07.7.8「約束の地へ入る道」
ヘブル 3:6-19
:6しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
:7ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
:8荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
:9あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
:10だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
出エ17:1-7、民14:1-、詩95:7-11
序)荒野の40年
この箇所は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民がモーセに導かれて、神様の数多くの不思議としるしを見、体験し、エジプトから脱出し、更に神様の多くの御業を見、体験していったにもかかわらず、何度も何度もつぶやき、モーセたちと争い、神様を試みた箇所を総じて書かれている箇所とも考えられます。
それは、出エジプト記からレビ記、民数記にいたるまでの期間の出来事です。
:7-:11に引用されている聖句は、詩95:7-11です。
1.約束の地に入れなかった人々
エジプトを出た民は、エジプト軍の猛追に対し、神様が海を分け、そこを逃れの道として導かれ、エジプト軍は、海に飲まれて滅ぼされたり、昼は雲の柱、夜は雲の柱によって守られ、導かれて、荒野を進んでいくことができたりしました。
あるときは、エジプトにいれば、肉も食べられたのに、こんな荒野につれてきて、飢え死にさせるつもりなのか、エジプトにいたほうが良かったなどとつぶやき、モーセと争い、神様を試みた民に対し、神様はマナを降らせ、養われたりしました。
また、あるときは、飲む水が不足したときにも、神様の御業で、モーセが杖で岩を打つと水が出て、渇きを潤されたり、、、
幾度となく、モーセと争い、主を試み、不平不満を言った民でした。
それらの民は、エジプトで生まれ育ち、大人となった人がほとんどだったようです。
だから、何か不満があると、すぐにエジプトにいたほうがよかった、エジプトに戻ろう、等と主を試みたのです。
そして、民数記14章では、とうとう主は、十度も主を試みた民を滅ぼそうとされました。
しかし、モーセがとりなしたおかげで、滅ぼされることはありませんでしたが、約束の地、安息には入れないと神が誓われたのでした。
そして、ヘブル書では、安息に入れなかったのは、不信仰のためであったと書かれています。
だから、不信仰の心になって生ける神から離れないように気をつけることや、罪に惑わされてかたくなにならないように、、と戒めています。
2.約束の地に入るために
私たちが同じ失敗をしないために、不信仰の心とならないために、ここに答えが書いてあります。
そのキーワードが「きょう(今日)」です。
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
「今日」は、今日だけです。24時間前の今日は、今は昨日です。24時間後の今日は、今は明日です。でも今の「明日」は24時間経てば、「今日」になります。
つまり、昨日や明日やそれよりも前も先も「今日」ではないのです。
すなわち、「今日」は毎日やってきて、そして去っていきます。
これは何を意味するのでしょう。
:6に、
・・・もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
:14には、
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
とあります。
エジプトを脱出した民は、神が約束の地へ導かれるという神の約束という希望と確信を持っていたはずです。
それを持ち続けていたならば、荒野での40年間、主を試みることもなく、約束の地に入ることができたはずなのです。
簡単なようで難しいことかもしれません。
毎日毎日、つまり「今日」を毎日主に信頼して、心を主に向けて、励ましあっていくことが、私たちの神様に対する信仰ということが言えるのです。
毎日毎日、マナを食べ続けることは、飽きてくるじゃないかと思えます。
だからといって、主は日替わり定食のように曜日によってメニューを変えるようなことはされませんでした。
神様は毎日やってくる「今日」に同じものを与えて、その繰り返しの日々を送らされたのです。
その中で、民が確信と希望とを持ち続けていけるのか、その信仰を見られたのかも知れません。
私たちの信仰生活でも、何か変化や刺激がほしいように感じることもあるでしょう。
しかし、それは表向きの一時的なものでしかありません。
私たちの心の奥底には、しっかりとして神様に対する信仰を持ち続けていくことが求められているのです。
それは、マンネリ化したものだとか、かわりばえのしないものだとか、そんなレベルの話ではありません。
神様の救いは、変わらないのです。時には刺激的になったり、時にはいい加減になったりするものではないのです。
昨日も今日もとこしえに変わることがないのです。
イエス様が示された愛も同じです。
日によって多少愛の深さが違ったり、、、などということはないのです。
変わることなく、昨日も今日もとこしえに注がれ続けているのです。
神様の側は、何も変わりません。毎日、愛し、救い、養い、戒め、導き、満たされるのです。
私たちの側もまた、神様に対して、希望を確信を持ち続けていくことが、信仰なのです。
勿論、伝道のために、いつもとは違ったことをして、イエス様を知らない人に興味を持ってもらったり、私たちもまた、いつもとは違った集会や行事を通して、刺激を受け、自分の根底にある信仰を再確認するときとさせてもらうことは、いいことです。
しかし、この根底にある信仰は、変わることなく持ち続けていくことが、神様の願いなのです。
そのときに、私たちもまた、神様の安息、約束の地に入るときが来るでしょう。
「今日」という日に神様に目をむけ、神様につながり、神様を信頼する。
そんな「今日」の繰り返しを途絶えることなく続けることが約束の地、安息に入る道なのです。
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