2008/02/17

08.2.17「愛によって動かされる」

使徒 20:7-12
:7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
:8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。
:9 ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
:10 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。
:11 そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。
:12 人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。

序)受けた人は動かされる。
阪神大震災から10年以上たっていますが、その震災の時には多くのボランティアが被災地へ援助へ行かれました。
その後、北陸でロシアのタンカーの座礁で重油が海岸に漂着した時や、いろんなところでは地震や天災の時に、阪神大震災の被災者がボランティアとして参加されたというニュースを何度か見たことがあります。
そのインタビューを聞くと、阪神大震災の時にたくさんのボランティアに助けてもらったから、今度は自分達が助ける番だと思った、という話しをよく聞きました。

人は、何かを受ける時に、何かをしてあげたい、という行動へと動かされるのだと思いました。

心に何かを受ける時に、心が動かされるんですね。

今日、聖書から、神の愛に触れ、神の愛を受けて、心動かされた出来事を通して、共に教えられていきたいです。

1.神の愛によって

★神の愛に触れ

★神の愛を受け

★神の愛に動かされる。


パウロは、翌日出発することになっていたにも関わらず、夜中まで、明け方まで語り続け、話合ったとあります。
普通、出発する前夜は早めに寝て、備えるものです。
しかし、パウロは、違いました。
翌日に出発だから、もうこれで今度はいつ会えるか、もしかしたらもう会えないかも知れない、だから、出発までの時間を語り合い、交わったのです。
ここには、この人々を愛するパウロの心が見えます。
神と人を愛する愛によって、最後の時間まで捧げたのだと思うのです。


パウロもまた、神の愛に触れ、神の愛を受け、神の愛によって動かされた人だったのでしょう。

使徒9には、サウロがまだクリスチャンを迫害していたところから、イエス様に触れられて、変えられていった記事がかかれてあります。
サウロは、クリスチャンの殺害に賛成し、また、そういう人々を牢にいれるために探し回って、教会を荒らしていた人物でした。
その為にダマスコへ向っている途中での出来事です。

使徒 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
:12 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

サウロは、イエス様に打たれて、命を落とすような裁きを受けても仕方のないことをしていたと思ったかも知れません。
でも、イエス様はそんなサウロをも愛し、アナニヤを遣わして、選び、生かし用いられたのです。
サウロは、主の愛に触れたのでしょう。
また、アナニヤがサウロのもとに来た時に、「兄弟サウロ・・・」と言いました。
サウロは自分がアナニヤのような人を迫害していることをアナニヤは知っているにも関わらず、
「兄弟・・」と呼んで祈ってくれた。
そこに主の愛を感じたでしょう。
この記事は、サウロがイエス様の愛を最初に受けた、その愛に触れた出来事だったのでしょう。

その愛を受けて、サウロは神と人を愛する人へと変えられていったのだと思うのです。
だから、このように翌日に出発するというような時でさえ、心が動かされて、
最後の最後まで、今できることによって、愛したのでしょう。


また、アナニヤもこの記事でわかるように、「兄弟サウロ」という前には、主の促しに対して拒んでいました。
しかし、主の愛を受けていたので、最終的には、その愛によって、心動かされて、愛によって動かされて、サウロを愛したのだと思うのです。


また、ルカ19章では、ザアカイという人が登場します。
ザアカイもまた主の愛に触れられた一人でした。

イエス様がエリコを通られた時、そこにいたザアカイにイエス様は声をかけられて、家に泊まられました。
ザアカイは取税人で、嫌われていました。
そのザアカイの家に、あのイエス様が泊まるといわれた。
そして、実際にそうされた。
ザアカイはきっと、イエス様と交わり、話しを聞き、イエス様の愛に触れ、イエス様の愛を体験したのだと思うんです。
そして、ザアカイはいいました。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

施しますといったことも素晴らしいですが、「私が騙し取った物は・・・」と罪の告白もし、その悔改めの実を結ぶ告白までしていますよね。

ザアカイもイエス様の愛を受け、心動かされて、変えられていった一人でした。
そして、貧しい人達を愛するという、ザアカイにとって今できることを告白したのです。

神様の愛に触れ、愛を受ける時、心が動かされて、神と人を愛することへと行動できるようになるのです。


さて、使徒7章では、ステパノという人が出てきます。

このステパノは、イエス様によって変えられて、主の恵みと力に満ち、知恵と御霊によって語っていた人でした。
そのステパノが偽の証言によって、議会にひっぱっていかれて、弁明を求められ、聖霊に満たされて、語った行った時、
人々が煮えくり返る思いで、ステパノを町の外に追い出し、石で打ち殺したのです。
しかし、ステパノはこの時、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。

「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。とあります。

正しいことをしているステパノが自分が殺されようとし、まさにその真っ最中に、この言葉を言ったのです。
自分を殺している人を愛しているのです。
神様の愛に触れ、その愛を受けている人はなんと強いのでしょうか。

神の愛に触れ、神の愛を受けて、心動かされることは本当に大きな力となるのです。


このステパノと同じような情景を思い出されませんか?

結)そうです、イエス様の十字架です。

イエス様もまた、偽りの証言で議会にひっぱってこられ、最後は人々が扇動されて、イエス様を十字架へ・・・となりました。
しかし、イエス様はその十字架につけられている時に、
「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは何をしているか知らないでいるのです」と祈られました。

神は愛です。
イエス様はまさに愛そのものです。
ですから、イエス様は人々を愛し、私たちを愛し、その愛によって行動され、私たちを最後まで愛しとおされた方です。

私たちは、神様の愛に触れ、愛を受ける時に、愛によって動かされていくのですが、
その根源はイエス様です。

イエス様はその愛そのものですから、受けるも何も、その愛によって愛して下さったのです。


私たちは、パウロやザアカイやステパノや多くの聖書に人々、また信仰の先駆者達のように、
神の愛に触れ、神の愛によって動かされるものになりたいですね。

愛がなければ一切は無益である。とコリント1にあるように、
私たちの行動は、神様の愛によって動かされたものとなるよう、
イエス様の愛にもっともっと触れて、もっともっと受けて、
その愛によって動かされて、行動するものになりたいと思います。