2007/05/13

07.5.13「痛みを伴う愛」

創世記24:15-21
:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。
:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。
:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
:21 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

序)
今日は母の日です。
聖書にも、たくさんのお母さんが出てきます。
今日は、ヤコブすなわちイスラエルの母となったリベカの話から、共に教えられたいと思います。

聖書のこの箇所で初めてリベカが登場しますが、
創世記の27章では、リベカの夫であるイサクからその息子エサウが祝福を受けようとした時に、リベカはヤコブにその祝福を受けさせようとして、ヤコブをエサウになりすますようにして、祝福を奪い取ります。
その時に、ヤコブがお父さんにばれてしまってかえって呪いを受けてしまうかも知れない・・・
と懸念するのですが、リベカは、「その呪いはわたしが受けます」とまで言いました。
母親というのは、なんと強いのでしょう。
しかし、よく考えてみると、このヤコブが祝福を受け、そして後にイスラエルとなり、12部族が生まれ、それがイスラエル民族になっていったことを思うと、リベカのこの行動は大きな意味を持っているといえるでしょうね。

そんなリベカが聖書に最初に登場したこの箇所から、リベカがどんな女性だったのか、
また、そのことから私たちが学ぶべきことをも受け止めていきたいと思います。


1.旅人をもてなした。

リベカは、見ず知らずの旅人から、水を飲ませて下さいと頼まれました。

みなさんなら、どうするでしょうか?
わたしだったら、おそらく水くらいは飲ませてあげるかも知れませんが、らくだにまで飲ませることはできないと思います。
らくだって、すっごい飲むらしいですからね(^^;
1分間に一升瓶3本くらい飲むそうです。
今回、10頭のらくだと一緒でしたから、かなりの量でしょうね。

でも、リベカは、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、その後、
「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」
と自ら言い出し、急いで水を汲みに行ったのです。

ここから教えられることはなんでしょう?
即従順すること?主人には従順して仕えること?
わたしはそうは思いませんでした。

聖書には、
ローマ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
ヘブル 13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
と旅人をもてなすことが書かれています。
旅人をもてなすことは神の前に正しいことなんですね。
これは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」という律法をも全うすることです。

リベカは、「旅人をもてなし、隣り人を愛する人」だったんです。

これはここには書いていませんので、わたしの想像ですが、
リベカが旅人に対してこのようにしたのは、初めてではなかったと思うのです。
今までも、このようなことがあったときに、旅人をもてなし、また隣り人を愛するように、水を与えたりしてきたのだと思うのです。

:16に「この娘は非常に美しく・・」とありますが、
この美しさはそのような内側からにじみ出る美しさであったと思います。
よく、顔が輝くと言ったりしますが、別におでこが広くなったとか、化粧で顔じゅうにラメをつけたとか、そういうわけじゃないですよね。
何かいいことがあったり、気分がよかったり、内側に喜びなんかが溢れていると、外側にも見えるものです。
リベカは、隣り人を愛することができる人で内側からあふれ出るものがあったんだと思うのです。
だから、美しかったのだと思います。

さて、水を汲むといっても、日本によくあるツルベ式の井戸のような井戸ではありません。
らせん状に階段を降りて行って一番底にある水を汲んでまた階段を昇って汲んでくるのです。
大変な労力です。
リベカは筋肉隆々だったかも知れませんね。


2.痛みを伴う愛

リベカは、肩に水がめを乗せて、何度も何度も往復したのです。
どう考えても楽な作業ではありません。
隣り人を愛するというのは、麗しいような響きがありますが、実際には痛みを伴うものです。
肩にかかる痛みは、回数が増えるに伴って、増していったことでしょう。

隣り人を愛するというのは、痛みの伴うものなのです。

もし、今みなさんが、誰かに対して、痛みを感じているなら、それはその人を愛しているからといえると思います。
あなたは隣り人として、その人を愛しているのでしょう。
どうでもよければ、そんな痛みはやってきません。

また、逆に誰かを愛するということは、痛みを伴うことであることを知りましょう。


ここで、ひとつだけ、具体的に隣り人を愛するとはどのようなことなのかをみます。

リベカは、肩に水がめを負ったのです。
その旅人の必要を負ったのです。
ここから私たちは、
「重荷を負いあう」ということが隣り人を愛することのひとつであることが伺えます。
もちろん、他にもいろんな愛の行動があるでしょう。

何か、悩みがある、重荷がある・・・そんな時、
マタイ11:28には、
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
とありますから、
「クリスチャンなら、そんなことは、牧師や兄弟姉妹に相談するんじゃなくて、イエス様に相談して解決しなさい。」と言いますか?
そうじゃないですね。

同じ聖書にこうあります。
ガラテヤ6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
ヨハネ15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
ローマ 13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
ガラテヤ 5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

互いに重荷を負い合うこと、互いに仕えること、互いに愛し合うこと、これらは聖書の教えです。

人の重荷を負うことは時には痛みを感じることもあるでしょう。
でも、互いに祈ることは、十分耐えられる痛みではないでしょうか。

勿論、相手の重荷を負って祈ることすら、その痛みに耐えられない時もあるかもしれません。
そんな時は、正直にそのことをイエス様のもとに持っていきましょう。
主が既にその重荷を負って下さっています。

そうです。
互いに重荷を負い合うことは愛し合うことですが、
その時、主もまたその重荷を負って下さるのです。
重荷を負ってもらった人は、イエス様のもとへもいって重荷を負っていただきましょう。


結)リベカは痛みを伴う愛を持った人
リベカは、たとえそこに痛みが伴ったとして隣り人を愛する人でした。
私たちはリベカに今、会うことはできませんが、
リベカ以上の愛をもって、私たちを愛して下さっている、イエス様に出会うことができます。
イエス様は、十字架で命を捨てて、想像を絶する痛みをも受けて、わたしたちを愛して下さったのです。
このお方が私たちを愛して下さっている。

私たちもまた互いに重荷を負い合い、愛し合う者になりたいですね。
その時に伴う痛みは私たちにとっては痛いかもしれませんが、
イエス様はそれ以上の痛みを受けて下さった。(心臓が破裂するほどの痛み)
だから、痛みを伴うような愛を実践する時、イエス様はその痛みを知って下さっているし、その愛を全うして下さるに違いないと信じるのです。

今日、その一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。