08.4.27「羊と山羊 -愛と無関心-」
マタイ 25:31-:46
:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
序)まずは羊と山羊の違いを見てみましょう。
羊も山羊も偶蹄目・反すう亜目・ウシ科です。そういう意味では同類と言えるかも知れません。ということはもしかすると、この箇所でいう羊と山羊は、クリスチャンであっても、天国と地獄の違いがあるというふうにも解釈ですますね。
さて、毛は違います。羊は羊特有の毛は細く柔らかく、ひきつれてからみやすい。もともと羊には羊毛と獣毛が共生していたが、品種改良によって獣毛が減らされた。山羊は粗くてかたい真っ直ぐな獣毛。
また象徴としては、
羊: 無垢・単純・誠実・愛情,キリスト・犠牲・清浄,群居性・指導者への追従
山羊: 敏捷・優雅・自由・社交性,サタン・魔女・罪人,気まぐれ・放浪癖
と明らかに違いますね。まるで天と地ほどの差です。
私達も山羊にもなりうると思って読んでみると、神の前に謙遜になれるのではないかと思うとそのように読んで教えられていきたいとも思います。
さて、早速見てみましょう。
1.羊・・・愛する心を持っていた。:34-40
羊は、このようにいわれました。
:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
羊は「私はそんなことをした覚えはありませんよ。」
でも、「小さい者のひとりにしたのは私にしたのです。」といわれました。
よく、「これはあなたのために言ってるのよ。」という言葉を聞くことがありますが、果たしてホントにそうなのでしょうか?
以外と、自分が相手を思うように動かしたいがために言っていることが多いかも知れません。
本当にその人のためになってない場合もあるかも知れません。
しかし、私はまだまだだ・・・などと思っている人の方が意外と人のためになっていたりすることもあるようですね。
本当に相手のためになることは、相手が必要に思っていることに手を差し伸べてあげたりすることではないでしょうか。
実際には、恥ずかしかったり勇気がなくて、行動はできないこともあるかも知れません。
でも、「あ、何か困っておられるのかな?」「助けを必要をしているのかな?」と思うことはできると思います。
関心を示すということでしょうか。
そう思うことすら、関心を示すことすら、なくしてしまってはいけないと思います。
友人が入院したと聞けば、「大丈夫かな?」とお見舞いに行く。誰もその病気を治しに行く人はいません。
なんとかしてあげたい、よし、手術してあげようといってナイフを持っていたら捕まります。
心配して訪問するだけでいいのです。
神様のためにと思っていたことが実はそうなっていないこともあるんですね。
サマリヤ人の話しから・・・神様を礼拝しにいくのだから、困っている人をほっといて行くよりも困っている人を助けることを優先したサマリヤ人と同じようにすることが隣り人を愛することになるとイエス様は言われました。
自分を愛するように隣り人を愛することが神様を愛することにもなっているんですね。
愛する心、関心をもつ心は失わないように、聖霊によって守っていただきましょう。
2.山羊・・・無関心だった。:41-46
山羊は、このように言われました。
:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
これは私の解釈ですが、山羊はこう言いたかったのだと思います。
「いつあなたが空腹だったり、旅人だったり、裸であったり、病気であったり、獄におられたりしましたか?そんなことなかったでしょう」と。
そこで、主は「小さい者のひとりにしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われました。
前回のタラントの話しで1タラントの人が何も減らさなかったのに、叱責されましたね。
今回も同じです。別にこの人達は、小さな者に暴力を振るったり、盗んだり、殺したりしたわけではなかったと思います。
しかし、永遠の刑罰を受けることになった。
神様の前では、何もしないことは罪のようです。
さて、愛の対極にあるのはなんでしょうか?憎しみ?
でも、これらの聖書を見ていくと、愛の対極にあるのは、「無関心」であるようです。
サマリヤ人のたとえ・・・パリサイ人や律法学者は強盗に襲われた人に更に追い討ちをかけたわけじゃない。悪いことは何もしてない。そう、何もしないことを主は悲しまれるのです。
それは無関心です。
ですから、羊の話しの時にお話したように、関心を示す心を守りましょうと言ったのです。
無関心の対極にあるのは、愛だからです。
愛をなくしてはいけません。
決)愛の心は関心を持つ心
世界各地で地震や津波や災害があったり、戦争でたくさんの人が命を失うことを聞きます。家族を家を失った人もいます。
私達には関係ないのでしょうか。行ってボランティアすることはできないけど、募金ならできる。でもそんなこと言い出したら、あっちにもこっちにも募金しなくちゃいけなくなってしまいます。それができるならそれも素晴らしいことですが、できないこともあります。
病気で入院している友人の病気を治すことはできなくても、見舞うことはできる。もし、見舞うこともできなくても、私達は祈ることができます。
私が車で見過ごしてしまった人も、その時なにもできなかったけど、運転しながらでもいいので、「あの人達がもし道に迷っているなら、無事目的地に到着しますように、主よ助けてあげて下さい」と祈ることはできるんですね。
私達は、困っている人がいたら、「関心」を持ちましょう。
それが愛のまず第一歩です。そしてできることをしてあげられたら、それはもうプラス以上の素晴らしい愛の実践です。
そのような人は、私達のまわりにたくさんいるんじゃないでしょうか。
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