07.9.9「忠実であれ」
黙示録 2:8-11
:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
序)スミルナの教会へ
今日は、スミルナの教会について書かれてある箇所から共に教えられ、神様と出会っていきたいと思います。
先週、7つの教会のうち、エペソの教会について書かれてある箇所から、
神様が私たちを理解してくださっており、わかってくださっていること。
そして、初めの愛から離れてしまっているなら、立ち返るように言われており、そこに恵みと祝福があることを見ました。
初めの愛から離れたという表現がある以上、私たちの愛や行いは、最初と今では変わりやすいものであることも指摘されているのでしょう。
私たちの人生の最初から、死に至るまでには、その人は変わっていくというのは、自分も含めて多くの人がそれを経験します。
私たちは不変ではないから仕方のないことなのかもしれません。
しかし、神は不変です。
:8・・初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
初めから終わりまでを支配されている方、死も生も越えて存在される方なのです。
その愛は昨日も今日もとこしえに変わらないお方なのです。
ヘブル 13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
イエスキリストは不変なのです。
スミルナの教会についてのこの箇所からもこのようなことを知ることができます。
さて、このお方が言われていることを見ていきましょう。
1.神は知ってくださっている。
:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
苦しみと貧しさとを知っている。と言われています。でも実際は富んでいるとも言われています。
これは、どういうことでしょうか。
年収が少なくて、貧しく苦しい生活であるように見えるているけれども、実際は隠してある財産があって、富んでいることを知ってるよ。とその秘密をしっているということなんでしょうか。
勿論そんなことを言っているのではありません。
では、収入が少なく、貧しくて苦しい生活をしているけれども、そのことを知っているよ。でも、あなたには、誰も奪うことができない信仰を持っているでしょう。そして天に宝を蓄えているでしょう。これこそ永遠の富であるんです。だから、実際はあなたは富んでいるんですよ。
ということでしょうか。
そうかもしれません。
でも、私はここで、また別のことを教えられたように思います。
それは、9節全体を読むときにわかります。
この貧しさや富というのは、霊的なものであると思います。
あなたの教会は霊的な恵みに貧しく苦しい信仰生活であると見えていることを知っています。でも実際は、霊的に恵まれているのです。ということなのではないかということです。
9節後半に「・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」とあります。
ユダヤ人とはどのような人でしょうか。
神の選びの民。神に祝福された人々。アブラハムの子孫であり、神の祝福を受ける為にはユダヤ人を祝福しなければならない存在。
とにかく、神様の霊的な祝福を受けた恵まれ、富んでいるという人々であると思われます。
本当のユダヤ人であるなら、そうかもしれません。
しかし、ここでは、「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく・・」とあります。
ユダヤ人だと自称している人々であり、ユダヤ人ではない人々なのです。そのような人が存在しているということです。
その人々は、かえってサタンの会衆である人たちであることが書かれています。サタン礼拝をしている人々であるということです。
スミルナの教会は、その「ユダヤ人とだ自称しているが実はそうでない人で、サタンを礼拝している会衆から、ののしられていた。」のです。
ユダヤ人と自称している人をみて、それが自称ではなく、本当にユダヤ人だと周りの人が信じていたらどうでしょう。
「この人たちは、ユダヤ人だから、神様からの特別な祝福があり、恵みがある。素晴らしい霊的な祝福に満ちた教会で、神の選びの民の会衆だ・・」と思われることでしょう。
そして、そこにある霊的なことは、全て神の業だと信じてしまうということがあるのではないでしょうか。
逆に、この会衆の人々からののしられるようなスミルナの教会は、恵みに乏しく、苦しい信仰生活を送っているかわいそうな教会と見られていたり、
あるいは、この会衆の人々からののしられるようなスミルナの教会は、実は神の恵みがある教会ではなく、サタンが働いているんじゃないかと思われていて、周りからそのように見られていて、苦しく貧しいと思ってしまうような状態に見えているかも知れないということなのだと思うのです。
でも、神様は言われます。
「しかし、あなたは実際は富んでいる。」
ユダヤ人と自称しているが実はそうでなく、サタンの会衆からののしられるということは、どういうことでしょう。
サタンの敵は、真の神様です。
つまり、スミルナの教会には真の神様の臨在があったのだと思うのです。だから、サタンの会衆からはののしられたのだし、神様は「実際は富んでいる」とおっしゃったのだと思うのです。
ここで、注意してほしいのは、これは神が解き明かされているので、偽物と本物がわかりますが、私たちの目には、逆に見えるかもしれないということです。
「ユダヤ人と自称しているが実はそうでなく、サタンの会衆」とは、周りから見ると
「神に祝福されたユダヤ人で、神様から選ばれたすばらしい恵みに満ちた教会の会衆」と見えている可能性が高いのです。
そして、その会衆からののしられるスミルナの教会は、
「神が敵対するサタンに属した会衆」と見られているかもしれないということです。
では、実際に神の臨在があり、神の恵みと祝福があるのは、どちらなのでしょう。
言うまでもなく、スミルナの教会です。
だから、神様はスミルナの教会に対して、
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」と今の状況と霊的な恵みとその中での苦しみも全てを理解していることを語られたのだと思うのです。
私たちがどのような状態であっても、ただ唯一の神であるイエスキリストを信じ、礼拝し、従っているなら、神はその中でどんなに苦しく貧しいと思われる状況であっても、そこの臨在し、私たちを理解していて下さるのです。
恐れることなく、ただイエスキリストだけを見あげて進んでいくなら幸いです。
2.忠実であれ。
:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
そのお方がスミルナの教会に言われていることがあります。
「忠実であること」です。
そして、このことは中途半端な気持ちではいけないことがわかります。
苦しみを知っているといわれていますが、その苦しみを取り除こうとか、和らげようとは言われていません。そうではなく、さらにあなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない、といわれています。
悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。
死に至るまで忠実でありなさい。
と。。。
牢に投げ入れられるのです。これは、ユダヤ人だと自称しているが実はそうでなく、サタンの会衆から、敵視されることで、逆にサタンの会衆呼ばわりされ、牢に投げ入れられることを預言しているのかもしれません。十日というのは、実際の十日なのかどうか私はわかりませんが、少なくとも苦しみを受けることが預言されています。そして、死に至るかも知れないのです。それでも、死に至るまで忠実でありなさい、と神様は言われています。
心ではイエス様を信じているけど、周りの人の手前、表向きはイエス様を否定するでしょうか。
日本では昔、踏み絵というものがありました。
あなたはもし今、日本がそのような状態になったとしたら、どうされますか?
踏み絵は所詮「絵」だから、神様ではないから踏もう、そして、「私はイエスキリストを信じていません」と言おう。でも、心の中ではイエス様を信じているし、死んでしまえば伝道もできないから、それでいいじゃないか。。。と自分の命を長らえるために主を否定する行為と告白をするでしょうか。
それとも、仮に踏み絵は絵(偶像)だから踏むことはできても、「私はイエスキリストを唯一の神、救い主であると信じています。これを否定することは命を奪われたとしてもしません」と告白し、それで牢に入れられ、苦しめられ、殺されても、イエス様を主と告白し続けるでしょうか。
イエス様は、後者であれ・・
「死に至るまで忠実であれ」と言われています。
そして、同時に、
「そうすれば、命の冠を与えよう。」といわれているのです。
大げさに聞こえるかもしれませんが、皆さんはイエス様に対して、死に至るまで忠実である信仰を、覚悟を、持っていますか。
主はこれを求められていることを今日、知りましょう。
結)永遠の勝利と命が用意されている。
:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。
そして、死に至るまで忠実であった人々は、勝利を得る者と表現されており、その人々は、決して第二の死によってそこなわれることはない。と預言されています。
第二の死とは、
黙示録 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
とあります。これは永遠の死を意味するのでしょうか。
それによってそこなわれることがないという表現されているのは、意味深いものを感じます。
地上では死に至るまで忠実であり、実際に肉体はそこなわれてしまうかも知れないけれども、それによって守った信仰を持った勝利者は、永遠の死というものによってもそこなわれない永遠の命が与えられるのだということではないでしょうか。
終わりの時に確実に近づいているということは、大変、困難な苦しく貧しい時代に近づいている、あるいは入ってくるということでもあります。
しかし、私たちは、イエス様に対して死に至るまで忠実な者として信仰生活を歩み、永遠の命を得る者となりたいですね。
いや、イエス様はそうしてくださることのできるおかたです。
十字架で私たちのために命を捨ててくださった、最高の愛で愛してくださり、今もその愛を注いでくださるお方が私たちの真の理解者であり、味方なのですから。。
祈りましょう。
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