07.12.9「開かれた神の国」
マルコ 10:13
:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
序)
親は、子供を祝福してほしい、守られてほしい、、と願うものです。
先ほど、献児式がもたれましたが、お子さんがイエス様の祝福を受け、イエス様の守りの中で、健やかに成長し、神と人とに愛される人となってほしい、、とご両親が願われたから、実現したものですね。
お宮参りというものがありますが、それらは、親が自分の子供に対して、神様の守りの中で成長してほしいと願ってするものです。
親は自分の子供に対して、そのように願うものです。
ここでも人々は、子供たちがイエス様の恵みを受けてほしい、その祝福に預からせたい、、と願ってみもとに連れてきたのでしょう。
ところがそれを見た弟子たちは彼らをしかった、とあります。
なぜでしょう。
子供は騒がしいから?礼儀を知らないから?
あるいは、イエス様の祝福を受けるのに、大人を差し置いて受けるなんて、ありえない?
弟子たちがどのような理由でしかったのかは書いてありませんが、いろんな理由があるのでしょう。
子供に本物のクラシック音楽を聞かせたい、、と思い、クラシックコンサートの会場に子供を連れた親が何人も入ってきたらどうでしょうね。おそらくは、母子室のような防音室での鑑賞となるでしょう。子供が泣いたり、騒いだり、しゃべったりしては、他のお客さんの迷惑になるからという理由でしょう。
天皇陛下が出席するような大会に、天皇陛下に子供を見てほしいから、、といって、連れてきたらどうでしょう。入口で警備員に止められてしまうでしょう。
天皇陛下に失礼があってはならないから・・という理由なのかもしれません。
イエス様のものと子供たちを連れてきたときに弟子たちがそれを止め、しかった理由も同じような理由かもしれません。
1.子どもたちに開かれている
でも、イエス様はそれをご覧になって、憤ってこのように言われました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
弟子たちは子供たちが来るのを止めていました。
しかし、イエス様は逆に、このような者たちこそ、神の国に入れるのだといわれたのです。
いや、このような者たちでなければ、入れないと言われたのです。
先ほどの例のように、クラシックコンサートで子供が断られる理由であったり、重要人物がいるような会合で断られる理由を考えてみてもわかるように、大人は、いろんなことを考えます。
よくいえば配慮しているといえます。
確かにそのような配慮によって、秩序が保たれる場合もありますから、これを否定するものではありませんし、イエス様もそれを否定するためにこのようなことを言われたわけでもありません。
しかし、大人はいろんなことを考える余り、いろんなことを複雑に考えてしまって、受け入れるべきものを素直に受け入れられなかったり、純粋に受け止められない場合があるのです。
神の国に入る為にはどうすればいいのだろうか。
イエス様に気に入ってもらわなければ、、とか思っていたのでしょうか。
実は、この記事の前後では、人々がイエス様と議論している箇所が出てきます。
離婚について、聖書になんて書いてあるか、イスラエルの先人の偉大な預言者モーセによるとこうだけど、その辺はどう解釈するのか、、等、複雑に物事を考え、あるいは理屈をこねて、あーでもないこーでもない、、といって聖書に書いてあることを素直に受け入れようとしなかったり、、。
永遠の命を自分のものとして受ける為にはどうすればいいのか・・とイエス様に聞いて、聖書にはこう書いてあるが私はそれを小さいときからしています、といい、でもそれ以外のことを言われたときにそれが彼にとって困難に思えることだと素直を聞くことができず、何も答えられずに帰ってしまうという記事も出てきます。
大人はこのようにいろんな経験を積んだり、知識を得ることによって、かえって神様の言葉を素直に受け入れられなくなっていたりすることをイエス様はご存知で、素直に受けいれ、純粋に神様のもとに来て、神様を慕うことを「子供のように」という表現で私たちに教えてくださっているのだと思うのです。
弟子たちもまた、神の国に入るために、どうすればいいのかを複雑に考えすぎていたのかも知れません。
人前では、秩序や配慮も必要でしょう。
いつまでも子供のようであっては社会では通用しないでしょう。
しかし、神の国の法則は違うのです。
神の国は、ここではありません。あなたの心にあります。
誰も入ることができない場所です。
そこで、イエス様は、私たちに大きく手を広げて、その救いの手を広げて、
「おいで~」と呼ばれているのです。
子供のようにそのイエス様のもとに飛び込んでいくなら、子供のように神の国を受け入れる者となるなら、神様の救いを得て、その恵みと祝福に預かることができ、神の国に入ることができるのです。
あなたは、そのイエス様の呼びかけに、子供のように応えますか。
応えるならば、、、
2.一人一人に神の平安を
イエス様は私たちを抱き、手を置いて祝福してくださるのです。
:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
イエス様は子供たちを抱き、、とあります。
CMで、子供にどう接していいのか、どう話しかければいいのかわからない、、でも、抱きしめるだけで伝わる・・というような内容ものがありました。
小さな赤ちゃんも左に顔が来るように抱っこすると心臓の音で安心すると聞いたこともあります。
抱かれるというのは、子供にとって、人にとって、すごく安心感を得るものです。
イエス様もここで、子供たちに神の国の平安、最高の安心感を与えられたのだと思います。
そして、手を置いて祝福されたのです。
ここでもうひとつ気付くことがあります。
子供たちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されたとあります。
抱こうと思うと、5人も10人も同時にはできません。
両膝に乗せて、2人なら抱っこできるかもしれません。
でも、抱き、手を置いて祝福、とあります。
これは、一人ずつじゃないとできないと思うのです。
片方の手で抱っこして、もう片方の手を上において祝福する・・・。
つまり、イエス様はやってきた子供たちを一人ずつ抱き、手を置いて祝福されたのです。
私たちがイエス様のもとに行くとき、十把一絡げで扱われるのではなく、一人一人に丁寧に個人的に関わってくださるのです。
結)イエス様の救いの中に
イエス様は二千年前にこの地上を人として歩まれ、その生涯の最後に十字架にかかられました。
罪のないお方がなぜ十字架にかかられたのか、それは全ての罪人、つまり私たちのために身代わりとなってくださったのです。その死によって、私たちの罪は清算されるのです。
その救いを受け入れるならば、自分のものとできるのです。
神の国は開かれています。
救い主イエス様は今も大きく手を広げて、私たちを迎えてくださるのです。
子供のようにイエス様の救いの手の中に入るでしょうか。
そうされるなら、イエス様はあなたを個人的に抱き、祝福し、かかわってくださるのです。
今日、勇気を出して、子供のように素直になって、開かれている神の国、イエス様のもとに飛び込むなら、幸いです。
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