08.2.24「神につく人」
1コリント 3:1-9
:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
:4 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
:5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
:8 植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
序)誰かにつく?
プロ野球ではドラフト会議というものがあります。
それぞれの選手は希望していた球団から指名されたり、そうでなかったり、といろいろあるようです。
高校生ルーキーのN選手は、どこでも行くと言っていたのが記憶に残っています。
結局、Nハムになりました。
皆さんはどこかのファンですか?
私は○○を応援している。誰のファンだ。
といろいろとひいきにしているところもあるかもしれません。
中には、アンチ○○という人もいたりします。
別にそれらは、あなたの人生を変えるわけではありませんから、何ら問題ないです。
勿論、人生をその応援にかけて、財産を全て投げ打って、それらに投じるなら、問題かもしれませんが・・。
でも、私たちはどこかをひいきにしたり、何かに望みを置いたり、だれかについていきたいと思うこともあるでしょう。
しかし、それらが人生に関わることであるなら、とても注意が必要です。
今日は、お読みいただいたところから、
私たちが「人に」つくのか、「神に」つくのか、
その違いをみて、主から個人的に教えていただきたいと思います。
1.人につく・・・肉に属する人
私はパウロに、私はアポロに・・・といっている人々がいたようです。
これらの人は肉に属している人でした。
私は○○先生に、私は○○派に、私は○○教団に、私は○○さんに・・・。
それらは、肉に属する人が取る行動ですし、発言することのようですね。
人間的なレベルでの話しです。
先程のプロ野球だとか、Jリーグだったり、では、人間的なレベルで当たり前です。
カリスマ的な存在だとファンもつくでしょう。
それらは別に構わないのですが、
こと、信仰に関しては、人生そのもの、いや永遠にまで関わってくることなのですから、そうはいきません。
人気のある先生や教会、そういうことも実際はあります。
でも、それが最初の入口にはなっても、本来の信仰がそのままであってはいけないのです。
:5に、
アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
とあります。
人が信仰に入るために用いられたり、その信仰の成長の為に用いられたりすることはあるようですね。
でも、その「人」につくことは聖書は警告しているのです。
ここのみなさんは、別に私のファンじゃないでしょうから、安心してますが(笑)
でも、気をつけないといけないのは、
私は、「○○先生ではなく、△△先生につく」という信仰があるなら、それは間違いです。
それは人間的なレベルであり、肉に属する考え方です。
また、肉に属するとき、ねたみや争いがある:3とあります。
まさにそれは、サタンからきていることだと言えますよね。
肉に属する時、そこからサタンが入り込んでくる危険が非常に大きいといえます。
人につく、肉に属することのないように気をつけて目を覚ましているものになりたいですね。
では、私たちは何につけばいいのでしょう。
2.神につく・・・御霊に属する人
:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
神につく人は、神様が自分を成長させて下さることを知るのです。
ある人に植えてもらうかも知れません。
ある人を通して、水を注いでもらうかも知れません。
でも、成長させて下さるのは神なのです。
子供達が毎年、夏休みにいろんなものを持って帰ってきます。
それは、1学期に種を植えたり、水を注いだりして、持って帰ってくるのです。
朝顔だったり、ミニトマトだったり、、、
その種を植えたのは、人でしょう。
そこに水を注いだのも、人でしょう。
でも、成長させるのは、人ではないですよね。
神を信じない人は、それを「自然の力」だと言うかも知れません。
その自然の力はどこから来ているのか、
それはまさに神様からきているのです。
成長させて下さるのは神なのです。
私たちは、誰かを通して植えられたかも知れない、だれかを通して水を注がれたかもしれない、
でも、成長させて下さっているのは神なのです。
植えた人や注いでくれた人に感謝はしても、拝んではいけないように、
人につくのではなく、「神」につくことを聖書は語っています。
どんなに立派な人であっても、
どんなにカリスマ的な人であっても、
どんなに大きな教会を開拓した牧師であっても、
どんなにすごい奇跡をする伝道者であっても、
その人々は、所詮「人」なのです。
その人についていったからといって、救われる保証もなく、正しいとは限りません。
それは所詮、肉に属することだからです。
余談かも知れませんが・・・・・
これからの時代、確実に終わりの時代へと近づいています。
いや、入って来ているかも知れません。
だからこそ、ますます「人」が強調されることもあるかもしれません。
これは、終りの時代に「反キリスト」があらわれることの預言からもわかります。
反キリストという言葉には、「キリストの代わり」
すなわち、キリストの代用品という意味あいがあります。
キリストという言葉や、神という言葉を使いながら、
その実、キリストと異なる者というニュアンスがあるのです。
ですから、ますます「人」が強調される時代にあって、その注意をすることは私たちに求められるのです。
聖書のこの時代では、パウロやアポロは特別な人だったと思います。
12弟子やその後に続いた多くの使徒的な人々は今で言えば、
大伝道者かもしれません。
奇跡やしるしを聞きますし、多くの人がついていっています。
でも、これは実は大変危険なことであることをぜひ心に留めていただきたい。
「人」が注目されるのは、聖書の時代も今も同じなようです。
だから、聖書のこの時代のこの出来事についても、それらは肉に属することであって、
御霊に属する人、すなわち神につく人になるように書かれているのです。
結)大切なのは成長させて下さる神です。
大切なのは成長させて下さる神様だけです。
みなさんも私についているわけでもなく、
教会についているわけでもなく、
神様についている一人一人であるという信仰を大切にして下さい。
最初のころから私はお話ししていますが、
この教会を大きくして、人がいっぱい集って、成長させたいとは思っていません。
私の願いは、ここで人が救われるきっかけになったり、救われたり、
神様に癒されたり、成長したり、回復したりしていかれることです。
その後、その人々が他の教会で信仰生活を送ることになったとしても、その人にとってそれが一番神様の前に恵まれた信仰生活を送られることになるなら、大きな喜びです。
教会が1000人になったとしても、その人達がもし私についてきているなら、私は悲しいと思います。
教会が1000人になるよりも、
1000人の人がオアシスチャーチを通して、救われたり、回復したりして、
生涯イエス様と共に歩む人生を送っていかれて、
私が地上の生涯を終える時に、オアシスチャーチが私の家族だけであっても、
その方が私にとっては、喜びです。
教会の人数が増えることは神様がされることだと思っています。
大切なのは、成長させて下さる神だからです。
人につく肉に属する人であるなら、神様につく御霊に属する人へと成長したいですね。
神様につく御霊に属しているなら、神様につき続けましょう。
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