2007/04/15

07.4.15「子供のように」

マルコ 10:13-16
:1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。:2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。:3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」 :4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。:7 それゆえ、人はその父と母を離れて、:8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」:10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。:11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。:12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」:18イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。


序)子供って素晴らしい
子供の可能性っていうのは、素晴らしいものがあります。
子供がなぜ素晴らしいのか?
それは、いろんな意味があり、いろんな面でその素晴らしさを見ることができます。
まだまだ将来がある、可能性がある、素直さ、純粋さ、感受性、、、
大人になると、素直じゃなくなるんでしょうか。
純粋じゃなくなるんでしょうか。
確かに子供のころと比べたらそうかもしれません。
でも、ゼロになるわけではないと思います。
大人の中には、大人と子供が共存していることもありますが、
子供の中には、ほとんどが子供であり、大人が共存し始めるのはもう少し先なんじゃないかと思います。
大人は知識があります。その上に、子供の純粋さ、素直さも兼ね備えられたら素晴らしいと思います。
子供は子供で素晴らしいのですが、それだけなら、既に大人になってしまった私たちには関係のないことになってしまいます。
でも、聖書にこのように書かれていることは、大人である私たちにも神様がメッセージを語っておられるのだと信じます。

共に見ていきましょう。


1.考えすぎる大人、ありのままの子供

先ほどお読みした箇所の前後を見ると、子供の話じゃないことが書かれています。

:1-12には、「離婚はしてもいいのか?」
といったことを聞いています。
また、:14-では、「どうしたら、永遠の命を受けられるか」と聞いています。

今日はこの内容そのものに触れるつもりはありません。

ここで教えられたことは、大人はすぐに頭で考えて、
いや、考えるのはいいことですが、考えすぎてしまうことがあるのだと思うのです。

律法、法律といったものがあると、すぐに抜け穴を探すのも大人です。
運転中の携帯電話は違反です。となったとき、
「じゃあ、信号待ちの時はいいの?」とか、
運転中に携帯電話で話すことは勿論、凝視することもだめだということになると、
「じゃあ、携帯を見ずにメール打つなら、違反じゃないの?」とか。
屁理屈をこねるのです。
本来の法律が作られた意味を理解するなら、そんなことをいちいち言わなくても、ちゃんと守ります。
わき見運転は危険です。
運転に集中していないと危険です。
これが法律の作られた背景でしょう。
それなら、運転中の携帯電話だけじゃなくて、CDを入れ替えたりすることも危険だと思って、走行中にそんなことはしないと思うのです。
大人は、すぐに考えすぎて、屁理屈をこねて、本来の意味を履き違えてしまうこともあるのです。

よく考えることは大切なことです。

でも、考えすぎたり、屁理屈をこねだすとそれはもう大人の悪い面といわざるを得ないと思うのです。

:13で、人々がイエス様にさわっていただこうとして、子供たちを連れてきましたが、弟子たちはそれをしかりました。
弟子たちはいろんなことを考えすぎたのかもしれません。
子供がたくさんいると騒々しくなるからとか、
イエス様に無礼なことをするかもしれないとか、、、

でも、イエス様は
「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。」(口語訳)といわれました。
「来るままにしておきなさい・・」という言葉に私は、
「自由にさせたいようにさせなさい」というような意味があるように思いました。

子供がなにかするときに、「なんでこんなことをするのか?」と思うことはあるでしょう。
でも、そこには子供の素直な自己表現があったりするのです。
自由に表現しているのです。そこには考えすぎたり屁理屈をこねたりするようなことはありません。

イエス様はそんな子供の正直な、素直な、純粋な心をそのまま受け入れてくださるのです。
そして、そのように子供のように神の国を受け入れるものでなければ、そこの入れない、とまで言われました。

私たちもまた、ありのままで生きる子供のようになってイエス様のところにいけばいいのです。


現実の社会では、子供のようになって行動するなら、受け入れてもらえないところがほとんどでしょう。
でも、イエス様の前では、子供のようになっていいのです。
いや、子供のようになるべきです。

イエス様の前では、考えすぎず、屁理屈をこねず、ありのままで自分の思うところを表現し、受け入れていきたいですね。


2.手を置いて祝福される

「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

そんな風に、子供たちがイエス様のもとへいったとき、イエス様は手を置いて祝福されました。
イエス様の手は何本ですか?
イカやタコじゃないんですから、8本も10本もありません。
2本です。
少なくとも、同時に手を置いて祝福できるのは二人までです。

また、「子供たちを抱き・・」とありますから、何人もの子供たちを同時にひざに抱くこともできません。
せいぜい2,3人、多くても4人くらいでしょう。

そう考えると、おそらくイエス様は、一人一人、順番にひざに抱き、手を置いて祝福されたのだと想像します。

イエス様は、ありのままでやってきた子供たちを一人一人抱き、一人一人手を置いて祝福されたのです。

私たちもまた、子供のようにありのままで、イエス様のもとに出て行くとき、イエス様は丁寧に私たちをいだき、手を置き、祝福し、慰め、励まし、語ってくださるのです。

簡単に1行で書かれている内容ですが、実に深いイエス様の愛がここにあらわされているのです。
この祝福に預かりたいですね。
いや、預かることができるのです。


結)イエス様の前では子供
私たちは大人です。
でも、イエス様の前では子供なのです。
そして、子供のようにイエス様受け入れ、イエス様の前に出て、自由に自分をさらけ出すことができるのです。

私たちは、イエス様の前ではかっこつける必要もなく、ありのままの子供であればいいのです。
そのとき、イエス様は丁寧に抱き、手を置いて祝福してくださるでしょう。
祈りましょう。