07.2.11「幸いな人として」
詩篇 1:1-:3
:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
序)幸いな人とは・・
今、野球のキャンプの時期ですが、よく目にするニュースが楽天のT中投手の話題です。大物ルーキーということで注目されているという点もあるのでしょうが、実際にN村監督も「一級品」とベタボメするスライダー等、実力も備わっているようですから、すごいです。このT中投手といえば、夏の甲子園で、S藤投手と投げ合ったということで、有名ですが、S藤投手はプロには行かず大学への進学を選択しました。T中投手は、どこからの指名でもプロに行くと決めていました。中には意中の球団からの指名じゃないということで、涙する人もいたり、中にはそのためにプロには進まない決断をした選手もいました。プロならどこでも、まずは大学へ、意中の球団以外は社会人・・・といったいろんな選択があります。どれが幸いかはその人が判断することでしょう。
そういう意味では、幸いというのは、人それぞれの感じ方によるともいえますね。
あなたにとっての「幸い」とはどうでしょう?
今日、お読みした箇所は、神様が「幸い」とおっしゃっている箇所です。
神様が幸いとおっしゃることとはどんなことなのか、一緒に見て行きましょう。
1.幸いな人とは:1
「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。」
これは言葉通りのことをいえば、悪者の計画に乗せられて共謀するようなことをしない、とか、罪を犯す人生を歩まない、とか、人の悪口を言ってばかにしたり笑ったりするようなことをしない、といったことです。
現実的には、銀行強盗を企む人に「一緒にやらないか」と誘われてその計画に乗るような人はいないでしょう。また、自ら罪とわかっていて、その道を歩もうとする人もいないでしょう。
以前、新聞に泥棒を続けてそのお金で豪邸まで建てていたという人が捕まった・・・という記事を読んだことがありましたが、罪人の道を歩んだ一つの例かも知れません。
でも、罪人というのは何も、悪いことをするという意味だけではありません。
まことの神様から背を向けて歩むことが「罪」なのです。ですから、神を信じない道に立つことをも意味しているといえるでしょう。ですから、神様に心を向けて歩む人は幸いですね。
また、人をばかにして笑ったり、悪口を言ったりするような場に遭遇することもあると思いますが、そのようなところにも参加しないというのが幸いな人だと言っています。ついつい腹が立つことがあったりすると、悪口を言ってしまったり、言っている人と一緒になって同調したりという弱さはありますが、そうしない人を幸いな人だと言っているのです。
私たちは、目に見える出来事や人にも注意する必要はありますが、その背後に働く悪の力に対しても目を見張って、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人になりたいですね。
さて、そういう人は「幸いな人」だといわれているわけですが、そうは言っても、自分の力でこれを実行することは困難を覚えることも多々あるでしょう。実はそういう人である理由があるのです。
それが・・・
2.幸いな人となれるには:2
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
もし、先ほどのようなことを自分の力でやろうと思うなら、大変なことでしょう。おそらく自分の弱さに失望することになるかもしれません。しかし、
幸いな人は、そうなれる理由があります。それが、ここです。
その人は、主の教えを喜びとします。聖書の言葉を喜びとするのです。それが自分にとって、受け入れがたいことであっても、喜びとする人は幸いな人です。そして、昼も夜もその教えを口ずさむ、とあります。聖書の言葉を喜びとして受け入れ、いつも思い巡らし、口ずさんでいるなら、それに反する思いが自分に来た時に、気付きが与えられて、祈ることができるでしょう。
このように、神の言葉、聖書の言葉が幸いな人にとって、力となるのです。
わたしたちは完全には程遠いものですが、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむものになりたいですね。そして神様は聖霊として、私たちと共にいて助けて下さるのですから、ますますイエス様を求めていきたいと思います。
では、そのような幸いな人はどうなるのでしょう。
3.幸いな人の道には:3
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
素晴らしい祝福です。水路のそばに植わった木は、その水路から十分な水分をとり、栄養をとり、成長します。そして、季節がくると実が自然となり、その葉は枯れることもありません。そんな人生を歩むことができるという約束です。
私たちが主の教えを喜びとし、いつもその教えを思い、実践していく、つまり、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざけるものの座に着かないなら、絶えず必要に満たされ、何か特別なことを何もしなくても、時が来ると自然と実を結びます。そして、何もしても栄えるのです。
アブラハムは、神様の祝福がいつもありました。だから、何をしても栄えました。そんな人生が私たちにも用意されています。
しかし、このことは、今の私たちにはなかなか理解できないかもしれません。
「今、なかなかうまくいかないことがある。これで本当に幸いな人生なんだろうか・・」
もし、そのように感じるなら、理由は2つのうちどちらかだと思います。
1つは、主の教えを喜びとせず、その教えを思わず、口ずさまず、実践していないから。。
もうひとつは、そのようにしているが、今はまだわからないだけ。。
人生の終わりに、振り返ったときに、「歩んでいる最中は気づかないことが多かったけど、本当に幸いな人生だった。」とわかるに違いないと信じます。
ですから、今は、イエス様に目をむけ、イエス様を目指して、イエス様と共に歩む人となるなら、本当に幸いですね。
今日、幸いな人としての一歩を踏み出す人は幸いです。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home