07.5.20「 愛すること、確かめること 」-霊を識別する必要-
1ヨハネ 4:1-6
:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
:2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
:4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
:5 彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。
:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
1ヨハネは、「愛」について多く書かれている。
特に、3~5章のこの箇所以外はほとんど「愛」についてかかれている。
なのに、この4章の前半1/3くらいだけが、「霊」について書かれています。
これは何を意味し、神様は何をメッセージされているのでしょうか。
1.霊は、受け入れる前に確かめる
愛する、ということは何でも受け入れたりしてしまいやすく、排除しなくなりがちであると思います。
ですから、受け入れてはならないものをちゃんと識別し、確かめることが必要であるとメッセージされていると思います。
愛するとは、「何もかも全てを受け入れる」ことではないのです。
クリスチャンでない人を愛します。受け入れます。
しかし、その霊を受け入れることは十分に吟味しなくてはなりません。
偶像礼拝をする人から、その霊を受け入れることはさけるべきですが、その人を避けるのではありません。
その人は愛しうけ入れてもその霊は避けるべきです。
ハリー○ッターは魔術のことがたくさん書かれた本らしいです。
だからその霊(悪霊)を受け入れることはしてはいけませんが、ハリー○ッターを読んだ人、見に行った人は受け入れます。
その人を愛します。主もその人を愛しておられます。
しかし、その霊は受け入れません。主もまたその霊は拒まれます。
しかしもし、相手がクリスチャンだったら、どうでしょう。
クリスチャンだからといって、その霊を全て受け入れてもいいでしょうか。
クリスチャンだからといって、その人がやっていることを全て肯定していいでしょうか。
クリスチャンとは、罪赦された罪人です。
クリスチャンじゃない人は、まだ罪の赦しを受け入れていない罪人です。
どちらも罪人にかわりないのです。
クリスチャンが言っていることだから間違いない、などと思ってはいけません。
思っていなければ、大丈夫ですが(^^;
ハーベストタイムなんかで、クリスチャンが証しされています。
牧師や宣教師をはじめ、普通の主婦から実業家や会社の社長、芸能関係や音楽関係、スポーツ選手など様々な人がクリスチャンとして証ししています。
これは素晴らしいことですし、その証しは人を励ましますが、だからといってその人が言っていることは全て正しく受け入れてもいいとは限りません。同じ罪人なのです。
だから、私がクリスチャンだからといって、ここで語っている言葉は全てそのまま受け入れていいとは限りませんよ(笑)
だから、よくお話するように、御言葉そのものはそのまま受け入れてもいいが、人の話しはたとえ聖書からであっても、鵜呑みにするには、十分注意が必要であるのです。
吟味することが必要です。
でも、吟味するのは、難しい時代ですよね。
出エジプト5章以降に書かれてありますが、
主の命令によってモーセとアロンがエジプトに奴隷として寄留しているイスラエル人を導く為に、エジプトの王、パロのところへ行って交渉します。
しかし、パロはさらせません。
7章以降では、そのためにモーセはパロの前で次々としるしを行います。
まずは、杖をパロの前に投げ出すと、ヘビになります。
しかし、パロが呪術師を呼び寄せ、秘術によって同じことをしたのです。
呪術師の杖もヘビになったのです。しかし、モーセの杖のヘビにそのヘビたちは飲み込まれてしまいましたが。
その後、ナイル川の水を血に変えました。
その時も呪術師は同じことをしたと書いてあります。
またその後、かえるを地にのぼらせましたが、その時も呪術師は同じことをしました。
その次は、地のちりをぶよにかえましたが、その時は呪術師はできませんでした。
その後、あぶの群れ、疫病、うみの出る腫れ物、火の雹、いなごの大群、そして、初子をうった過越です。
ここでは、多くのことがメッセージで語られてきましたし、語られるでしょう。
今日はひとつのことだけ注目します。
モーセが神のしるしとして行ったしるし、奇跡を呪術師も行ったのです。
勿論、全てではありませんが。。。
しかし、目に見えるしるしとしては、同じことが神の業としてなされることもあり、
悪魔の業としてなされることもあるということがわかります。
だから吟味の必要があるのです。
2コリント11:13-14
:13こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
:14しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
この11章を読むとわかりますが、
別のイエスを・・・
異なった霊を・・・
異なった福音を・・・
とあります。同じクリスチャンであると思っていても、ニセモノがいることがこの時代からあったのです。
また、2テサロニケ2章も是非読んでいただければと思います。
:9-10には、
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。
はっきりとサタンの働きによる、力、しるし、不思議が伴うことがかかれてあります。
実は、ベ○ーヒン、ロ○ニーHブラウン、トロントやペンサコーラの働きも、その霊は怪しいという人たちもいます。
金歯になったとか、手の平に金粉が出てきたとか、同じことが魔術の中の錬金術でできるらしいです。だからといって、それを吟味し、「悪霊だ!」とはなかなかいえませんが、神からの霊であるかという確信は得られません。
ですから、私は、否定もしないが肯定もしないという立場にいます。
私は、否定も肯定もしませんが、確信がないから受け入れないのです。
今は吟味するのは難しい時代なのです。
しかし、吟味できなかったとしても、わたしたちはそれを受け入れなくても、聖書があります。イエス様がおられます。
聖書からイエス様に直接教えていただき、導いていただけばいいのです。
外から、何かを受け入れる時に注意が必要なんです。
では、ここではどうやって見分けるよう書かれているのでしょうか。
2.イエスを告白する霊
:2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。
少なくとも、イエス様を告白するかどうかでまず判断できます。
しかし、先ほども言いましたように、クリスチャンだからといって全てを受け入れていいかというとそれも怪しい。
「別のイエス」がのべつたえられたりすることもあるのですから、
イエスの名を使っているからといって信じきってもいいとは言いきれないようです。
今は、難しい時代なのかも知れませんね。
よく、「聖霊様・・・」と言葉を聞きますが、父、御子、御霊の中で「御霊(聖霊)」だけが注目されているように感じます。
それが悪いのではありません。
しかし、ここではイエスを告白する霊と書かれてあるのですから、イエスを告白しているかどうかという点でも「聖霊さま」を強調しているのは、吟味するにこしたことはないと思うのです。
ベ○ーヒンの著書は、「聖霊様」が中心のようです。(読んでないので聞いた話しです。)
だめかどうかはわかりませんが、どうも焦点が「イエス」ではなく「聖霊」に向けられているように感じるのです。
そうすると、先ほどの御言葉のように、「イエスを告白する霊」ではなくなっていくように思えてしまいます。
確証はできませんが、そう感じる。という話しです。
聖霊・・と「霊」にばかり目をむけてしまうと、
そこで油注ぎの為に・・・と祈られている「霊」が悪霊であっても、
気付かずに受け入れてしまうかも知れません。
吟味する必要があるということを、心に留めていただければ幸いです。
私達は、まず「イエスを告白する霊」であるかを持って判断しますが、それ以上は、十分に注意しましょうとしか言いようがありません。
結論になってないですね。すいません。
でも、吟味しないよりは十分自分の霊を守ることはできると信じます。
そう、イエス様が守って下さるから。
結)
とにかくわたしたちは、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛するという神の戒めを守り、愛を実践しますが、その霊については、十分に注意が必要であると思います。
吟味は難しくても、注意することはできると思います。
でも、恐れることはありません。愛には恐れはない、完全な愛は恐れを取り除くとあります。
私達は、聖書そのものを受け入れ、イエス様から直接教えられ導かれて行く時に、完全な愛であるイエス様によって、恐れることなく、愛を実践できると信じます。
私たちのために十字架で命を捨ててくださったのは、イエス様です。
このお方を罪からの救い主として受け入れることが、最大の恵みです。
これには、聖書があればいいのです。
あなたは、聖書に書かれてある、イエス様の十字架の救いを受け入れておられますか。
幸いです。
その上で、前向きに愛する面と、注意すべき確かめる面とがありますが、聖書とイエス様を頼りに更に歩むものになりたいですね。
祈りましょう。
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