2007/06/24

07.6.24「互いに・・・」

ヨハネ13:1-17
:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうする思いを入れていたが、
:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

序)イエス様は、イエス様と弟子達の関係を示され、それを通して、今日の教会のあり方、神様と私達の関係を示唆されました。

ここでイエス様が弟子達にされた行動を通して、神様と人との関係、また人と人との関係、これは教会での人間関係とも考えられることだと思いますが、それらは、どうなのか、みていきましょう。


1.イエス様が足を洗われた。

足を洗うのは、しもべの役目でした。
そのしもべの役目を神であるイエス様が弟子達にされたのです。
イエス様は神ですから、人々の上に立つことができた方ですし、そうすることもできたでしょう。
しかし、しもべのように仕えられたのです。
これによって、イエス様がいかに弟子達を愛しておられ、最後まで愛しとおされたかということがわかります。
イエス様は裏切るユダをも愛されました。また、十字架の死に至るまで、愛しとおされました。

神であるイエス様がしもべのようになって仕えられたのに、人々の中で上に立つことができるような存在などないと言えるでしょう。

2年前に捕まった牧師は、牧師の言うことは絶対、神がわたしを立てられたのだから、わたしに従うことは神の御心であり、祝福だと言い、聖書だけでなく、この牧師が神に直接示されたということまで、神の言葉として語っていたというのです。

どうして、神が一人の人間をそんな神のような存在として立てられるでしょうか?
神であるイエス様でさえ、人に仕えられたというのに。。。
ですから、教役者に対して、わたしたちは感謝し、尊敬することはあっても、絶対的な存在にすべき方は、神様以外ないのです。
絶対的な言葉は、神の言葉、聖書しかないのです。
絶えず神に栄光をお返ししなくてはなりません。

この地上において、上に立つべき人は存在しません。
神以外にそのような存在はないのです。

では、私達はどのような関係であるべきなのでしょうか。



2.互いに足を洗い合うべき。

イエス様は、御自身が模範として、足を洗われ、仕えられましたが、互いにそのことをするように言われました。

「互いに」です。

ある人は洗われる人、ある人は洗う人、ではないのです。
互いに洗い合うべきだとおっしゃったのです。

牧師も副牧師も伝道師も宣教師も教師も役員も長老もリーダーも信者もそれは、そういう役割であったり、呼び名であるだけで、神の前には互いに仕えあう、愛し合う、存在なのです。
聖なる方は、唯一神様だけです。
人はどんな人も罪人です。一人として例外はありません。
ですから、その中では互いは、神の前に同じ存在なのです。

私達はどうでしょう。
互いに足を洗い合う、仕えあい、愛し合う教会になりたいですね。


結)イエス様が教会を建て上げられる。
そうです。イエス様が建て上げられるのです。
牧師が建てるのではありません。
イエス様が教会を建て上げる時に、牧師をそこに据え、あるいは教師を据え、あるいは執り成し人を据え、あるいは励ます人を据え、と、御霊が自由に賜物を与えて、そこに建てていかれます。
そのようにして、イエス様は教会を建て上げていかれるのです。
そこでは、唯一、神様が礼拝され、その神がまた私達の足を洗い、癒し、励まし、建て上げて下さる。
そして、教会では、互いに足を洗いあい、仕えあい、愛し合い、互いに建て上げられていくのです。これが健全な教会なのではないでしょうか。
私たちの教会は、イエス様御自身に建て上げていただき、互いに愛し合い建て上げられていきたいですね。
祈りましょう。