07.4.8「伝えられるべきイエス様の復活」
マルコ16:1-7
:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
:5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
序)キリストの復活祭。
クリスマスと同様かあるいはそれ以上に重要なのが復活。
復活がなければ、わたしたちの信仰はむなしいものとなる。
クリスマスは救い主の誕生という喜びでもあるが、それは十字架での死への第一歩でもある、
と思うと苦しい道であるようにも感じる。
復活祭は、死からの復活という栄光に満ちた出来事で、悲しみから喜びへの変化といえる出来事。
誕生は人にでもあるが、復活はキリスト以外にない。
そういう特別な出来事が復活祭である。
この復活を記念して御言葉を開いてみましょう。
1.イエス様は完全な勝利をとられた、完全な勝利者
「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」
霊が甦ったとかそういうものではなく、確かに墓には肉体がなかったのであり、
「ここにはおられません」と言われたのです。
エノクは死を見ずに、天へ神が引上げられたという記事がありますが、死んで、葬られ、黄泉に下り、そこから甦って地上で御自身をあらわし、その後、天へ昇っていかれたのは、キリストだけであり、「死」を打ち破り支配するという完全な勝利者なのです。
先日、MLBで、松坂が初登板・初勝利しましたね。
日本のプロ野球も開幕しました。
ペナントレースの全試合を全勝で優勝し、クライマックスシリーズを全勝し、
日本シリーズを全勝で日本一になったらすごいですね、、でも不可能でしょう。
しかもその全てが完全試合だったら・・・。
イエス様の完全な勝利は、これ以上、こんなことなんでもないほどの勝利なのです。
どんな辛いことや、悲しいことや、落ち込むことや、苦難があっても、死ぬほどのものはないのではないかと思います。
私たちにとって、「死」とは究極的に打ち勝てないものです。
しかし、イエス様はこの「死」を打ち破り勝利を取られた完全なる勝利者であり、
このイエス様を受け入れて歩む人生はこの勝利を共有できる人生になるということなのです。
2.復活は伝えられるべきことであった
「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。」(口語訳)
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『・(略)・』とそう言いなさい。」(新改訳)
このことは最後に触れます。
3.イエス様は人にわかる形であらわれて下さる「そこでお会いできます。」
弟子達に出会い、食事をして復活した肉体をはっきりと示されました。
疑ったトマスに対しても、傷ついた手を見せ、穴の空いた脇に手を入れてみなさいとまで言われ、明確に示され現されました。
具体的にその人に対して、御自身を現して下さるのがイエス様です。
イエス様は、私たちの生活の中にも具体的に御自身を現して下さる方。
苦しい、つらい、悲しい・・・そのような中でもイエス様は完全な勝利者であり、そのイエス様を迎えいれ共に歩む時に、その勝利にあずかるんだと聞いて、元気になるだけではなく、人生の終わりに振り返ってみた時に、イエス様が御自身を明確に現されたと言えるに違いない。
みなさんの中でも、今苦しくても辛くても、完全な勝利者なるイエス様を見上げて歩む時に、時満ちるに及んで、イエス様が御自身を現して下さることを見る時が来ると確信します。
結)伝えられるべきこと
「死」というような失望をも打ち破って勝利された、勝利されるイエス様のもとに行く時に、
その勝利を共有し、具体的にあらわれて下さるという恵みが復活祭にはあります。
この恵みに預かるものとなるなら幸いです。そうなりたいですね。
しかし、この恵みを知らずに、「死」と同様な失望の中にいる多くの人もいることも事実です。
このことを思う時に、
2.の「伝えられるべきことであった。」
ということは重要な意味を持つことであると言えるのではないでしょうか。
ちょっと勘違いしないで下さいね。
「伝えなさい」「伝えましょう」とはいっていませんし、言いません。
「伝えられるべきことであった、ということをまず知りましょう。」と言っているのです。
今は伝えられなくてもいい、今はこの恵みに預かることが先決です。
伝えられるべきことであるということを理解することが先です。
その上で、恵みを体験し、「伝えたい」と思ったら、その時に伝えればいいんです。
そう、「伝えられるべきこと」として。
私たちは、まず、完全な勝利者なるイエス様を知り、味わいましょう。
そして、この勝利に共に預かるものになりましょう。
そして、具体的に自分の人生に生活にあらわれて下さるイエス様を体験しましょう。
これらは恵みです。
そして、この素晴らしい恵みであるイエス様の復活は、
「伝えられるべきことであった」ということ、
そして、伝える時が来た時に何を伝えればいいかを心に留めておきましょう。
この素晴らしい恵みに今日、もう一度あずかりましょう。
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