07.7.1「神様からの救い」
エペソ2:1-10
:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
序)すべての人は罪人であり、例外はない。:1-3
今は、救われているあなたであっても、赦された罪人であり、以前は罪過と罪との中に死んでいたものであった。だから、まだ救われていない人、罪の赦しを経験していない人、今もまた罪過と罪の中に死んでいるような人も自分と同じであることを忘れてはいけません。
すべての人は罪人であり、救いはすべての人に必要であって、例外はないのです。
私達は、イエス様が救って下さる、恵みによって救われるといいます。
1.私達が救われる理由とは。。。
①神が愛して下さっているから。:4
神様が私たちを救われるのは、まず神が私たちを愛して下さっているからです。
1ヨハネ 4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
まず神が私たちを愛して下さったのです。
その愛は大きなものでした。
ヨハネ15:12-17
:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
イエス様は私たちを友と呼び、わたしたちの為に命を捨てて下さった。
これ以上の愛はないと言われました。
その最大の愛で、私たちを愛して下さっているのです。
それで私たちをすくって下さるのです。
私たちが救われるのは、神が私たちを最高の愛で愛して下さっているからです。
②世にこの恵み(救い)を明らかに示すため。:7
世において、この豊かな神の恵みすなわち救いをキリストにおいて私たちに与えられる愛によって明らかに示すために私たちは救われるのです。
つまり、人々にこの素晴らしい恵み・救いを示すためには、それをあらわす人が必要です。
救われた人がいなければ、この救いはあらわされません。
イエス様は、弟子達を愛され、救われました。
また、多くの人々を愛し、救われました。
その救われた人々がこの大きな恵みを世に示し、伝え、広げていきました。
だから、今日もその恵みはあらわされ、伝えられて、私たちも知るに至ったのです。
私たちが救われるのは、この恵み救いを世に示す為です。
2.救われた私たちが忘れてはならないこと。。。
さて、私たちは救われて何年も経ったりすると、つい忘れてしまったり、勘違いしてしまっている場合があります。
最初にも話しましたが、私たちは救われていて、クリスチャンじゃない人は救われていないから罪人?いいえ、私達も罪人です。同じです。
救われた(あるいは赦された)罪人か救われていない罪人かの違いです。
では、救われた私たちが忘れてはならないことを二つ見ましょう。
①神からの賜物であること。:8-9
:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは救われた罪人ですが、この救いは神からの恵みであり、賜物です。
何かしたからでしょうか?
たくさん人を教会に連れてきたから?No!
たくさんの献金をしたから?No!
たくさんの奉仕をしたから?No!
礼拝に休まず出席しているから?No!
たくさん祈っているから?No!
聖書をたくさん読んでいるから?No!
祈祷会に出席しているから?No!
これらは、大切なことではあるかもしれません。
しかし、救われるために必要はことではないのです。
この救いは神様からのものです。自分自身から出たことではないのです。
また、行いによるのでもないのです。誰も誇ることのない為です。
決してこれを忘れてはなりません。
救いは神から一方的に与えられた恵みであり、神からの賜物である・・・と。
②良い行いに歩むこと。:10
:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
私たちは救われたら、それで終わりなのか?
いいえ、そうではありません。地上での人生は続くのです。
私たちは神によって創られた傑作、作品です。よい行いをする為に造られたのです。
よい行いとは何でしょう。
ヨハネ15:12-17を見ると、
互いに愛し合うことが書いてあります。
また、最も大切な戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛することです。
もし、そのように愛しているのなら、神様の思いを受け止め、人々を愛し、この素晴らしい恵みである救いを人々にあらわし、伝えることも自然とできるでしょう。
勿論、他にも多くのよい行いがあります。
そして、その良い行いは、神様があらかじめ備えて下さっているのです。
神様に絶えず目をむけて、神と人を愛し、互いに愛し合う人生を歩むなら、わたしたちは神様が備えられたよい行いをしていることでしょう。
結)
ここでもう一度ポイントを見てみましょう。
1-①と2-①がセットに、2-①と2-②がセットになっています。
神が私たちを愛して下さっているから、神様からの賜物として救いが与えられる。
世にこの恵み(救い)を示す為に、私たちがよい行いをするように神様が備えて下さる。
神の恵み、救いをいつも心に留めて、神様が備えられたよい行いに歩む人生を歩みたいですね。
祈りましょう。
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