07.3.11「イエス様との関係」
ルカ 19:1-10
:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
序)イエス様がエリコに入って町を通っていかれた時の話しです。
その町にザアカイという取税人のかしらがいました。
このザアカイがイエス様を見ようとやってきたわけですが、見れません。
なぜ見れないのか。。。それは群衆にさえぎられていたからです。ということは、イエス様の通る道の両側にはたくさんの人がいたわけですね。
そこで、ザアカイはそこにあったいちじく桑の木に登ってイエス様を見ようとしました。
そのザアカイとイエス様との関係から、わたしたちとイエス様の関係を見ることができます。
共に見ていきましょう。
1.イエス様は個人的に関わって下さる
イエス様は木の登っていたザアカイに向かって「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。
ザアカイは急いで下りてきて喜んでイエス様を迎え入れました。
イエス様が個人的に関わられたことをみていきましょう。
①「ザアカイ」・・・名前を知っておられた。
イエス様はザアカイとは初対面なのに、名前を知っておられたのです。
もし、天皇陛下が通られる時に、その群衆の中にいて、目の前を通っていかれる時にふと止まって、「○○さん。急いでこちらに来て下さい。今日あなたの家に・・・」と言われたらどうでしょう。「なんでぼくの名前を?」と思うでしょう。
イエス様はザアカイと個人的に関わるために名前を呼ばれました。
みなさんは、イエス様にはじめて祈った時どう祈りましたか?
「イエス様、はじめまして。ぼくの名前は○○○○○です。以後お見知りおき下さい。
さて、早速ですが私は罪人です・・・」なんて祈られましたか?
そんな祈りしてませんよね。
「イエス様、私は罪人です。私はあなたを信じます・・」と、自分の名前なんて名乗ってません。
これはどういうことでしょう。そうです。イエス様は私達がイエス様を知る前から私達の名前をご存知なのです。
だからザアカイの名前も知っておられた。きっとザアカイの近くにいた人も、またそこにいた群衆の全ての名をご存知であったと信じます。
イエス様は私達の名をご存知なのです。
教会では、牧師はあなたのことを、10人の教会なら10ぶんの1としてしか見れないかもしれません。200人の教会なら200ぶんの1としてあなたを見ることしかできないかもしれません。これは牧師は人間なのですから仕方のないことです。
しかし、イエス様はあなたを1ぶんの1としてみて下さり、関わって下さるのです。
最初からイエス様は私の名前を知っていて下さり、その名を呼んで下さる方なのです。
それほど親しく個人的に関わって下さっているのです。
②「あなたの家に泊まることにしてある」・・・時間をかけて関わって下さる。
泊まるということは、ゆっくりと交わることをさしますね。
別に夜更かしするとは限りませんが。。
以前、夏のキャンプでも兄弟達で夜遅くまではなしてました。泊まるということでゆっくりと時間をかけることができます。
それほど親しく交わることができ、お互いを知ることができるのです。
ザアカイもイエス様のことをよく知ることができ、親しくなったことでしょう。
イエス様はこのように個人的に親しく関わって下さるのです。
「個人的な関係」これがイエス様と私達の関係の一つですね。
2.イエス様は罪人と関わって下さる。
人々はつぶやきました。「彼は罪人の家にはいって客となった」と。
イエス様は罪人と関わって下さいます。
皆さんはこんな経験ありませんか。
「自分はなんて罪深い人間なんだ。汚れたものだ。神の前に立つにふさわしくないものだ。。。」と思い、神の前に出られない、いくことができないと思ったり、祈れないと思ったり、礼拝にいけないと思ったり。。。
「もう少し神の前に立てるようになってから。。。」と思ったことはありませんか?
イエス様は罪人と関わって下さる方です。
神の前に立てないと思えるような自分、汚れていると思える自分・・・その自分のままで個人的に関わって下さるのがイエス様です。
だから、そのままでイエス様のもとに行けばいいんです。
また、全ての人は罪人です。
私もあなたも。。。
罪許された罪人か、罪許されてない罪人か、の違いはあるかも知れませんが。
ですから、イエス様は全ての人(罪人)と関わって下さる方であることがわかります。
しかし、この箇所では周りの人々がザアカイを罪人呼ばわりしているのですから、同じ罪人同士、人間同士で見ても罪人と見られていたザアカイでさえ、イエス様は関わっていかれたのです。
ですから、私たちもどんな状態であったもイエス様は関わって下さることを知りましょう。
3.ザアカイは個人的に応答した。
さて、イエス様と個人的に関わってもらったザアカイはその後どうなったでしょうか。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
まず、自分の財産の半分を貧民に施すと言いました。
これは、大切な戒めである「自分を愛するように隣り人を愛する」に応答しているのかも知れません。
半分は自分を愛するように自分の為に、もう半分(同じだけ)は隣り人を愛するためにお金に不自由している貧しい人に施すという応答です。
これはザアカイの個人的な応答です。
皆さんが同じことをする必要があるといっているのではありません。
神様の前に自分が個人的に応答できれば本当に幸いです。
もうひとつ、「だれかから不正な取立をしていたら、4倍にして返す」です。
出エジ22:1に、「牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」とあります。
ザアカイはこの羊を盗んだ時の償いである。4倍にして返すということに応答したのでしょう。
『御言葉に応答した』のでしょう。
私たちも神様の前に応答する時、ある時は御言葉に応答しましょう。
これは御言葉を聞くだけでなく、御言葉を聞いて行うことの実践であるといえますね。
私たちも個人的にイエス様に応答したいですね。
結)さて、その時、イエス様はなんといわれましたか。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
救いを宣言されました。
そしてこの言葉に注目しましょう。
「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
失われていたザアカイを尋ね出して救われたのです。私達も失われていた者ですが、イエス様が探し出して救って下さった。
エゼキエル34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
イエス様自ら尋ねて探し出して下さるのです。
既にイエス様を知っている私たちはどうすべきでしょうか。
イエス様に近づきましょう。イエス様のもとに行きましょう。
ザアカイがイエス様の近くに行ったように。。。
そうしてもしていなくてもイエス様は私たちを尋ね、探し出し、個人的に関わって下さるのです。
このイエス様に応答する人は幸いです。
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