07.2.4「明るく輝くなら」
ルカ11:33-36
:33だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
:34からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
:35だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
:36もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」
序)あかり、光は大切なもの
以前、旅行に行ったときのことです。
寝る前に、カーテンをひきました。
かなり立派なカーテンだったと記憶しています。
次の朝、目覚ましで目を覚ますとまだ真っ暗。。。
まだ朝じゃないのかと思いましたが、そんなはずはありません。
そう、カーテンが分厚く遮光カーテンだったので、光が入って来なかったのです。
家の中に明かりが入ってくるのは、窓からです。窓が光を遮るようなものに覆われていたらその部屋は暗くなります。
光は本当に大切ですよね。
周りを照らしてどこに何があるかわかるようにしてくれる。
それによって障害物に注意しながら歩くことができるし、ものを探すこともできる。
また、明かりがついていると、それを目印にしてそこに向かって進んでいける。
岬の灯台とかはそのものですね。
また、高い建造物の上などには、明かりが点滅していたりします。
これは空を飛ぶ飛行機などがぶつからないように注意を促すために点いています。
いろんな意味で光、明かりは本当に大切ですし、重要な役割を果しています。
イエス様もこのたとえで、あかり、光について語られています。
私たちとイエス様との関係の中で、このあかり、光についてみていきましょう。
1.からだのあかりは「目」です
からだを家とたとえれば、目は窓と言えるのではないでしょうか。
目が健全なら、全身も明るいと言われてます。
もし、家の窓が曇っていたり、子供が黒のマジックで落書きだらけになってもそのままに放置しておいて、更にそれがひどくなっていったらどうでしょう。
その家の中に入る光はどんどん暗くなっていくでしょう。
カーテンを閉めれば暗くなります。それが遮光カーテンなら真っ暗になるかもしれません。
真っ暗になった家の中を動き回ると壁にぶつかったり、机の角で打つかもしれません。
怪我をしてしまいます。
同じように私たちの内側に光が届かず暗闇になるなら、悪いものが襲ってきても気付かずに傷つけられたり、自分で闇雲に動いてしまって怪我をすることもあるかもしれません。
そうならない為にも私たちは窓をきれいにしておく必要があります。
またカーテンで光を遮らないようにすべきです。
私たちの体のあかりは目ですから、目を守って暗くならないようにする必要があります。
目とは何でしょう。詳訳聖書では、「良心」と書かれてあります。
目は見張る役割もしますよね。まさに良心の役割です。
この良心を守るためには、どうすればいいのでしょうか。
?御言葉によって、汚れを教えてもらう。照らし出してもらう。
御言葉は私たちの心を照らし出します。
聖書を通して多くの人が内側に何かしらの変化を体験しているのです。
これはまさに心を照らされているということではないでしょうか。
鏡のようなものともよく言われます。
自分ではなかなか見えないものを写し出してくれるのです。
でも、その汚れが見えたからそれだけでいいのでしょうか。
?イエス様によって、汚れを清めていただく、取り除いてもらう。
汚れたままでいいので、イエス様の前に出るのです。
イエス様は私たちのその汚れを清めて下さる方だからです。
その時に私たちの体は明るくなるでしょう。
聖書を通して、示されたり、教えられたりした時に、
「う?ん、いい話しだ。いい教えだ」と感心しているだけではなく、
イエス様の前に出ることも重要なのです。
ですから、礼拝メッセージの後の祈りも大切なんですね。
私たちは、イエス様によって目を守り、私たちのうちの光が暗闇にならないように気をつけましょう。
2.全身があかるいなら
そのように私たちの目を守り、うちのあかりが暗闇にならないようにしていくなら、全身があかるくなるでしょう。
その時、その人は輝いて、周囲をも照らす、明るくする存在になるのです。
よく「あの人は輝いている」とか「あの人の顔は輝いている」とかいいますよね。
別にその人の額が広くて、光ってるからいっているわけでもなく、紅白の○川○一や小○幸○をさしていっているわけでもありません。
これは実際に光ってるわけではなくて、そのような表現をしているに過ぎません。
モーセがシナイ山で神様と話しをし、十戒を持ち帰ったときは、顔が輝いていたと書いてありますから、神と語り合い、神と交わったなら、本当に輝くのかもしれませんね。
人は内側が明るく光りを持っているなら、外側に向かってそれが現れるんですね。
でも、窓をきれいにして外から光を入れることも大切かも知れないけど、電気を点けたらそれでいいんじゃない?という人もいるかも知れません。
同じようにイエス様という光をうちにいただいたら、内側は絶えず光をもっているんだから、もう目はどうでもいいんじゃない・・・と。
そうでしょうか?
もし、雨戸を閉め切った家の中で電気を点ければ家の中はあかるいでしょうが、
そのあかりを外にはなつことはできません。
私たちも、内側にイエス様の光を持っていたとしても、
目が悪ければその輝きを外に放つことはできません。
それにイエス様は、
「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、・・・」といわれてます。
既に内側に光があることが前提のことばです。
光があっても、暗闇になる可能性があるから、こういう言い方をされたのではないでしょうか。
ですから、どちらにせよ、目が健全であることは大切なことです。
それは、うちの光が暗闇にならないためにも、その光を外に放つ為にも。。。
結)さて、わたしたちの目はどうでしょうか。全身は明るいでしょうか。
もし、明るくないのなら、聖書を通し、イエス様の前にでて、その原因を教えていただき清め、きれいにしていただきましょう。
もし、明るくてうちに光があるのなら、暗闇にならないように気をつけましょう。
その時に、別に光を放とうと力まなくても、光は放たれていくのです。
そう、うちの光が暗闇にならないように守っていくなら、
光は自然と外に向かって明るく輝くのです。
1 Comments:
今日、サイトを見て、新しく来てくださった方がいらっしゃいました。
本当に感謝なことです。
サイトを通して、オアシスチャーチを通して、すばらしい神様に出会っていただければ、言うことはありません(^^)
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