2008/02/10

08.2.10「全ては主の御手の中で」

使徒 10章(:1-23)
:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンとう人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。:18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。:19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。:20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」:21 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」:22 すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」:23 それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。

序)素晴らしい御業のプロセス
24節以降で、ヨッパからカイザリヤに到着した一行は、コルネリオのところに、親族や親しい友人が集まっているのを見ます。そして、事の一部始終を聞き、全ての出来事がペテロの中でつながりました。
そして、そこで、福音を語り始めたのです。
すると、その途中で聖霊が聞いている人々に下って、その後、全ての人がバプテスマを受け、救われたのです。
この素晴らしい御業が起こった背景に何があったのでしょうか。


1.主につながる信仰

コルネリオやペテロの記事に中に共通点があります。
それは、神に祈りをしていたことです。

コルネリオは、「いつも神に祈りをしていた」人でした。午後3時の祈りもいつもしていたようです。その祈りの中で御使いが現れてメッセージを語ったのです。

ペテロもまた、「祈りをするために屋上に上った」時に、夢心地になって幻を見たのです。
その幻は、すぐにはペテロには理解できない出来事でした。
でも、それはやがてわかるのですが、神様からのメッセージだったのです。

二人とも、神に祈るために時間をとっている人でした。そして、その祈りの中で神様がメッセージを送られたのです。

ペテロの場合は、お腹が空いて夢心地ということですから、眠ってしまって夢を見たのかもしれませんが、それでも、その夢で主がメッセージを送られたのですが、ペテロの心は神様に向いており、神様のことをいつも思っていたのでしょう。

祈りの時間をとっている。神様に心を向けている。また、そのことを優先している。
これらは、神様につながっているといえますね。
つまり、神様につながる信仰を持っていたのです。
その時に、神様からのメッセージが届けられたのです。

私たちは神様につながる信仰を持っているでしょうか。
今日、礼拝にこられたあなたは、持っておられるから、来られたのでしょう。
聖書を読むのは、祈るのは、神様につながりたいから、つながろうとしているから、つながっているから、、、ですね。

神様につながる信仰は大切です。
枝が木につながっていなければ、実を結ぶことはできません。
しかし、木につながっていれば、自然と実を結ぶのです。
実を結ぶ為にがんばる必要はないのです。つながることに努力することはあっても。。
私たちは枝です。イエス様は木です。枝は木につながるのです。その時に実を結ぶのです。

コルネリオもペテロも木である神様につながる信仰の持ち主でした。
だから、10章の最後には、素晴らしい実が結ばれたのです。

主につながるものになるなら、本当に幸いです。


さて、主につながっていれば、あとは何もしなくてもいいのでしょうか。

2.行動する信仰

コルネリオは、いつも祈っていた、そのある祈りの時にメッセージを受け取りました。
するとすぐに行動に移したのです。

:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ・・

しもべと兵士を呼び寄せて、事の次第を話し、ペテロがいるとされている場所へと遣わしました。
また、ペテロが来るという確信のもと、親族や親しい友人を呼び集めることも始めたのでしょう。
だから、ペテロをやってきたときには、みな集まって主の言葉を聴こうと待ち望んでいたのです。

ペテロもまた、夢の中で幻を通して、メッセージを受け取ったときに、ちょうど遣いの者やってきて、コルネリオのもとへ向かいました。
ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことでしたが、神様からのメッセージを受け取っていたので、それに従い、行動したのでした。

勿論、他にも、コルネリオに言われて、ペテロのもとへ向かったしもべや兵士の行動もありました。コルネリオから呼ばれて、集まってきた親族や友人の行動もありました。いろんな人が行動したことで、カイザリヤでの多くの人の救いという御業が起こったのです。

また、コルネリオは御使いが語ったからといっても、本当にペテロをいるのかどうか疑うこともできたのです。また、遣わされたしもべや兵士もコルネリオの言葉を信じて、いるかどうかもわからないヨッパに行くことに疑問をもたなかったのでしょうか。カイザリヤからヨッパまでは約50kmほどあります。車も電車もない時代です。
コルネリオから呼ばれた親族や友人たちも、本当にいるのか、いたとしても来るのかわからないペテロを待って、集まることに疑問は持たなかったのでしょうか。

ここにコルネリオやその人々の素晴らしい信仰を見ることができます。
神が語られたことが必ず成るという信仰、神様を本当に信頼し、神様に委ねる信仰があったのでしょう。
だから、行動することができたのです。

ペテロもまた、律法を知るユダヤ人だったわけですから、自分が見た夢、幻だけで、律法に反してまで、行動することにはリスクがあったかもしれません。
それでも、行動したのです。ここに神様に対する信頼の大きさが見えます。

この行動があったから、素晴らしい救いがそこに実現したのです。

主につながるだけでなく、そこで示されたことを行動に移していくときに、神様の素晴らしい業を目の当たりにするでしょう。


結)全ては主の御手の中で
コルネリオ、遣わされたしもべと兵士、ペテロ、集まった親族や友人、それぞれは、打ち合わせて時間を決めて行動したわけではないでしょう。
しかし、タイミングも全てばっちりです。
ここには、偶然を越えたものがあります。
それが神様の御手です。
脚本家がいて、演出家がいて、監督がいて、役者がいて、一つのドラマが完成するように、神様が全てをご存知で、その御手の中で全てが支配されて、そして、全ての人がその神様とつながって、その通りに行動したときに、完成した素晴らしい出来事でした。
主の御手の中の業はなんとすばらしいのでしょう。
そして、私たちもまた、神様につながり、神様からのメッセージを受け取って、行動するときに、私たちの人知をはるかに超えたところで、全てがつながり、神様の御業をみることができるのです。
主の御手の中で、生かされたいですね。
そのためにも、神様につながりましょう。そして、行動するものとなりましょう。