08.3.16「復活の前に、葬り」
マルコ15:33-47
:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。
:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
:40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。
:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。
:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。
1コリント15:3-5
:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
序)「死」と「葬り」と「復活」この記事は、4福音書の全てに出てきます。
いかに大切なことであるかが伺えます。
この箇所は、イエス様が十字架に架かられ、そして死なれた直後の出来事が書かれてあります。
私達は、イエス様の十字架の死、そして復活についてはよく聞きますし、大切であることも聞いています。
しかし、1コリント13:3-5を読むと、「葬り」が「死」「復活」と同じように大切なことであることがわかります。
4つの福音書全てに出てくるということで、その重要性もわかります。
来週は復活祭礼拝、復活を記念しての礼拝ですが、その前に今日、葬りについて共に聖書からメッセージを受け取っていきましょう。
1.葬りとは・・・完全に委ねること
4福音書全てに、アリマタヤのヨセフの名前が載っています。
ヨセフは十字架で死なれたイエス様を下げ渡して、葬った人です。
イエス様は十字架の死に自ら向かっていかれました。自ら死なれたのです。
また、誰かに起こしてもらって復活されたわけではありませんよね。
しかし、葬りについては、アリマタヤのヨセフに葬ってもらったのです。
イエス様は運ばれる時に「ちょっと歩こうか?」とか自分で少し動かれたわけではないですよね。
イエス様でさえ、完全に委ねられたのが、葬りです。
イエス様の十字架の死を私達の身代わりの死として受け入れ、わたしたちもその死にあずかることによって罪から救われます。
そして、わたしたちも葬られる必要があるのですが、それは完全に委ねることを意味するのです。
私達は誰に完全に委ねるのでしょうか。
それは、イエス様です。
イエス様がこのとき、アリマタヤのヨセフに完全に委ねられたように、私達はイエス様に完全に委ねるのです。
そうすることによって、イエス様の葬りにもあずかることとなるのです。
完全に委ねることは難しく感じる時や難しく感じることもあるでしょう。
しかし、死んだ人が葬式でジタバタしないように、わたしたちも葬ってくれる方に対して、全く委ねるものになりたいです。
葬りとは、完全にイエス様に委ねることです。
2.葬りとは・・・完全に死を認めること
先ほどの釣り上げたヘラブナは、死んでいたわけではなかったのですが、死んだふりのようにも見えました。
葬られた人は、死んだふりをしているわけではありません。
葬りとは、死んだことを公表することでもあります。
葬式をすることによって、この人は死んだのです、と公表しますよね。
墓に葬ることによって、この人は何年何月何日に死にました、と公表するのです。
もし、その人が本当に死んだのではなく、死んだふりをしているだけだったら、
墓に葬ろうとしたら、拒否するでしょう。
「実はまだ死んでないんだ」と言うでしょう。
私達はイエス様が十字架で死なれた死がわたしの罪の身代わりとしての死であることを受け入れて、その死にあずかります。
そして葬られるのです。
もし、死んだふりをしているだけなら、葬られることを拒むでしょう。
私達はイエス様の死にあずかり、葬りにもあずかり、そして復活にもあずかるためには、
完全に死を認め、葬られなければならない。
イエス様の葬りにもあずかるために。。。
私達の内にある罪が死んで、葬られるためには、完全に死を認めることです。
結)死んで葬られることは一度でいいのか。
イエス様の死を自らの罪の身代わりとして受け入れ、その死にあずかり、その葬りにあずかって、バプテスマを受けた人もいるでしょう。
その人は、もうそれでいいのでしょうか。
勿論、そうですね。罪からの救いという点では、それでいいのです。
しかし、わたしたちはその後の人生の歩みの中で、死んだはずの過去の自分、罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
そうです。
イエス様は完全な方ですから、一度死んで葬られたら完成でしょう。
しかし、わたしたちは不完全な者です。ですから、一度死んで葬られたからといって、完成するとは限りません。
この地上での肉体を持っている以上、完成はしないのです。肉体が死に、天に帰る時に、完成するのです。
それまで、地上ではこの肉体に魂を宿していただいて、罪赦された罪人として歩んで行くのです。
ですから、何度でもイエス様の十字架の死にあずかり、葬りにあずかるのです。
その時に、復活にもあずかることができるのです。
イエス様の死と葬りと復活にあずかるものになりたいですね。
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