2008/05/25

08.5.25「弱さの中に、イエス様」

マタイ 26:30-35
:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。


マルコ 14:26-31
:26 そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。
:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。
:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。


ルカ 22:31-34
:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」


ヨハネ 13:31-38
:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
:33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

序)自分の弱さを知っていますか?
いや、私は可能性思考ですから、弱さなんて口に出しません!という人もいるかも知れませんね。
・・・・・・・私は、弱さだらけです(^^;
勿論、自慢して人に見せるようなことはしませんが。。。

もう15年以上前に信仰の戦いを覚えることがありました。今までにいくつもありますが、これほどの戦いはそうそうないようなものでした。
多賀の山へ車で行き、一人で祈っていたというか、もがいていたというか・・・
その時、「そのままでいい。受け入れているよ」というようなメッセージを受け取りました。
弱さだらけの自分のままでもイエス様の私に対する愛は変わらないことを実感した出来事でした。
それ以来、人間的に弱さで落ち込んだり傷ついたりすることはありますが、イエス様が私を愛して下さっていることに変わりはないという確信があったので、本当に私の力となり続けています。

イエス様は私達をどう見ておられ、どのようにして下さるのでしょうか。
見ていきましょう。

1.イエス様は私達の弱さを知っていて下さる。
マルコ14:27 あなたがたはみな、つまずきます。

過ぎ越しの食事をしたあと、賛美を歌って、オリブ山へ出発しました。
賛美を歌って、意気揚々と出かけたのかもしれません。少なくとも神様を見上げて賛美しているわけですから、マイナス思考ではないでしょうね。
しかし、イエス様は弟子達にこう言われたんですね。
「あなたがたはみな、つまずきます。」と。
>口語訳>あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう
ガクッときたかも知れません。

これは何を意味するのでしょうか。
イエス様は弟子達がつまずくことを知っておられたというですが、
これは、イエス様は弟子達の弱さを知っておられ、それをあからさまに宣言されたわけですね。
つまり・・・
私達の弱さを知っていて下さる。そして、それを認めることをよしとして下さるということなのではないでしょうか。
弱さを見せるというのは、信仰がないように思われたりするのではないかとつい思ってしまって、
「主よ、やります。できます。信じます!」と力を入れてしまいがちですが、イエス様は
その弱さを認めてもいいとメッセージされているように思いました。

「私は弱さがあります。だからあなたの恵みが必要なんです」

弱さを認める時に、神様の恵みを求めます。
自分のがんばりや力でがんばるのではなく、神様の恵みによって歩む信仰生活を送りたいですね。

大丈夫です。難しいことではありません。
自然体でいればいいのです。
自分には何ができて何ができないのか、強さは何で、弱さは何なのか。
できないところや弱いところに、神様の恵みを求めましょう。

勿論、私はあれもこれもできないから、恵みもないから、何もできない・・・というような甘えたようなことはだめですよね。
その境目はどこにあるのか。
「自分にウソをつかない」とでもいいましょうか、本当に自分の心を見つめる時に何が自然体なのかがわかるでしょう。

何もできないという人は、突き詰めていくと、その人の心は「自分は怠けたい」だとか、「自分は絶えず、人から同情されたい」などの心があるのかも知れません。
それなら、その人は、「神様、怠けたいという弱さが私にあります。恵みを注いで下さい」と祈ればいい。
本当の自分を見つけたら、そこに恵みを祈りましょう。
イエス様は、自らの愛を注いで恵みを注いで下さるでしょう。

エペソ 2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

私達のクリスチャン生活は、恵みによって始まりました。
恵みによって進み、恵みによって完成させていただきたいですね。

イエス様は私達の弱さを知っていて下さる。
そして、その弱さに恵みを注いで下さる素晴らしいお方です。


2.イエス様は弱い私達のために祈って下さる。
ルカ22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られた。
私達の弱さを知って、その弱さでイエス様につまずくことがあっても、イエス様は祈って下さっています。

イエス様はこのあと十字架にかかられますが、弟子達は実際につまずき、散らされてしまいます。
私達がもし、イエス様につまずいて、教会から散らされたら、この教会はなくなるのでしょうか。
弟子達が散らされたということは、キリスト教の終りになったかも知れない一大事です。
しかし、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られた。
だから、立ち直った時には兄弟達を力づけてやりなさい。とまで言われた。

人が教会をスタートするのではなくて、イエス様がスタートされ、イエス様が建て上げられるのです。人はそのために用いられるだけです。
この時はペテロが用いられました。
ですから、ご安心下さい。この教会もなくなりません。
たとえ、ここにおられる全ての方がイエス様につまずいて散らされても、イエス様はだれかをペテロのように用いて、立ち直るように祈っておられ、立ち直った時にその人を用いて、教会をスタートされるでしょう。

私達は、自分の弱さの中に神様の恵みを求めますが、イエス様御自身もまた、私達のために祈って下さっていることを知る時、大きななぐさめと励ましを受けます。
イエス様からのスタートはなんとすばらしいのでしょうか。


結)イエス様を求める
さて、この同じ時期のこの話しは4つの福音書全てに書かれているのですが、ヨハネ伝にはこうあります。
13:34-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ペテロがイエス様の祈りによって、信仰をなくさず立ち直った時に、他の兄弟達を力づけてあげたのでしょう。
それはまさにペテロが他の兄弟達を愛したという出来事です。
そして、それによって立ち直った兄弟たちもまたペテロや他の兄弟達を愛したでしょう。

互いに愛し合うというイエス様からの新しい戒めの成就です。

そして、その結果、イエス様が言われたように、イエス様の弟子であることを人々が見、またその人々をも愛した結果、多くの人がイエス様を信じ、互いに愛し合うようになって、救われる人が多く起こされていきました。

弱さをもつ私達もまた、いつどんなことにつまずくかもわかりません。しかし、イエス様はそれをも認めた上で、受け入れて下さっており、さらには祈って下さっている。
ですから、わたしたちが立ち直った時には、人々を力づける者になりたいですね。
その時、互いに愛し合うというイエス様の戒めが実現され、他の人々に私達がイエス様の弟子であることが認められ、多くの人の救いをイエス様が見せて下さると信じます。

しかし、それはイエス様がして下さる結果であり、イエス様が結ばせて下さる実です。
私達は、その結果を求めるのではなくて、イエス様御自身を求め、イエス様からの愛を健全にいただきましょう。
なぜなら、イエス様は私達のために、その命を十字架で捨てて下さり、葬られ三日目によみがえって天に昇られ
今も聖霊として私達と共にいて下さる。
救いを完成し、完全な愛を示してくださり、示すだけでなく、聖霊によって注いで下さっているからです。

このイエス様を求め、その愛をいただくならば、
互いに愛し合うようになるし、他の人を力づけ愛するようになるでしょう。
すると、イエス様はそこに結果、実をも見せて下さることでしょう。

私達がすべきことはシンプルです。
「イエス様を求めること」です。

2008/05/18

08.5.18「イエス様の備え」

マルコ14:12-16
:12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
:13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
:14 そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。
:15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
:16 弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。

序)備えてますか?
みなさんはいろんなことに備えてますか?
中国の大地震のニュースが連日報道されています。
多くの建物は耐震性が低く、学校や病院までもが崩壊するというような状況で、地震に対する備えができていない建物であったのでしょう。
地震保険に入っておけば、地震で家が潰れても、また建てることができるかもしれませんが、その家の下敷きになって命を失ってしまえば、元も子もないのです。
地震そのものに対する備えが本当に大切ですね。

また、先日、仕事の関係で、年に一度の会合が遠方でありました。
車で乗り合わせて行くことにしました。
最初は、高速を使っていくというつもりでいたのですが、現在、集中工事で規制がされており、渋滞が予想されることがわかりましたので、国道も使わず、一般道で行きました。
事前に道路の状況を調べて、備えていたので、スムーズに往復することができました。
備えは大切ですね。

さて、このように私たちはいろんな備えをしながら、生活をしています。

今日読んでいただいたところから、イエス様がなされた備えを見ていきましょう。


1.弟子達は備えていなかった。

過越の祭りといえば、もっとも大切な祭りの一つです。
その当日になって、弟子達は、「どこへ行って用意をしましょうか」と尋ねています。
「えー?用意してないのー?」って感じですね。

でももしかたら、弟子達は、「明日のことは思い煩うな」という御言葉を実践していたのかもしれませんね。
だから、今日になって、「どうしましょう」なんて言ったのかもしれません。
この解釈が正しいかどうかはわかりませんが、イエス様も別に責めておられる記事は出てきませんね。
案外、みこころにかなっていたのかもしれません。

どちらにせよ、イエス様の前には人間的な備えはあってもなくてもあまり関係ないようです。
それは、「イエス様を信頼する」ということで言えば、私たちが人間的にいろんなことを備えることは無力だからです。
勿論、備えておくに越したことはないですが、備えてないからどうというものでもないようです。

たとえ備えがなかったとしても、イエス様を信頼することはできます。
また、備えがあったとしても、その備えが無力になった時、イエス様を信頼しているなら、慌てることはしません。

備えがあってもなくても、それらが無力になった時に、本当にイエス様を信頼しているのかが問われるのではないでしょうか。

イエス様を本当に信頼しているなら、備えがなかろうと、備えが無駄になろうと、イエス様を信頼し続けることができるはずです。

逆境だからこそ、イエス様を信頼し続けたいですね。

この箇所から、どんな状況の中でもイエス様に信頼することを学ぶなら、本当に幸いです。



2.イエス様は備えておられた。

聖書には、
「するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。」とあります。
イエス様は備えておられたんですね。

弟子達は備えていなかったのですが、イエス様は備えておられたのです。
私たちも備えていようが備えてなかろうが、イエス様は備えて下さっているのです。
だから、心配する必要はないんですね。
私たちが心を向けるのはイエス様であり、イエス様を信頼する信仰を備える必要があるのだと思います。

私たちが備えていてもいなくても、イエス様は備えて下さるお方です。
このイエス様を信頼しましょう。
私たちの備えよりももっともっと優れた備えをして下さるイエス様を信頼しましょう。

イエス様は備えて下さるからです。


結)イエス様の最大の備え
この出来事が起こったのは、過越の祭りのときです。
過越しはご存知のとおり、出エジプトの時に、主が命じて柱とカモイに子羊の血を塗り、死の使いが過越していき、イスラエルをエジプトの奴隷から開放された出来事を記念する祭りですが、これは、イエス様の十字架の型です。
イエス様の十字架がなければ、今わたしたちは救われていませんし、このように集ってもいないでしょう。
イエス様の最大の備え・・・それは、十字架による罪の赦しの完成・・・「救い」です。

わたしたちにあらゆる備え、場所、人、物、お金・・・それらがどんなに備えられていても、罪の赦し、「救い」がなければ、むなしい人生です。
命を失ってはどんな備えも無意味です。
イエス様がしてくださった最大の備え、それは「救い」
このすばらしい備えを今日も受け取り、さらに人生の歩みの中で、あらゆる主の備えを体験していきたいですね。

その為に私たちに必要なのは、
イエス様の最大の備えである「救い」を受け入れ自分のものとして、
イエス様を信頼し続ける人生を歩むことではないでしょうか。
イエス様に目をむけて歩む人は幸いです。

2008/05/11

08.5.11「心に留める母」

ルカ 2:41-51
:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。


序)マリヤは、イエス様の地上の母
今日は、母の日ということで、聖書からお母さんに注目してみたいと思います。
聖書にはたくさんの素晴らしい女性が、母が、出てきますが、今日は、マリヤに注目します。

マリヤは、イエス様の地上での母でありました。
イエス様が地上に生まれるために、選ばれたのが、マリヤであったのです。

先ほど読んだ箇所の最後に「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」とあります。
また、同じルカの2章の19節にもこのような箇所があります。

ルカ 2
:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

「心に納めて・・」とあります。
口語訳では、どちらも「心に留めて」という「留める」という言葉が使われています。

お母さんの特徴であり、優れているところでもある「心に留める」ということに今日は注目してみたいと思います。


1.全て心に留める

マリヤは、イエス様に対して起こったことや、語られたこと等を全て心に留めていたようです。
普通は、その時々で、驚いたり、少しは考えたりすることはあっても、すぐに忘れてしまいます。
しかし、マリヤは心に留める人でした。

これは、女性の、あるいはお母さんの素晴らしい特性の一つなのではないかと思います。

教会では月に一度、お互いの祈りの課題を出し合って祈る祈り会を持っています。
その時には、それぞれの課題を聞いて覚えてそのためにみんなでお祈りします。
素晴らしい時間です。
でも、何日か経つと、自分のことは覚えていても、なかなか他の方の課題を覚えているかというと忘れてしまっていることもあります。。ぼくはそうでした。。
でもある時、妻が「○○さん、どうなったんかなぁ。」と話してきました。
それは、祈り会でその方が課題として祈りのリクエストをされた内容でした。
ぼくは、忘れかけていたのですが、妻は覚えていて気に掛けていたのです。
それで、その時に、その方にメールを送って、「その後いかがですか?」と聞いてみて、最新の状況を聞いて、祈ることができました。
それ以降、ぼくも祈り会で出された課題をなるべく次の祈り会まで覚えておくようにして、時々お祈りするように心がけるようになりました。

また、子供が以前、こんな病気にかかったとか、それは何歳頃のことだったとか、何歳頃はこの子は、こんなことをしてたとか、よく覚えているのがお母さんの方だったりします。

「心に留める」というのは、やはり女性のあるいはお母さんの優れた部分なんだなぁと感じる事が多々あります。

これは、いろんなところに気が利くとか、心配りができる、配慮ができるといった素晴らしい特性だと思うのです。

教会では、そのような配慮や心配りも必要です。
男性もできる人はできるでしょうし、それは素晴らしいことですが、あまり得意とするところではないようです。しかし、女性がいるから、教会も配慮が行き届くような場所となっていくのだと思うのです。


2.その心に愛があるから

マリヤが自分の子であるイエス様のことで、あらゆることを心に留めていることができたのは、子供に対する愛や神に対する愛があったからだと思います。

心に留める、心配りができる、配慮する、といったことが得意であるかどうかというのは、女性のほうが男性よりは得意なのでしょう。
でも、得意だからできるだけではないのです。

そこには、「愛」があるからです。

自分の子供を愛しているから、子供のいろんな言動に目をむけ、それらを心に留めることができるのです。
それならば、男性でも可能じゃないか・・・。
そうです。可能です。
子供に対する愛があるから、お父さんも自分の子供のことや、愛する人のことには関心があり、いろんなことを覚えていることも多々あります。
それでも、女性の方が得意な方がおおいでしょうが。。。

でも、教会が来られる全ての方に対して、また、あらゆる方に対して、心を留めることができるためには、それらの方々に対する「愛」が必要です。
その愛は、どこから来るのでしょうか。
それは、イエス様からです。

聖書にはこうあります。
1ヨハネ 4
:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

まず神が私たちを愛してくださったのです。
私たちはその愛を受け取っているでしょうか。

子供は産まれてきて、まずお母さんの愛を受けるのです。
そして、お父さんや周りの多くの人の愛を受けるのです。
だから、将来、人を愛する、自分の子供を愛することができるようになるのです。
人は受けなければ、与えることはできません。
愛を受けなければ、愛を与えることはできないのです。

両親から愛を受けてきたでしょうか。素晴らしいことです。その愛を与えることができるでしょう。でも、その愛も限界があるのです。
自分を愛し、自分の伴侶を愛し、自分の子供を愛することで使い切ってしまうかも知れません。
他人を愛すること、あらゆる人に愛を与えることには不十分かもしれません。

でも、無限の愛を受け取るなら、たくさんの人に愛を与えることができます。

それが、神の愛です。イエス様の愛です。
その愛があなたの心にあるなら、多くのことに対して「心に留める」ことができるのです。

結)イエス様の愛によって
イエス様の愛を受けて、愛を与えることができるものになりたいですね。
イエス様の愛は、昨日も今日もとこしえに変わることなく、私たちに注がれているのです。
この愛を受け続けて、愛を与えるものになるなら、幸いです。
その具体的なことの一つが、「心に留める」ことです。

母から愛された人は幸いです。その母の愛は、その両親から来ているのです。さらにその上、、、その原点は神の愛です。
また、お母さんが神の愛を受けているなら、あなたはお母さんを通して神の愛をも受けてきたのです。
もし、お母さんからの愛を受けてこなかったという方がいらっしゃっても、大丈夫です。
神様がそれ以上の愛を注いでくださっていますから。

そんなお母さんに感謝し、その愛の源であるイエス様に感謝し、母の日を記念とできたら幸いです。

2008/05/04

08.5.4「よい事をする人」

マルコ 14:3-:9
:3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」


序)みなさんにとって、よい事って何ですか?最近よい事ってありましたか?
さて、この箇所で、イエス様が「よい事」といわれる事はどんなことでしょう。

1.よい事をしてくれた。:6

女がした事をイエス様は「よい事」といわれた。

見ていきましょう。
非常に高価で純粋なナルドの香油を全部注いでしまったんですね。それも入れ物のつぼをこわしたと書いてます。
こわしてしまったということは、もう一度ふたして残しておくってわけにはいかない、つまり全てを注いだってことですね。
どうも売ると300デナリ以上になるくらいだったようです。また登場ですね。「デナリ」(笑)
1デナリは当時の一日分の労賃といわれていますから、300デナリというと300日分ということになりますね。
年収くらいでしょうか。300万とも500万とも考えられますね。

弟子達には、無駄遣いに思えたようです。でもイエス様は、「私によい事をしてくれた。」と言われました。
では、弟子達が言った「貧しい人に施すこと」はよい事ではないのでしょうか?
そうではないですよね。それもよい事です。実際イエス様もそれを否定されたわけではありません。女を困らせるなといわれただけです。
「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。」とそのこともよい事と言われています。
よい事とは、ひとつじゃないんです。
与えられたものをどう使うか、どうよい事に使うかはそれぞれ判断が違うでしょう。
でも、イエス様はそれらをよい事と言われた。
私達も祈ってばかりいないで伝道に行け。という人もいるかもしれない。
でも祈る事もイエス様は「よい事」だから、するままにさせておきなさいといわれるのではないでしょうか。
伝道ばっかりしてないで、奉仕もしなさい。これもどうでしょう。
助け、交わり、祈り、伝道、奉仕、ボランティア、ささげもの・・・どれがよい事でどれが悪い事かなんて、わたしたちが判断すべきものではないのです。また、全てよい事です。
弟子が言った「貧しい人への施し」もよい事ですし、イエス様に香油を注ぐ事もよい事です。

私達が、「よい事とはこれだ!」と言えるものではないのです。

では、よい事はたくさんあるが、私達は何をどの程度すればいいのでしょうか。


2.できる限りの事をしたのだ。:8

女はできる限りの事をした。

私達もできる限りのことをすればいいのです。できない事をする必要はない。

女は、自分の罪深さを知っていたのでしょう。
イエス様に何かしたいという強い思いから、全財産(嫁入りように貯えられていたものと思われる)とも言える香油を全てささげました。女にとってできる最高のことだったのでしょう。また、女はそれをすることができたのでしょう。

神様は、人に限界があることを十分ご存知です。
ですから、できないことを要求される方ではありません。

仕事をしている人は、基本的に「できる限り」仕事をこなすというのは通用しませんよね。
これだけをやる、となれば、何がなんでも責任を果たさなくてはなりません。
でも、人には限界もあるので、できないような無茶な要求をすることはできないこともありますね。

医者は、病気を治療します。
でも、限界があります。ですから、手を尽くしたが人が亡くなるということはあります。

運送屋さんに、「この荷物を15分以内に北海道に届けてくれ」というのは、限界を超えていますね。

でも、できることはあるのです。
延命治療もあるでしょう。
1日以内に届けることなら可能かもしれません。

神様は私たちにできることをしてほしいと願っておられるのです。

友達が病気で入院した。私達はその時、できることをすればいい。
病気を治せたら最高でしょうが、無理です。お見舞いにいけたらすばらしいでしょう。無理でも家で祈ってあげることができたら、素晴らしい。できる限りのことをすればいいのです。
イエス様はそれを喜ばれるのです。

人がしていることを評価する必要はありません。自分がイエス様に何ができるのか、それを祈るべきであり、それを考えればいいのです。


決)イエス様はできる限りの最高の事をして下さった。
イエス様は私達のために十字架で命を捨てて下さった。
私達は誰かのために十字架に・・・は無理かもしれない。でもかまわない、イエス様が私達のために最高のできる限りをして下さったのだから、私達は小さくても、自分のできる限りをしたい。
私達のできることは小さいことかも知れないが、そのできる限りのよい事をしていく人になりたいですね。
その一歩を踏み出す人は幸いです。