2007/09/02

07.9.2「初めの愛に・・・」

黙示録2:1-7
:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

序)七つの教会へ
七つの教会へ神様が語られている一番最初の部分です。
それぞれの文章はいつも、
まず理解を示したり褒めたりし、
責めるべきところを示し、
励まして締める。というつくりになっています。
神様の配慮が伺えますね。

今日はその一つ目を見て、ともに教えられたいと思います。


1.神は知ってくださっている。:2、:3

:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

神様は、私たちのことをよく知ってくださっているのです。

ここでは、エペソの教会に対して、その行い、労苦、忍耐、また悪いものたちを我慢できずに、その偽りを見抜いたことも知っていると言われています。
そのように少なくもと喜ばしい嬉しい楽しいといえるような状況ではなく、つらい悲しい苦しいというような状況のことを知っているよ、と理解を示して下さっています。
そして、「よく忍耐して、耐え忍び、疲れたこともなかった。」と褒めてくださっています。

人から理解される、わかってもらえる、ということはどれだけ励ましを受けるでしょうか。
自分がつらい思いをしたり、苦労していても、あまり人には伝わらないことのほうが多いと思います。そういう経験は誰しもあるんじゃないでしょうか。

「親の心子知らず」とありますが、親が子供のために一生懸命苦労していても、子供は理解していないということはよく聞く話です。
逆に、子供がつらい思いをしていても、親は理解していないということもあります。
それで子供は「理解してもらえない。わかってもらえない・・」というストレスを抱えてしまうということもあるようです。

しかし、そんな心を理解してくれたら、どれだけ人は励まされ、慰められるでしょう。
もし、あなたの理解者があなたのまわりにいるならば、主に感謝しましょう。それは素晴らしいことです。
でも、人には限界があります。その人もまた理解してほしいと願っている部分を持ち合わせているのです。あなたもまたその理解者となっているならそれは素晴らしいと思いますが。。

でも、唯一私たちの全てを理解し、わかってくださり、受け止めてくださる方がいらっしゃいます。
それが、イエスキリストです。

イエス様は私たちが経験する全ての苦難も誘惑も体験されたにも関わらず罪を犯されなかった。そして、十字架の死という苦しみをも耐え抜かれたお方です。
だから、私たちがどんな苦しみにあったとしても、理解してくださるのです。
鞭打たれた痛みによって、私たちの病の苦しみも理解してくださるのです。

誰に理解してもらえなくても、イエス様は理解してくださっています。
そうです。既に理解してくださっているのです。

「主よ。私は今こんな苦しみの中にいます。つらいんです・・」と祈るとき、
主は、「わかっているよ。あなたがその苦しみの中で苦しみ、つらい思いをしていることを知っています。そして、よく耐え忍んでいるね・・・」と語ってくださるのです。

完全な理解者であるイエスキリストがあなたの全てを知ってくださっているのです。


でも、そのお方が次のように言われています。

2.初めの愛から離れた。:4、:5

:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

非難すべきこととして、「初めの愛から離れてしまった」と言われています。

初めの愛とはどういうものなのでしょう。
いろいろあるでしょう。それぞれみなさんが示されるところがそれであると思います。

私は救われた初めの頃、この素晴らしい救いを、まことの神様を友人に伝えたいと思って、同級生に連絡を取っては、会って証をし福音を語りました。
時には、それが女性である場合は、ファミレスに呼び出して、教会の姉妹2人以上に一緒にきてもらって、話したり話してもらったりもしました。
会社の人にもそうしましたし、路傍伝道も頑張った時期もありました。

しかし、胡散臭がられたり、煙たがられたりして、なかなか思うようには導かれず、同級生は未だ救われていません。
そのうち、そのように見られるのがいやになり、伝道に対する熱が冷め、特に同級生に対しては伝道しなくなりました。
しかし、いろんなことの中で、やはり救われてほしいという思いが再燃してきました。
でも、同じ失敗を繰り返さない為にも、まずは関係作りからしていこうと思うようになったのです。
クリスチャンである前に友人であること、人間関係、信頼関係が築けなければ自分が語る言葉を信用してもらうことが簡単ではないことを学んだのです。

同窓会の幹事を引き受けたり、仕事の関係での人との付き合いもなるべく持つようになったのも、そのようなことからでした。

初めの愛から離れてしまったときもありましたが、今はもう一度立ち返ろうとしています。
最初はその愛を勢いだけで行動していましたが、今は内側にその愛をしっかりと持ちつつ、初めの行いである伝道、証をし、福音を語ることをしようとしています。

あなたは、初めの愛から離れていませんか。
友人の救いのために祈り伝道した愛。
家族の救いのために祈り伝道した愛。
兄弟姉妹を愛し、交わりを大切にした愛。
教会を愛し、互いに仕えた愛。
そして何よりもイエス様を愛し、祈り、ささげた愛。

もし、離れているならは、イエス様は、
「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」と言われています。

結)初めの愛に・・・
最後にイエス様は、
「:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 」
とも言われました。
ちゃんとフォローされています。気持ちは同じだよ。とメッセージしてくださっています。
だからこそ、このお方に応えようと愛が働くのではないでしょうか。
また、
「:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
と、聞くものに対して、勝利を得る者と表現し、その恵みと祝福が用意されていることも示して、弱い私たちを励まし、押し出してくださるのです。

真の理解者であるイエス様が私たちを理解してくださっています。
そのお方が言われる「初めの愛」を持ち続け、勝利を得る者となりたいですね。

今、あなたはどのような状態でしょうか。いや、どのような状態でも、その状態を知って、まず一歩を踏み出すときに、イエス様は私たちに最善をなし、導いてくださいます。
十字架で自らの命を捨ててまで愛してくださったお方なのですから。。
祈りましょう。