり、私たちもまた、いつもとは違った集会や行事を通して、刺激を受け、自分の根底にある信仰を再確認するときとさせてもらうことは、いいことです。
しかし、この根底にある信仰は、変わることなく持ち続けていくことが、神様の願いなのです。
そのときに、私たちもまた、神様の安息、約束の地に入るときが来るでしょう。

「今日」という日に神様に目をむけ、神様につながり、神様を信頼する。
そんな「今日」の繰り返しを途絶えることなく続けることが約束の地、安息に入る道なのです。

2007/07/01

07.7.1「神様からの救い」

エペソ2:1-10
:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。


序)すべての人は罪人であり、例外はない。:1-3
今は、救われているあなたであっても、赦された罪人であり、以前は罪過と罪との中に死んでいたものであった。だから、まだ救われていない人、罪の赦しを経験していない人、今もまた罪過と罪の中に死んでいるような人も自分と同じであることを忘れてはいけません。
すべての人は罪人であり、救いはすべての人に必要であって、例外はないのです。

私達は、イエス様が救って下さる、恵みによって救われるといいます。



1.私達が救われる理由とは。。。

①神が愛して下さっているから。:4

神様が私たちを救われるのは、まず神が私たちを愛して下さっているからです。

1ヨハネ 4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

まず神が私たちを愛して下さったのです。
その愛は大きなものでした。

ヨハネ15:12-17
:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

イエス様は私たちを友と呼び、わたしたちの為に命を捨てて下さった。
これ以上の愛はないと言われました。
その最大の愛で、私たちを愛して下さっているのです。
それで私たちをすくって下さるのです。

私たちが救われるのは、神が私たちを最高の愛で愛して下さっているからです。


②世にこの恵み(救い)を明らかに示すため。:7

世において、この豊かな神の恵みすなわち救いをキリストにおいて私たちに与えられる愛によって明らかに示すために私たちは救われるのです。
つまり、人々にこの素晴らしい恵み・救いを示すためには、それをあらわす人が必要です。

救われた人がいなければ、この救いはあらわされません。
イエス様は、弟子達を愛され、救われました。
また、多くの人々を愛し、救われました。
その救われた人々がこの大きな恵みを世に示し、伝え、広げていきました。
だから、今日もその恵みはあらわされ、伝えられて、私たちも知るに至ったのです。

私たちが救われるのは、この恵み救いを世に示す為です。



2.救われた私たちが忘れてはならないこと。。。

さて、私たちは救われて何年も経ったりすると、つい忘れてしまったり、勘違いしてしまっている場合があります。
最初にも話しましたが、私たちは救われていて、クリスチャンじゃない人は救われていないから罪人?いいえ、私達も罪人です。同じです。
救われた(あるいは赦された)罪人か救われていない罪人かの違いです。

では、救われた私たちが忘れてはならないことを二つ見ましょう。

①神からの賜物であること。:8-9

:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

私たちは救われた罪人ですが、この救いは神からの恵みであり、賜物です。
何かしたからでしょうか?

たくさん人を教会に連れてきたから?No!
たくさんの献金をしたから?No!
たくさんの奉仕をしたから?No!
礼拝に休まず出席しているから?No!
たくさん祈っているから?No!
聖書をたくさん読んでいるから?No!
祈祷会に出席しているから?No!

これらは、大切なことではあるかもしれません。
しかし、救われるために必要はことではないのです。

この救いは神様からのものです。自分自身から出たことではないのです。
また、行いによるのでもないのです。誰も誇ることのない為です。

決してこれを忘れてはなりません。
救いは神から一方的に与えられた恵みであり、神からの賜物である・・・と。


②良い行いに歩むこと。:10

:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

私たちは救われたら、それで終わりなのか?
いいえ、そうではありません。地上での人生は続くのです。
私たちは神によって創られた傑作、作品です。よい行いをする為に造られたのです。
よい行いとは何でしょう。
ヨハネ15:12-17を見ると、
互いに愛し合うことが書いてあります。
また、最も大切な戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛することです。
もし、そのように愛しているのなら、神様の思いを受け止め、人々を愛し、この素晴らしい恵みである救いを人々にあらわし、伝えることも自然とできるでしょう。
勿論、他にも多くのよい行いがあります。

そして、その良い行いは、神様があらかじめ備えて下さっているのです。
神様に絶えず目をむけて、神と人を愛し、互いに愛し合う人生を歩むなら、わたしたちは神様が備えられたよい行いをしていることでしょう。


結)
ここでもう一度ポイントを見てみましょう。
1-①と2-①がセットに、2-①と2-②がセットになっています。
神が私たちを愛して下さっているから、神様からの賜物として救いが与えられる。
世にこの恵み(救い)を示す為に、私たちがよい行いをするように神様が備えて下さる。

神の恵み、救いをいつも心に留めて、神様が備えられたよい行いに歩む人生を歩みたいですね。
祈りましょう。