2007/11/26

07.11.25-私達がなすべきこと-「実を結ぶために」

マタイ 13:24-30
:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
:26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

マタイ13:37-43
:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
:43 そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。



序)もっとも大切な私たちのなすべきこと

私達が成すべき事は、「神を愛し、自分を愛するように人を愛する」ことです。
神様は御言葉を私達に与え、その基準を示し、実を結ぶように備えて下さっています。

今日は、私達が成すべき事をする時に注意すべきことについてみていきたいと思います。


1.毒麦がまかれている。そして終りの時までそのままである。

私達が今存在している時代は、確実に終わりに近づいていますが、毒麦がまかれている時代であります。

私達の周りには、こんなのがいつまでも存在していていいのか?と思えるような人たちも存在できる時代なのです。

そのように目に見えて怪しいおかしい状態なら、わかりやすいかもしれません。
しかし、中には、同じように実を結んでいるようにも見えるかもしれませんが、毒麦であるかもしれないという時代でもあるのです。。
そのようなものが存在するということを覚えておく必要がある時代でもあります。


2.よい麦と毒麦との見極めは難しい。

毒麦を集めようとして麦も一緒に抜くかも知れない。と主人がいうほど、その見極めは難しい。
「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて」ともあるように、
これは、同じキリスト教だと思っている中にも、毒麦があるかも知れないということも想定する必要があるように感じます。

いろんな先生のメッセージを聞くこともいいでしょう。有名な先生の話しもいいかも知れません。
でも、注意することもあるのです。

御言葉とは、材料そのものだと思っていいでしょう。
御言葉そのものは、材料。玉子、キャベツ、にんじん、大根・・・
そのままでは、赤ちゃんは食べられないですから、調理し、細かくし、柔らかくして食べます。
御言葉もそのようなもの。
今日、私が話したのも、御言葉を料理して皆さんに提供したようなものです。
最初にお読みした聖書が材料です。
玉子ひとつとっても、卵焼き、目玉焼き、だしまき・・・

ホントの素材の味は、そのまま食べることで一番わかります。
でも、おいしく食べたいから、調理します。
でもそのなかには、余分なものも入っているかも知れません。

メッセージを聞いて「素晴らしい、おいしかった。」という時は、気をつける時かも知れません。
なぜなら、余分なものが入っているからかもしれないからです。

そういう時は、帰ってから、落ち着いてもう一度、メッセージで語られた聖書の箇所をもう一度読んでみるといいでしょう。
素材そのものがわかるからです。
そして、神自らが貴方のために調理方法を教えて下さいます。
うす味が好きな人もいれば、濃い味好みの人もいるでしょう。
煮物が好きな人もいれば、焼き物好みの人もいるでしょう。
その時々で、食べたいものも違うでしょう。
でも神は全てご存知な方ですから、あなたにぴったりの料理法を教えて下さいます。
あるいは、真理の御霊が自ら料理人となって、料理して提供してくださるでしょう。

ですから、オ○ムや幸○の科学がだめだとかは私達はわかりやすいかもしれません。
また、エ○バの証人、モル○ン、○一協会はわかっても、同じプロテスタントの中で、これで本当に正しいのか?
と思える教会もあるかも知れません。でも、それを見極めるのは難しいのです。

だからと言って、わたしたちはそれを見極めるために、聖書に精通し、見極めるようにならなければならないのでしょうか?
その答えは、「No!」です。


3.毒麦を集めて焼かれるのは、終りの時に神様が御使いを通してすること。

それらを見極め、裁きをされるのは、神様と御使い達です。
それは終りの時になされることです。
ですから、わたしたちはそのことを裁かないようにしましょう。いや、裁けないと言った方がいいかも知れませんね。

こんなおかしなことをしてる教会なのに、神様は裁かずになぜ、存続させられるのか?
裁かれないということは、間違ってるわけではないということなのか?
そう思うかも知れませんが、それはわかりません。
終りの時に、全ては明らかになるでしょう。

毒麦も実を結びます。その実は、ちょっと見ただけでは良い麦の実と見分けがつきにくいかも知れません。
でも、見分けをつけるためには、わたしたちは聖書という基準を正しく深く理解する必要があります。
だからと言って、クリスチャンはみんな聖書学者みたいな人になれるかというと無理です。

じゃあ、わたしたちはどうすればいいのか。。。


決)私達は自分達が神様の前に良い実を結ぶことだけに集中すればいい。
他の人達がどうしているか、それを基準にしたり、成長している教会をモデルにするのは、人を基準にしていることです。
私達は、聖書を読み、神様が私達に示しておられる道を聞いて、これに歩み、神様の前に実を結ぶことだけに心を注いで生活すればいいのではないでしょうか。
私たちの生きているこの時代は注意も必要である時代であると認識しつつ、神様の前に歩んで生きたいですね。

・毒麦らしきものを周りに見ることもあるでしょう。>実際に存在している時代なのですから。
・毒麦かも知れないと思うけど、判断できないでしょう。>御使いでさえ見極めが難しいのですから。
・毒麦かも知れないものが裁かれないのが不思議に思えるでしょう。>裁きは終りの時に、神様が御使いを用いてされるのですから。

私達は、これらのことに注意しつつも、
自分が神様の前に喜ばれる実を結ぶことだけに集中したいものです。

聞く耳のある者として、神様の前に歩む人は幸いです。