07.6.3「用いられること」
マタイ 20:1-16
:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
序)用いられる・・・誰かに頼りにされるということは、喜びだと思います。
子供が頼りにしてくる。嬉しいことです。
人に信頼される。これは嬉しいことです。
時には、疲れていてそれどころじゃない。というときはたとえ子供が頼ってきても、
「やめてくれ~」という気持ちになることも確かにあります(笑)
これは、自分が何もしたくない時に、何かさせられると感じるからでしょう。
今日は、神様が私たちを用いられる、ということを見ていきましょう。
1.神様は私たちを雇おう(用いよう)とされている方。
:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
夜明け、9時、12時、15時、17時と一日に5回も雇おうと出かけられている。
たとえ、わずかな時間でもいいから用いてあげたい・・・そんな気持ちなのでは?
それほど、用いたいと願っておられる。
神様は私たちも、用いたいと願っておられる。
働きは違うかも知れない、いろいろあるかも知れない、賜物も違うかも知れない、でも神様はそれぞれをいろんな形で用いたいと願っておられる。
まずこのことを知りましょう。
2.神様の報酬は不公平?!
これは、いい意味で不公平だと言えます。
神様は長い時間仕えた人にも、短い時間しか仕えなかった人にも同じ報酬を与えられた。
そうしたいと願われてそうされた。
これは、イエス様が来られた2000年前の弟子達が夜明けに雇われた人たちで、今の私たちは5時に雇われた人にあたる、と言えるかも知れない。
あるいは、クリスチャンホームに生まれ育って、ずっと教会で仕えて生涯を送った人が夜明けに雇われた人で、年老いてから救われた人が5時に雇われた人にあたる、と言えるかも知れない。
でも、神様は同じように、永遠の命を与え、救いを与え、恵みと祝福を与えられて、天国へと導いて下さる。
不公平は神様です。
これは、早く信じた人には救いを与えず、年老いて信じた人に救いを与えたという不公平ではありません。
早かれ遅かれ同じように救いを与えられるという不公平です。
実はこれは、大きな恵みです。
この事から教えられることを二つ・・・
①イエス様との関係は1対1の個人的な関係であること。
ほかの人がどれだけ報酬をもらったから、不公平だとか、ほかの人のことをとやかく言うこと自体が神様の前には不要なこと。
ペテロが、ヨハネのことを、「あの人はどうなのですか?」とイエス様に聞いた時に、
「・・・あなたに何の関わりがあるのか」といわれたように、
イエス様との関係は、1対1の個人的な関係であることを知ろう。
ほかの人がどうかということは、神様の前には関係ない。いい意味でも悪い意味でも。
牧師だから、神様から特別な祝福がある、信徒だからそこそこしかない。
そんなことはあり得ない。
神様の前には、みんな同じ神の子。
できのよい子もいれば悪い子もいるかも知れないが、神様の目から見れば、
「みんな私の子だ。何ができるできないは関係ない。私の大切な子だ」といわれている。
自分の命をかわりに十字架でささげるほどに、全ての人を愛しておられる方。
だから、ほかの人がこうだから・・・ということを神様の前で言うことはやめて、神様と自分の関係を築きたい。
②主に用いられることが喜びとなっているか。
:12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
神様に用いてもらえることは、素晴らしいことであり、特権です。これは喜びとなるべきもの・・
しかし、夜明けから用いてもらった人は、
「労苦と焼けるような暑さを辛抱した・・・」と言いました。
早く救われた人が、年老いて救われた人と同じ扱いを受けて、
「クリスチャンホームに生まれ育って、献身して牧師にもなって、こんなに長い間苦労して耐えてきたのに、死ぬ前に信じて救われた人と同じ扱いかよ?神様、そんなの不公平ですよ!」
っていっているのと同レベルじゃないかと思うのです。
早くから救われて用いられているからこそ・・・
>味わう祝福や恵み。
>知ることのできる神様の素晴らしさ。
>体験できる神様の奥深さ。
私たちが、神様に用いられることが労苦だと感じるなら、それは健全な心の状態とは言えないでしょう。
用いられるとは、奉仕するとかそういうことだけじゃないです。
神様の前に、できることをする。ということです。
もし、喜びと感じられないなら、何か原因があるはずです。
まずは、神様との個人的な関係を見直し、築き直しましょう。
正しい神様理解が正しい信仰になります。
結)神様は、わたしたちを用いたいと願って探しておられます。
今私たちにできることは何でしょう。
イエス様との個人的な関係を築くこと、そしてそれを深く強くすることです。
そして、神様に用いてもらっているなら、そのことが喜びとなっているかチェックすることです。
もし、なっていないなら何か原因があるはずです。
神様との個人的な関係を見直し、もう一度築き、深め強くし、神様との関係を健全で正しい関係にしていただきましょう。
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