2008/05/18

08.5.18「イエス様の備え」

マルコ14:12-16
:12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
:13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
:14 そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。
:15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
:16 弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。

序)備えてますか?
みなさんはいろんなことに備えてますか?
中国の大地震のニュースが連日報道されています。
多くの建物は耐震性が低く、学校や病院までもが崩壊するというような状況で、地震に対する備えができていない建物であったのでしょう。
地震保険に入っておけば、地震で家が潰れても、また建てることができるかもしれませんが、その家の下敷きになって命を失ってしまえば、元も子もないのです。
地震そのものに対する備えが本当に大切ですね。

また、先日、仕事の関係で、年に一度の会合が遠方でありました。
車で乗り合わせて行くことにしました。
最初は、高速を使っていくというつもりでいたのですが、現在、集中工事で規制がされており、渋滞が予想されることがわかりましたので、国道も使わず、一般道で行きました。
事前に道路の状況を調べて、備えていたので、スムーズに往復することができました。
備えは大切ですね。

さて、このように私たちはいろんな備えをしながら、生活をしています。

今日読んでいただいたところから、イエス様がなされた備えを見ていきましょう。


1.弟子達は備えていなかった。

過越の祭りといえば、もっとも大切な祭りの一つです。
その当日になって、弟子達は、「どこへ行って用意をしましょうか」と尋ねています。
「えー?用意してないのー?」って感じですね。

でももしかたら、弟子達は、「明日のことは思い煩うな」という御言葉を実践していたのかもしれませんね。
だから、今日になって、「どうしましょう」なんて言ったのかもしれません。
この解釈が正しいかどうかはわかりませんが、イエス様も別に責めておられる記事は出てきませんね。
案外、みこころにかなっていたのかもしれません。

どちらにせよ、イエス様の前には人間的な備えはあってもなくてもあまり関係ないようです。
それは、「イエス様を信頼する」ということで言えば、私たちが人間的にいろんなことを備えることは無力だからです。
勿論、備えておくに越したことはないですが、備えてないからどうというものでもないようです。

たとえ備えがなかったとしても、イエス様を信頼することはできます。
また、備えがあったとしても、その備えが無力になった時、イエス様を信頼しているなら、慌てることはしません。

備えがあってもなくても、それらが無力になった時に、本当にイエス様を信頼しているのかが問われるのではないでしょうか。

イエス様を本当に信頼しているなら、備えがなかろうと、備えが無駄になろうと、イエス様を信頼し続けることができるはずです。

逆境だからこそ、イエス様を信頼し続けたいですね。

この箇所から、どんな状況の中でもイエス様に信頼することを学ぶなら、本当に幸いです。



2.イエス様は備えておられた。

聖書には、
「するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。」とあります。
イエス様は備えておられたんですね。

弟子達は備えていなかったのですが、イエス様は備えておられたのです。
私たちも備えていようが備えてなかろうが、イエス様は備えて下さっているのです。
だから、心配する必要はないんですね。
私たちが心を向けるのはイエス様であり、イエス様を信頼する信仰を備える必要があるのだと思います。

私たちが備えていてもいなくても、イエス様は備えて下さるお方です。
このイエス様を信頼しましょう。
私たちの備えよりももっともっと優れた備えをして下さるイエス様を信頼しましょう。

イエス様は備えて下さるからです。


結)イエス様の最大の備え
この出来事が起こったのは、過越の祭りのときです。
過越しはご存知のとおり、出エジプトの時に、主が命じて柱とカモイに子羊の血を塗り、死の使いが過越していき、イスラエルをエジプトの奴隷から開放された出来事を記念する祭りですが、これは、イエス様の十字架の型です。
イエス様の十字架がなければ、今わたしたちは救われていませんし、このように集ってもいないでしょう。
イエス様の最大の備え・・・それは、十字架による罪の赦しの完成・・・「救い」です。

わたしたちにあらゆる備え、場所、人、物、お金・・・それらがどんなに備えられていても、罪の赦し、「救い」がなければ、むなしい人生です。
命を失ってはどんな備えも無意味です。
イエス様がしてくださった最大の備え、それは「救い」
このすばらしい備えを今日も受け取り、さらに人生の歩みの中で、あらゆる主の備えを体験していきたいですね。

その為に私たちに必要なのは、
イエス様の最大の備えである「救い」を受け入れ自分のものとして、
イエス様を信頼し続ける人生を歩むことではないでしょうか。
イエス様に目をむけて歩む人は幸いです。