2008/03/23

08.3.23「イエス様の復活を信じますか」

マタイ 28:1-10
:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」


序)イエス様は復活された
イエス様の復活の出来事は、4つの福音書全ての書かれてあります。
確かに、十字架で死なれて、アリマタヤのヨセフによって墓に葬られたイエス様が復活なさったのです。
復活は、超重要な出来事です。
今日は復活祭ですが、これは、クリスマス以上に重要な出来事と言えるかも知れません。
イエスキリストがこの地上に生まれられたことは、今現在の人類の歴史上でも、事実として取り扱われており、教科書にも載っています。つまり、信じられているのです。
しかし、復活についてはどうでしょう。
宗教的な教え、伝説のようなもので、キリスト教徒が信じているとされているものとされているのが、今の世の中での認識ではないでしょうか。
しかし、聖書に書いてある通り、イエス様は復活されたのです。
さて、あなたはイエス様の復活を信じられますか。信じておられますか。

4つの福音書から、イエス様の復活の時の出来事を通して、共に教えられたいと思います。


1.偽装しようとした。マタイ28:11-15

マタイの福音書から。
27:62さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、:63こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。:64ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」:65ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。:66そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

このようにして、番兵に墓の見張り番をさせたのです。
しかし、先ほど読んでいただいたとおり、主の使いによって、石はころがされ、イエス様は復活されたのです。そして、その番兵たちの報告を聞いた祭司長やパリサイ人達は、偽装しようとしました。

マタイ28:11-15
:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。
:14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

祭司長やパリサイ人は、聖書を知っている人たちです。
預言者の預言も読んでいるのです。
そして、イエス様が実際に復活された出来事を聞いたのです。
それでも彼らは信じるどころか、その事実をもみ消そうとして、偽装まで謀ったのです。

なんという頑なな心でしょうか。
そして、恐ろしいことをしたのでしょう。
まさに神に敵対するような行動です。

しかし、私たちも以前はそれを信じなかったものであったでしょう。
実際に見ていないのだから仕方ないと言う人もいるでしょう。

でも、果たして実際そうなのでしょうか。
実は、「信じたくない」「認めたくない」「信じるのが怖い」「信じるべきではない」といったような自分の中での「決めつけ」とか「固定観念」とか「逃げ」とかがあなたをそうさせていた、あるいはそうさせているのではないでしょうか。

祭司長たちもまた、
「いや、ここでイエスが復活したことを認めてしまったら、私たちは今まで偽預言者扱いし、十字架にまでつけて殺してしまったのだ。私たちは神に敵対したことになってしまう。だから、イエスが復活したなんて、弟子たちの作り話なのだ・・・」と自ら言い聞かせるようにして、この偽装をしたのではないのでしょうか。
表向きはそうでなかったかもしれませんが、その深層心理ではそのような葛藤があったのではないかと思えるのです。

私たちも同じように、
「イエス様が復活されたことが事実で、イエス様が神様なら、今までの自分の人生はなんだったんだ。全てが否定されてしまうんじゃないか。こんなに苦労して今まで生きてきて、今までの自分の人生を否定されてしまうじゃないか。だったら、決して、そんなことは認められない。だから、イエスが神様だなんて、信じられるか。復活なんてありえない。非科学的だし、そんなもの信じるわけには行かない・・」と思う自分の心に、
悪魔が「そうだ、その通りだ。お前の考えは正しいぞ。そんな信じられない話に乗っかるんじゃない。お前は自分を信じていればそれでいいんだ・・」と更に助長するのです。
すると、悪魔の存在をも信じていない私たちは、
「だよな・・、やっぱり、信じるなんてしないぞ。だいたい、そんなこと信じられるわけない・」
とイエス様を、まことの神様を信じるチャンスを逃してしまうのです。

これは、私たちの過去でもあるかも知れませんし、未だにイエス様を信じていない人々の多くの人の心の奥底にあるものかもしれません。
そんな中で、イエス様を信じて受け入れることができた私たちは本当に奇跡であり、イエス様に感謝しなければなりませんね。

このような偽装が私たちの心にも仕掛けられることがあるのです。
私たちはそれを聖霊によって守っていただいて、イエス様を信じるものになりたいですね。


さて、弟子たちはどうだったのでしょう。

2.聞いても信じなかった。マルコ16:11-14、ルカ 24:25-27

マルコの福音書とルカの福音書から。
マルコ 16:11-14
:11 ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。
:12 その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。
:13 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。
:14 しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。


弟子たちは、イエス様が生きておられる、その姿を見たことを聞きましたが、信じようとしませんでした。
彼らは、イエス様が十字架にかかられる前に、イエス様から直接御言葉を聴いていたにも関わらず、信じようとしなかったのです。

私たちは、実際、聖書を通して、当時、イエス様の復活を見た人たちの話を知ることができます。しかし、それを信じるかどうかは確かに私たちにかかっています。
それを信じることができたということもまた感謝なことです。

では、人の話をなんでも信じていいのでしょうか。
振り込め詐欺が滋賀県でも被害者が出ています。人の話をそのまま信じてしまうのです。
税金の還付が受けられるから・・、年金の手続きをすれば、還付金が出るから・・、等と言葉巧みに騙してきます。
また、おかしな宗教が出てきて、大金を巻き上げたりして、騙される事件もあります。

そんな時代ですから、イエス様の復活を語っても、その救いを話しても、信じてもらえないということを体験することもあるでしょう。

私たちもまた、クリスチャンの体験談だから、クリスチャン、あるいは教役者の話しだから、、、というので、そのまま聞いたことを信じていいのか、ということも注意する必要があるのでは、、と思ってしまうかも知れません。

さて、イエス様は聞いたことをそのまま信じなかったから、不信仰と頑なな心だと責められたのでしょうか。
実はそうではありません。それは、ルカの福音書の箇所でわかります。

ルカ 24:25-27
:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

そうです。聞いた出来事が事実かどうかということも重要ですが、それ以上に重要なのは、御言葉であるかどうかです。
救い主であるキリストがそのような苦しみを受けて、復活し、栄光に入ることが預言者によって語られている。そして、神の御言葉は必ず成就することを知っているなら、それをなぜ信じないのか、ということを責められたのだと思うのです。
弟子たちはそのことをイエス様から聞いていたのに、信じなかったから、その不信仰を責められたのです。

私たちは、聞いた事柄が、神の言葉から来ているのか、預言の成就なのか、それを見る必要があります。
そして、その出来事が信じがたいことであったとしても、神の言葉であるなら、信仰によって受け止め、信じるものとなりたい。


3.見ないで信じる幸い。ヨハネ20:24-29

さて、イエス様の復活は事実です。
しかし、みることはできません。
トマスもまた、見るまで信じないと言いました。

ヨハネ20:24-31
:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

トマスは、「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったのです。
それに対して、イエス様は、8日後にトマスもいるところで来られて、
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。

あなたは、イエス様の復活を、イエス様が救い主であることを、信じますか。
イエス様は言われます。
「信じないものにならないで信じるものになりなさい。」
そして、こうも言われます。
「見ずに信じる者は幸いです。」

私たちは今、イエス様を肉眼で見ることはできません。
しかし、神の言葉である聖書に、救い主が生まれられることから、苦しみを受け、死なれて、復活し、栄光を受けられることが書かれてあり、そして、実際にそのことが起こったことが記されており、聞いています。

見てないからと言って信じないものにならずに、見てなくても信じるものになりましょう。


結)イエス様を得るために

それは、イエスの御名によって、いのちを得るためです。

ヨハネ20:30-31
:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

イエス様が十字架にかかられる前にこのように言われています。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

いのちを得るため、イエス様ご自身を受け取るため、信じるものになりましょう。