2007/07/15

07.7.15「信仰によって」

ヘブル11:1-12
:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

序)信仰によって・・・
ヘブルの11章は「信仰とは・・」で始まり、「信仰によって・・」という言葉でたくさんの信仰者について書かれています。
私たちは、「信仰」という言葉をよく使いますし、よく聞いてきました。
今さらかもしれませんが、今日は私が最近教えられたと感じている「信仰」について分かち合いたいあと思います。

1.信仰とは・・
「信仰」というのは、
1節に
新改訳「望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるもの」
口語訳「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」
とあります。
このまま受け取ればいいですし、それぞれが主に教えられていかれたら、素晴らしいと思います。
ここからは私の解釈であり、私が教えられていると感じている内容になります。

私は先週、携帯を機種変更しました。
キャンペーンの案内が来ていて、いろいろと考えた上で、「この機種に変えたいなぁ」と思うようになってきました。
HPで、その機種の性能や特徴、どういったことができるのか、また、どんな機能があって、どんな大きさなのか、操作性はどうなのか、、、等、調べました。
ネットの口コミでの評判も読みました。
そして、いつしか、自分が使ったときのことを想像して、シュミレーションしていました。
「こんな場面で、これならこうやって使えるなぁ」
「仕事で、こういう使い方ができるかも知れないなぁ」等など。。。
そして実際に機種変更したときに、自分の場合、どの程度の費用が必要なのか、どういった契約が必要なのか、、といったことを知りたいと思い、ショップへ出向きました。
すると、思ったよりも費用がかかることがわかりました。
一旦帰って考えることにしました。ショップ店員がしつこく勧めたり引き止めたりしなかったのは好印象でしたが。。
そして、考えた結果、機種変更することにし、ショップに向かいました。
そして、現在この機種を持っているのです。
実は、ショップへ一度行って、帰ってきた時点で、ほとんど変更する気持ちになっていました。それでも一度冷静に考えてから決めようと思い、そのようにしたのです。
キャンペーンハガキが届く前は全くそんなことは考えていませんでした。
ところがその機種に変更したいと思うようになってからは、自分の中ではその機種を使っているイメージが出来上がっていたのです。
そして、今それが現実をなっているのです。

ここにも「信仰」を理解する上でのヒントがあると思うのです。

私たちが望んでいる事がらを保障(確信)し、目に見えないもの(まだ見ていない事実)を確信させる(確認する)のです。

まだ手に入れてない機種を自分の中で手に入れたイメージを持って、それを持ち続けていったときに、手に入れる行動をしていくことになったのです。
もし、この機種はいらない、と思っていたなら、いろいろ調べたりしたとしても、手に入れなかったでしょう。

ダイエットを開始して今日で三ヶ月になりました。
何キロとかの数字は、予想できませんでしたが、痩せた自分をイメージして今日まできました。
結果、3ヶ月で6キロ減という目標を突破して、3ヶ月で9キロ減でした。
4ヶ月前には想像できなかったのです。
3ヶ月前に、「3ヵ月後、自分は痩せていて、こうなっている・・・」というイメージを持ち続けてダイエットに取り組んだとき、そのダイエット方法が何であれ、それはもう3ヶ月前に成功していたのです。
これだけ聞くと何か自己啓発セミナーみたいですが(笑)、
信仰とはそれと共通するものがあるのではないでしょうか。

今のあなたは、何ヶ月か、何年か前のあなたが作ったのです。
誰のせいでもありません。
それは同時に、何ヶ月か先のあなたは、今のあなたが作るということでもあるのです。

三ヶ月前に私が、三ヵ月後は痩せていて、その体を維持する為にどのような生活を送っているかをイメージし、三ヶ月前から三ヵ月後の痩せた自分と同じ生活をしてきたときに、三ヵ月後に痩せた自分を現実のものとしたように、
今のあなたが、何ヶ月か後の自分をイメージし、それが実現したあなたがそのときにしていることを今はじめるのです。

「信仰によって・・」と先人たちがいろんなことを実現し、信仰のゆえに称賛されたのは、まだ見ていない事実を確認していたからなのです。

ノアは、まだ見ていない洪水を見て、箱舟を造りました。
アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しを受けた時、それに従い、行く先を知らないで出て行ったのです。

昨年、E宅で子供クリスマス会をしました。
これも、E夫妻が自宅で子供の友達を呼んでクリスマス会をやったら、いい証の時、伝道の時となるんじゃないか・・という思いが、実現していったのです。
まさに、「信仰によって・・」です。
そして、そこに、神様はたくさんの子供たちを送ってくださいました。


ここで、注意すべきことがありますね。


2.望んでいる事がら

それは、「望んでいる事がら」です。

自己啓発や自己実現といったセミナーは、「なりたい自分」になるためのものです。
それは、神様が喜ばれるような自分かどうかは関係ありません。
しかし、私たちは神様に喜ばれるものになりたいと願うものです。
ですから、どんなことを望むのかということは、重要なポイントです。

携帯の機種変更や、ダイエット程度なら、さほど問題ありませんが、
銀行強盗とか、悪徳な商売をして金儲けしようとか、振り込め詐欺で金を巻き上げようとか、
その内容が罪であるなら、もってのほかですし、
あるいは、内容次第では、悪魔が介入してくるかもしれません。

ピリピ 2:13
口語訳>あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
新改訳>神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

とあります。
私たちは、神様からの願いを、志を、私たちの「望む事がら」とできるなら、それは神様が実現へと導いてくださるのです。
別にあなたがダイエットしたいと思うなら、それは構わないでしょう。
機種変更したいと思うなら、それもOKでしょう。

私がダイエットしたいと思ったのは、いくつか理由があります。
太ってしまって、はけなくなったズボンやスーツをもう一度はきたい。
プールや海へ行ったときのぽっこりお腹を何とかした。
体が重く、ポジティブになれないことから解放されたい。
ついつい食べ過ぎて、お腹がもたれたりしないようにしたい。。。

でも、もし、スリムな体になって、かっこよくなって、この夏、海に言ってナンパしたい、なんて思ってたら、悪魔が助けてくれたかも知れません(笑)
ぼくをそのような罪へと陥れる為に。。。


このような自己啓発的な内容は、いろんな商売等でも語られます。
不労所得で優雅な生活、豪華な家に住み、高い車に乗り、旅行三昧で、おいしいものを食べて、、、そんな生活をするために、あなたはそのことをイメージして、自分がお金持ちになったイメージを持って、努力するのです。もうあなたは成功したも同然です、、、と。
その時、お金儲け主義に走り、お金を神様としていくときに、そこに悪魔が介入してくるのです。
悪徳な商売とは、別にマルチだとか、そういったものだけとは限りません。
肉屋だって、悪徳な商売することもできます。
弁護士だって、悪徳な商売は可能です。
公務員だって、警察だって、検察だって、裁判官だって、総理大臣だって、大統領だって、です。
どんな商売だって、悪徳になりうるのです。
それは、「望んでいる事がら」次第だともいえるのです。

少し脱線しましたが、
私たちが神様から願いを起こさせていただく為にも、神様に心を向け、神様に祈り、交わり、神様を礼拝するのです。
そのときに、神が私たちにその願いを起こさせてくださるでしょう。
その時、私たちは、その願いが実現可能かどうかをみるのではなく、信仰によって受け止めるのです。
そして、まだ見ていないこの「望んでいる事がら」を確信し、確認していくのです。
その時、神様が実現させてくださるのです。

神様が起こしてくださる「望んでいる事がら」であるなら、それは最高です。


結)信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。

そして、信仰がなくては、神に喜ばれることはできないのです。

新改訳>:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
口語訳>:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださることとを
必ず信じるはずだからです。

私たちは神様に近づく者であるなら、そうありたいなら、
神がおられる事を信じるはずです。
神を求めるものに報いてくださると信じるはずです。

家族が救われることが望んでいる事がらでしょうか。
家族が救われて神を礼拝していることをイメージしましょう。信じましょう。神がそうしてくださるからです。

信仰によって、神に喜ばれるものになりたいですね。