08.3.2「そこにある神の御業」
マルコ5:1-20
:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。
:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
:14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
:16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
:17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
序)ある一人の男の話
彼は、いろんなものに支配されていました。
酒に溺れ、タバコで体はボロボロ。。。
スナックの店のカウンター越しに愛想よくしてくれる女性の気をひこうと毎日通いづめて飲み代にお金はつぎこまれ、それでもお金儲けをしようと野望は持っているけれども、実現が難しいとわかると、半分人生をあきらめて、その日その日がよければそれでいい、というような生活になっていったのでした。
それでも、彼は自分自身にコンプレックスを持っており、悩みのないような振りをしていたけれども、本当は悩みだらけでした。
そんな彼に転機が訪れました。
友人から、イエス様の話しを聞いたのです。
彼は、聖書の話しなんて聞いたこともなかったし、教会にもいったことはありませんでした。
それでも、仲のいい友人だから、話しに一応耳を傾けました。
その話しを聞いている最中もビールを片手に、タバコを吸い、聖書の話し、友人がクリスチャンになった話しを聞きました。
彼は半信半疑でしたが、友人がしきりに進めるので、一度友人がいっている教会へ足を運ぶことにしました。
彼は、日曜の朝、友人と一緒に教会にいき、礼拝に出席しました。
一種異様な雰囲気を感じた彼は驚き、毎週日曜を死ぬまで教会に通わなければならないなら、なんという不幸な選択だろうと感じました。
でも、同時に、本当にここで言っている、聖書に書いてある神様が本当の神様なら、無視するわけにはいかないと思ったのです。
次の週は仕事で礼拝には行けませんでしたが、その翌週はもう一度行こうと思っていました。
しかし、また用事が入っていけませんでした。
彼は「仕方ない。来週行こう」と思いました。
しかし、直前に今度は仕事が入ったのです。
「まあ、仕方ない、来週は行こう」
そう思ったのです。
しかし、その次の週も急な用事が入り、教会には行けませんでした。
彼はこの時、思ったのです。
「自分は教会にもう一度だけ行ってみようと思っている。
それなのに、行こうと思っているのに、行けない。
もし友人が行っているように、神様と悪魔がいるなら、
悪魔は、俺が神様のもとに行って神様のことがわかるようにならないように、行くことができないように、妨げられているのかも知れない・・・。
そして、そのまま行けなくして、神様からおれを遠ざけようと悪魔がしているのかもしれない。
もし、そうだとしたら、俺は来週、どんなことがあっても、教会にいくべきだ。
なぜなら、そこは本当の神様の存在を知ることができる場所かも知れないから。。」と。
そうして、彼は次の週、あらゆる用事や仕事が入ろうとしても、断って教会に行きました。
そして、とにかくここでクリスチャン達が言っている神様が本物なのかどうか、わかるまで行ってみようと決意したのです。
その決意の故に、彼はその礼拝後、洗礼を受けました。
そして、その後、彼は神様の存在を確信し、イエス様の救いを確信し、
教会に通い、神様を愛するクリスチャンの一人となりました。
彼は今、自分の召しを神様に問いつつ、
今自分にできることを精一杯神様の前にささげつつ、
ある教会で奉仕し、一人でも多くの人が神様の愛を体験し、
イエス様の救いに預かって、イエス様につながることができるように願い、
その信仰生活を送っているのです。
そして、その「男」とは、ぼくです(^^;
これはぼくの救われた時の証しから現在の証しですが、
一人の男の話として、外から見るように話すと、このようになるんですね。
さて、これと同様に、今日、お読みいただいたこの汚れた霊につかれた男の話しから、
神様が
どんなに素晴らしい方か、
どんなことをして下さる方かを見て、
共に神様をあがめたいと思います。
1.人の力の限界
人の力ではどうしようもできないこともある。
:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
この男は汚れた霊につかれており、もはや誰も、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかったのです。
私たちの生活する中で、自分の力ではどうすることもできないようなことも体験するのではないでしょうか。
最初に話した私のことですが、就職した年の4月に仕事中に自分のミスもあり、事故で死ぬような経験をしました。
特にそれからというもの、人間どんなにがんばっていても、いつどんなことで死ぬかもしれないということを思うようになり、
その日その日が楽しければそれでいいじゃないか・・・というような気持ちを持って生活するように自分を追込むようになっていきました。
自分ではどうすることもできないという経験でもありました。
子供をターゲットにした、悲痛な事件が後を立ちません。
学校や幼稚園、保護者や地域が一生懸命になって、子供を守ろうとしても、
その保護者が加害者になることもあります。
また、地域の人が加害者になることもあるのです。
どんなに法律で規制しても、その抜け道を探し出し、悪いことをする人がいます。
自分達ができる限りのことをやったとしても、守れない時もあるのです。
また、どうしても限界もあります。
地震に強い家を作ったり、地震の振動を免れる家を人間は作ります。
津波から守る為に高い防波堤を作ります。
雪に強い建造物も作ります。
それでも、それを越える自然災害がやってくることもあります。
雪で建物が崩壊することもこの冬はありました。
人には限界があるのです。
どうしようもない人間の力の限界は体験することはあるのです。
地震で、津波で、雪害で、暑さで、台風で、ウイルスで、病気で・・・。
この汚れた霊につかれた男もそんな人間の限界を越えてしまって、
どうしようもない状況でした。
でも、そこにイエス様が来られたのです。
2.イエス様に不可能はない
イエス様はその限界をも打ち破られるお方です。
:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
この人の力ではどうすることもできなかった男を正気に返らせられたのです。
私の場合も、イエス様との出会いがなければ、
「太く短く生きればいい」
「その日その日が楽しければそれでいい」
「人間、いつ死ぬかわからないのだから」
と思って生きていったと思います。
もし、そうしていたら、今私はどうなっていたのでしょう。
もう死んでいなかったかもしれない。
いたとしても、体はボロボロ、心もボロボロ、とにかくなんとなく過ごしていたかもしれない。
でも、そんな私を救って下さったのが、イエス様でした。
今は本当に健康にもなって、無茶するような人生ではなく、神様に信頼し、委ねつつも自分だけでなく、周りの人のことも配慮することができるようになり、
苦しかったり、悲しかったりすることもありますが、楽しく感謝な日々を送ることができています。
イエス様には不可能はないのです。
今の時代、いろんな問題があります。
でも、私たちはイエス様にあって、希望を持つことができるのです。
Iさんは、病気で娘さんを亡くされました。
でも、天国でまた会えるという希望があります。
イエス様は無から有を生み出し、死人をよみがえらせることのできるお方です。
不可能はないのです。
このお方に私たちは希望を見出すものになりたいですね。
そして、イエス様に希望があることを一人でも多くの人に知ってもらいたいと祈ります。
さて、イエス様によって解放された男は、イエス様についていきたいと願いましたが、
イエス様はどうされたでしょう。
3.召しと賜物
イエス様についていくだけが召しではない。
:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
イエス様に救われた人は、イエス様についていきたいといいました。
でも、イエス様はそれを許されず、そこに留まり、家族や地方の人々に証ししたのです。
私が救われた時は、京都市に住んでいました。
半年後に地元長浜に戻ってきて、ここに住み、滋賀の救われた教会で過ごしました。
今は地元長浜で、主にささげているわけですが、
これは、ぼくの場合です。
人によっては、どこかに送り出されるでしょう。
そこに留まって仕えることに導きがあるかもしれません。
牧師になる人もいれば、伝道者になる人や、宣教師になる人もいるでしょう。
そうではなく、教会で仕えつつ、職場で用いられる人もいるでしょう。
あるいは地域で用いられる人もいるかも知れません。
病気がちで入院されている人なら、病院で用いられるかもしれません。
神様は一人一人に自由に賜物を与え、それぞれに召しを用意されているのです。
何もみんなが同じ道を歩むのではないのです。
ペテロやヨハネ等、弟子達は、仕事も捨て、家族とも別れ、イエス様についていくことが召しでした。
でも、この男はそこに留まり、そこで神様が自分になさったことをいい広めることが召しでした。
私たちも一人一人、召しが違います。
誰とも比べる必要もないのです。
神様の召しに従って、歩むことが神様が私たちに願っておられることです。
結)一人の人の人生に神様が関わって下さる時、それは素晴らしい神様の御業です。
あなたの人生にも神様は関わって下さるし、それは神様の御業の一つなのです。
人の人生の数だけ、神様の御業はあります。
どんな悲観的な状況であっても、神様に希望を見出すことができ、
神様がそこに介入される時、素晴らしい御業があらわされ、
更にその人の人生を通して、多くの人に影響を与えていくのです。
このイエス様に希望をおき、イエス様の召しに従って、
イエス様を見上げつつ、歩む人は幸いです。
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