07.2.18「主を羊飼いとする幸い」
詩篇231篇
:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
序)幸いな人
前回、詩篇1篇から幸いな人がどんな人なのかをみました。
今回は、詩篇23篇にも書いてある幸いな人をみていきましょう。
6節に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」とあります。
生きている限り、いつくしみと恵みが追ってくるというのです。自分が追い求めるのではなく、追っかけてくるというのです。幸いな人といえますよね。こんな人生を歩みたいですね。
ですから、23篇にも幸いな人についての内容が書かれてあるとわかります。
さて、こんな幸いな人、幸いな人生を歩むためのポイントを二つ見ていきましょう。
1.主を私の羊飼いとする。
1節に「主は私の羊飼い」とあります。
<主が>わたしの羊飼いというのとはちょっと違います。
<主は>わたしの羊飼い・・・です。
例えば、先生とか師と呼ばれるような人がいますが、これらは、周りの人が一般的にそう呼んでいる場合や、自分から言っている場合、ある特定の人が呼んでいる場合等があります。
小中学校の先生(教師)などは、新学期になると、「今日から、みなさんの担任の先生になりました、○○です」というように、自分から生徒に対して先生であることを言います。別にこれが悪いとかいう意味ではないので、誤解のないように(^^)
ところが、大学等になると、「あの先生・教授の授業が受けたいから」といって、授業を受けに行ったり、、、
あのお医者さんに診てもらいたいからということで、その医者を指名して診察を受けに行ったり、
板前、シェフなど料理の世界でも弟子入りして自らその人を「師匠」と呼んだり、、、
落語や芸術の世界などでは、弟子入りして、自らその人を「師(師匠)」と呼んだりします。
先生とか師と呼ぶ場合、自発的に「先生」と呼ぶ場合と、そうでない場合があることがわかりますが、わたしたちはイエス様に対してどうでしょうか。
ここでの「主は私の羊飼い」という表現は、イエス様の方から「わたしがあなたの羊飼いですよ」と言われているのではなく、自分から「イエス様は私の羊飼いです」と告白し、弟子入りするような感覚です。
さて、みなさんはイエス様に飼われている羊だと思ってませんか?
イエス様はそんなことはなさいません。私たちが「イエス様こそ、私の羊飼いです」と告白する時に、イエス様は私たちの羊飼いとなって下さるのです。
では、イエス様を私たちの羊飼いとした人は、どうなるのでしょう。
:1私は、乏しいことがありません。
①乏しいことがない。
リビングバイブルでは、「必要なものはみな与えて下さいます」とあります。
イエス様は私たちの必要を全てご存知です。
その上で私たちに必要なものは全て与えて下さいます。
ですから、マタイ6:33では、
まず神の国とその義とを求めなさい。そうすればこれらのものは全てそえて与えられるであろう。
といわれています。
:2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
②安息と養いが与えられる。
家畜のようにエサを食べさせ、肥え太らせるために養われるのではなく、
「緑の牧場に伏させ」とあるように牧草の豊かな牧場でゆっくりと寝転がって、そこで憩い、安息を得させて下さり、また流れの緩やかな水のほとりに連れていって、そこで水を飲んだり、あるいは水浴びをしてきれいにして下さるのかも知れません。
本当にゆっくりと休んでリラックスさせて下さることがわかります。
:3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
③回復させ、導かれる。
このようにゆっくりと休ませ下さり、さらにはその魂を生き返らせて下さる。
つまり、死んでいた魂をも もう一度行きかえらせてくださるのです。
そして、御名のために・・・イエス様のための働きができるように導き助けて下さるのです。
イエス様のための働きとは、別に牧師になるとか宣教師になって海外に行くとかいうことだけじゃなくて、普段の生活の中でイエス様と共に歩むときに、その人にイエス様が計画されている最高の働きができるようにして下さるということです。その導きをイエス様が与えて下さるのです。
:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
④わざわいを恐れず、慰めが与えられる。
たとえ、死の暗い谷間を歩くことがあっても、恐れない。それは、イエスさまが共にいて守って下さるからです。なんと素晴らしい守りでしょう。危険な道を歩む時に、イエス様のむちと杖で導いて下さるから、そのむちと杖に私にとっては危険から守ってくれる慰めとなるんです。
:5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
⑤完全な勝利の中で祝福に満たされる。
敵の前で食事と整えるというのは、なんという余裕。完全な勝利です。そして、頭に油を、つまり祝福を注いで下さるのです。そしてその杯はあふれている。素晴らしい満ち溢れた祝福が私たちに注がれるのです。なんという圧倒的な勝利であり、祝福でしょうか。
:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
⑥生涯いつくしみと恵みに追われる人生となります。
そして、私たちの生涯、死ぬまで、いつくしみと恵みが追ってくる人生。追い続ける人生ではなく、恵みが追ってくるのです。なんという幸いでしょう。
主を自分の羊飼いとする人にこんなに素晴らしい人生が用意されているのです。
主を私の羊飼いとしたいと願われますか。それは本当に幸いな人です。
2.いつまでも主の家に住まう。
最後に「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」とあります。
イエス様を私の羊飼いとする時に、イエス様のそばでイエス様と共に歩む人生を送るときにこんなに素晴らしい人生となるなら、わたしたちはどうしたいと思うでしょう。
素直に、「いつまでもそうしていたい」と思うのは自然なことでしょう。ですから、このダビデの歌も最後にその言葉でしめられているのかも知れません。
主を羊飼いとし、その家に生涯住み続ける。そんな人生を歩みたいですね。
今日、主を私の羊飼いと告白する人は幸いです。そして、いつまでも主の家に住まう人は幸いです。
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