07.10.7「言葉は生きている」
黙示録2:12-17
:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
黙示録 1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
序)ペルガモにある教会へ
今日は、7つの教会へあてたもののうちの3つめを見てみましょう。
ここでも、神様は理解と賞賛をしたのち、非難すべきことを伝え、祝福について語り締めくくるというような配慮をしつつ、鋭く指摘されています。
黙示録は、預言書ですから、その解釈も必要だと思いますが、今日は解釈するというのではなく、ここから今の私たちが教えられたり、戒められたり、励まされたりして、イエス様からの糧とさせていただきたいと思います。
1.神は知ってくださっている。
ここでも、神様は私たちのことをちゃんと知ってくださっていることがわかります。
あなたの住んでいる所に、サタンの王座があるというのです。
私たちの住んでいるところには、実はサタンの王座があるということなのかもしれません。
・・・
でもそのことよりも、その中であっても、主の名を堅く保ち、主の忠実な証人アンテパスが殺されたときでも、イエス様への信仰を捨てなかったことを知っていてくださっていることがはっきりと書かれています。
私たちの住んでいる日本では、現在、信仰に対する迫害はないかもしれません。
そういうこともあり、あまりピンと来ないかもしれませんが、これは相当素晴らしいことです。
本当に理解者は、イエス様だけなのです。
そのお方が「非難すべきことがある」といわれていることがあるのです。
2.教えに気をつける。
ここでは、バラムの教えを奉じている。とか、ニコライ派の教えを奉じている。とか出てきます。
この教えがどのようなものなのかを今日解説する時間もありませんし、できませんが、
ここで何を主が私たちにメッセージしておられるのかを見てみましょう。
12節と16節に「両刃の剣」「剣」という言葉が出てきます。
これは、神の言葉を意味していると思われます。
黙示録1:16には、
「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」とありますし、16節では、「口の剣」とあります。
つまり、バラムの教えを奉じていたり、ニコライ派の教えを奉じているなら、主は御言葉の剣によって戦うといわれているのです。
これは、私たちがいろんな教えを聞くときにも気をつけなければならないということも示されているのではないでしょうか。
どんな人の教えや言葉も神の言葉によって吟味されなければなりません。
そうでないと、神の言葉から出ている言葉だと思っていても、それは実はそうではないかもしれないからです。
個人的には、今の時代は本当に気をつけなければならないと思います。
なぜなら、聖書以外の信仰書や解説書があまりにも多いからです。
信仰の迫害のある国や地方では、こっそりと聖書を読むしかありません。本屋にいっても聖書はありません。勿論、キリスト教書店などはありません。
だから、純粋に聖書だけを、混じりけのない神の言葉だけを読んでその信仰が強くされていくのです。
聖書しかない状態では、信仰が強くならないのでしょうか。信仰を助けるのが目的であるなら、聖書だけを読んでいるだけでは、それができないのでしょうか。
私は決してそんなことはないと思います。
聖書を読むときに、神様は働かれます。真理の御霊によって解き明かしてくださるのです。
そこには、サタンの入る余地はありません。
ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
神の言葉は生きているのです。聖なる言葉として・・・。
また、サタンからの言葉であっても、忌むべき言葉として生きているのです。
だから、気をつけなければならないのです。
ここでいうバラムの教えやニコライ派の教えは、神の前に忌み嫌われるものでした。
そんな教えが教会内で奉じられるということが起こり得るのでしょうか。
いや、起こっていたのです。そして、これは今の時代にも起こる可能性を示唆しているのかもしれません。
実際どうであろうとも、私たちは神の言葉を純粋に慕い、神の言葉によって生かされ、神の言葉によって教えられていくものとなりいたいですね。
結)勝利を得る者となるために。
:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。
これは、解釈は難しいですが、少なくとも、勝利を得る者には大いなる祝福が用意されていることは理解できます。
そのために私たちは何をすべきでしょうか。
最高の理解者、唯一の理解者である神様の言葉だけを真の教えとして、御言葉にたつものであるべきですね。
殺されるかもしれない。理不尽なことに出会うかもしれない。それでも、神の言葉にだけ立って、その信仰を堅く保ち続けるものとなりたいと願います。
そして、そういう人に主はそうすることができるだけの愛を聖霊によって注いでくださるのです。
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