2008/04/13

08.4.13「イエスキリストを土台とするなら」

1コリント 3:10-17
:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

序)いろいろな土台
私は仕事で建物の登記をしますが、その時、建物として認定するかどうかの基準のひとつに土地の定着性というのがあります。
簡易な建物で、基礎工事もされてないようなものは、永続性がないので、建物として登記できません。
プレハブの物置のようなものでも、その基礎によって判断はさまざまです。
ブロックを置いただけの基礎もあります。ブロックをコンクリートで固定したものもあります。
その上の建物もそこに置いただけのものから、アンカーボルト等で固定されたものまでさまざまです。
立派な土台だと、コンクリートのもの、石のもの等、これもまた様々です。
工事現場のプレハブなんかは、木杭が基礎であったりします。
建物を建てる上では、いろいろな土台があるものです。
私たちの信仰生活、あるいは人生においても、土台はとても大切です。

今日、お読みした、土台と建物についての箇所から、共に教えられたいと思います。


1.土台はキリスト :10-11

パウロは、与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えたと言っています。
その土台こそ、イエスキリストだというのです。

私たちの土台は、イエスキリストでしょうか。
そうであるなら幸いです。

先ほども話したように、建物の土台というのは様々なものがあります。
それは、その上に建てる建物に相応のものを据える事がほとんどです。
小さな物入程度のものを設置するのに、大きな石の土台を据える人はいないでしょう。
ブロックを二つほど置いて、その上に乗せれば十分です。
人が入れて、自転車等が置けるほどの物置でも、ブロックをコンクリートで固めて、その上に設置する程度で大丈夫でしょう。
でも、自分たちが住む家を建てるときに、ブロックを基礎にする人はいません。
コンクリートの基礎を据えるでしょう。
以前、測量にいった家は、大きな家で、立派な石を基礎にしてありました。
また、高層マンションの基礎は地面深くコンクリートを打ち込んで地盤を強固にして大きなコンクリートの基礎をすえて、上の建物を建てあげていきます。

その基礎によって、上に建てられる建物も変わってくるのです。
また、その基礎が傾いているようでは、建物は建てられません。
そこは、その基礎を据える建築家、工事の監督等の腕にかかってくるのでしょう。
パウロは「賢い建築家のように・・」と言ってます。
その土台は、上にどんな建物をも建てることができるものなのでしょう。

つまり、土台によって、その上に築き上げられる人生も変わってくるといえるのです。
あなたの土台は何でしょうか。
財産?仕事?家族?恋人?友人?自分の考え?
それらは、大切なものですが、土台として相応しいものといえるでしょうか。
財産は、なくなるかも知れません。世界情勢が変われば、お金は意味のないものになります。
仕事だって、会社がなくなるかもしれません。自営業していても、失敗するかもしれません。
家族や恋人や友人たちは大切です。でも、いつまでもいるとは限らないのです。
裏切られるかもしれないのです。永遠に生き続ける人もいません。
自分の考えを持つことは、いいことです。でも、それが絶対的なものとして土台に相応しいのでしょうか。

そこで、聖書は言います。
その土台こそ、イエスキリストです。

マンションを建てるほどの強固な基礎工事をした上に、物置をすえたとしたらどうでしょう。
そんな人はいませんが、物置は傾くことなくたてることができます。勿論、普通の家も建てられますし、マンションだって建てられるのです。

イエスキリストを土台として、正しく据えられているなら、どんな建物でも建てることができるのです。
この土台を据えておられるでしょうか。
イエスキリストを土台として据えておられるなら、これからの人生、信仰生活はどんなものでも建てあげていくことができるのです。

でも、聖書は、その建てる建物についても、注意するように促しています。



2.建物を建てる :12-15

『もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。』

金、銀、宝石、木、草、わら・・大きく二つに分けられますね。
「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。

「三匹のこぶた」の話を思い浮かべるのは私だけでしょうか。
わらの家、木の家、レンガの家です。ここでは、狼のすごい息によって、その建物の強度が明らかになりました。
わらの家は、ひと吹き飛ばされてしまうのです。
木の家も、2,3回の息で吹き飛ばされます。
でも、レンガの家はどんなに吹いても大丈夫でした。
その仕事、働きが明瞭になったのです。

私たちの人生、信仰生活は、イエスキリストという最高の土台が据えられたのなら、あとはその上に建てるそれぞれの建物次第なのです。

木や草やわらで建てるのは、簡単でしょう。手に入れることも用意ですし、加工したり、することも簡単です。
簡単に手に入るような人生、信仰生活を送ることも可能です。でも、それは、木や草やわらで建てた建物のようなものかもしれません。

では、金、銀、宝石ならどうでしょう。高価ですし、なかなか手に入らないでしょう。木や草やわらなら、森へ行って切り出してくれば手に入れらそうですが、金、銀、宝石は、山を採掘して掘り出して、それを磨き上げなければなりません。とても、手間も必要ですし、手に入れるには大変苦労するし、それを加工するのも大変なことです。
簡単には手に入らない人生、信仰生活を送ることをたとえているのかも知れません。

私たちは、どのような家を建てたいと願いますか。

金、銀、宝石の家を建てたいと思うなら、人生はそんなに楽で簡単なものではないかも知れません。でも、そうであるからこそ建てあげたときに得るものも大きいのではないかと思うのです。

でも、聖書はそんな短い地上の人生のことだけを言っているのではありません。
聖書はその建物が試されるときが来ることを言っています。

『その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。』

「その日」とは、主の再臨の時なのかも知れません。患難の時なのかも知れません。
少なくとも、「火」と、たとえられるように、楽なイメージはありません。
試練を意味しているように思えます。
その時に、キリストを土台とした私たちの人生、信仰生活がどのようになるのか、これはとても重要なことに思えます。

『もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』

その建物は、「火」によって、焼けてしまうか、残るか、、、

残れば報いを受けるのです。素晴らしいことです。人生を金、銀、宝石によって建て上げてきた人は、その日に火によっても残って報いを受けるのです。

焼けてしまえば、損害を受けます。残念なことです。木や草やわらによって建てあげた人生は、焼けてしまい損害を受けてしまうというのです。

私たちは、どちらを選択するでしょうか。それによって、「その日」に大きく違いが出てくるのです。


結)それでも、「救い」は変わらない
最後に、一つのことに注目しましょう。
『もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』
とあります。
キリストを土台とした人生を送った人は、たとえその人生で建てあげたものが木や草やわらを用いていて、その日に火によって焼けてしまい、損害を受けたとしても、助かるのです。救われるのです。
口語訳では、
『しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。』
火の中をくぐってきた者のようにではあっても、救われるのです。

私たちは、残るような建物を建てたいと願いますが、たとえ焼けてしまったとしても、火の中をくぐってきたもののようであっても、救われるのです。
それは、「キリストを土台」としているからです。
もし、キリストを土台としていないなら、そこには、どんな建物を建てたとしても、火の中をくぐって、滅びに至るのです。
イエスキリストを土台とすることがいかに素晴らしいことであるのかを再認識されたでしょうか。

イエスキリストは、私のために、十字架に架かって罪の身代わりとなり、命を捨ててくださいました。そして、葬られ、三日目によみがえって天に昇り、今も聖霊として私たちと共にいてくださるお方です。
このお方を土台とし、信仰生活を、人生を歩むなら、本当に幸いです。