08.2.3「律法を完成する愛」
ルカ 14:1-6
:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
:2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。
:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
:6 彼らは答えることができなかった。
序)この箇所は、ある安息日のイエス様の言動についてかかれてあります。
安息日というのは、モーセの十戒にも出てきますが、
出エジプト 20:8-10
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・
という箇所に根拠をおいています。
この日は神様の前に聖なる日として、すべての仕事をしてはいけない。休みなさい。という日です。
ですから、この安息日に、仕事をすることは律法すなわちモーセの十戒を破ることになりますから、それは罪を犯すことだと考えられていました。
そのような安息日の出来事です。
パリサイ派というのは、その律法に詳しく厳格にこれを行っている人達を意味するのですが、その指導者の家で、イエス様の目の前に水腫という病気の人がいました。
律法の専門家やパリサイ人たちは、イエス様が安息日にこの病気の人をどうされるのだろうか・・・と見ていたのです。
もし、いやされたなら、安息日を破ることになるから、イエスを罪人呼ばわりしようと思っていたのでしょう。
しかし、イエス様は聞かれました。
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と。
でも、彼らは黙っていたのです。
そこでイエス様はその人を抱いていやし、帰されたのです。
そして、こう言われました。
「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
それに対して、彼らは答えることができなかったのです。
イエス様は律法を破られたのでしょうか。
そうではありません。
律法を全うされたのです。
イエス様と律法の専門家・パリサイ人、この両方から今日、教えられたことを分ち合いたいと思います。
1.黙っていた律法の専門家・パリサイ人
みんながじっとイエスを見つめていた、とあります。
これは、イエス様が「安息日を覚えてこれを聖とせよ。なんの仕事もしてはならない。」という律法を破って、病人を癒すという仕事をするんじゃないだろうか・・・と「じっと」見つめていたようです。
この種の人達は、人の悪いところ、過ちやスキャンダル等を見つけることが得意のようです。
人間関係の中で、人の悪いところを見つけてそれを指摘していたら、どうでしょう。
関係は悪くなりますよね。
そんなことばかりの中では、いい関係も育たないし、人も育ちません。
本当のその人を知ることもできません。
もちろん、よくないところを嘘ついていいところのように言っているのもどうかと思いますが。。
この種の人達はイエス様のいいところよりも、悪いところがないかどうかを必死にみつけようとしていたようです。
だから、イエス様がどんな方なのか、その本質をみることができなかったのです。
これは、律法には詳しかったかも知れないけれど、その本質をみることはできていなかったといえるのではないでしょうか。。
では、イエス様はどうでしょう。
2.癒しをなされたイエス様
イエス様は、律法の専門家・パリサイ人に質問もされたし、実際に水腫の人を癒されました。
一見、安息日に仕事をしてその律法を破られたように見えるかもしれません。
でも、そもそも律法とは何か。
マタイ 22:36-40
:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:38 これがたいせつな第一の戒めです。
:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
とあります。
律法とは、「神様を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。」
という言葉に集約されているのです。
イエス様の行動は、その水腫の人を愛した行動です。
仕事をしたら、律法を破ることだから、そんなことをしたら、神様が怒るのか?
そうではないです。神様もその人を愛しておられるから、同じ思いになられたに違いないと思うのです。
モーセの十戒を見てみると、
・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
・安息日を覚えて、これを聖とせよ。
・あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
・あなたは殺してはならない。
・あなたは盗んではならない。
愛しているなら、これらのことはしないでしょう。
愛は律法を完成させるのです。
ある小学校のミニバスケットチームは、すごく強いチームでした。
全国優勝経験もありました。
しかし、あるときこんなことがありました。
・・・優勝候補だったその年も順当に勝ち進んでいたのですが、ベスト4で敗退しました。
子供達はまさかの敗退に呆然としてベンチに引上げてきたのです。
その時、監督が怒声を上げて、選手たちの頭を叩きました。
それをある記者が取り上げて、「暴力監督」「負けたからといって小学生の選手に体罰」というようなことで取り上げられました。
この監督に対して、教育委員会は世間体を気にして、解任しました。
でも、実はこのことにはこういう事実があったのです。
普段から強くなることよりも、子供達のことを考え、試合に勝っても、傲慢な人間にならないように、相手を思いやれる、尊敬できる、強く礼儀正しい人間になるように指導してきた監督でした。
ですから、試合前後の挨拶や先輩に対する尊敬や後輩に対する配慮など、人間的に成長するように指導されていたのです。
この試合の時も、選手たちはまさかの敗退に呆然としてしまって、試合後に相手チームに挨拶するのも忘れてベンチへ帰ってきたので、監督は「負けたからといって、挨拶もできんのか。試合をしてもらった相手チームにちゃんとお礼を言ってこい!」と叱って、挨拶させにいったのでした。
当然この後、負けた選手達を試合の勝ち負けだけじゃない大切なことを話し、子供達はまた大好きなミニバスを練習したのです。
そして、このことに小学生の選手もその親も誰一人クレームひとつつけておらず、逆に解任になった監督をしたって、
「もう一度、監督になって教えてほしい」とまで言ったそうです。
厳しいけど、その奥にある本当の姿、本当の愛をちゃんと見極めていたのは、子供達でした。
本物の愛は、ちゃんと伝わるのです。
本物の愛は、心に届くのです。
残念なことに、律法の専門家もパリサイ人もその律法の本質を見つけられずに、その表側だけを知識として貯えていたようです。
私たちは、本当の律法の本質を見、イエス様の本物の愛を見極め、互いに愛し合い、助け合い、支え合い、赦し合い、神様を愛し、成長する人生を歩みたいですね。
今日、そのような歩みを一歩踏み出すことができれば幸いです。
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