2008/04/20

08.4.20「忠実であること」

マタイ25:14-30
:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。


序)
この箇所はそれぞれ5、2、1タラントを預かった者の話しですが、まずはこのタラントという通貨の価値を見てみましょう。
1タラントは6000デナリです。1デナリは当時の一日分の労働賃金であったようです。
例えば日当1万円だとすると、1タラントは6000万円ということですから、5タラント預かったものは、3億円ということになりますね。
じゃあ1デナリが1日の労賃なら、一年で約300日働いたとすれば、年収は300デナリです。
ということは1タラント(6000デナリ)は20年分の年収ということになりますね。
年収300万円なら6000万円
年収400万円なら8000万円
年収500万円なら1億円が1タラントということですから、
5タラントというのは、3億円から5億円ということになりますね。
2タラントは、1億2000万円から2億円。
どちらにせよすごい金額です。
こんな大金を預かった3人はそれぞれの行動に出ました。
なんと5タラント預かった人と2タラント預かった人はこの大金を使って商売をして倍にしたのです。
なんと大胆な人でしょう。商売がうまくいったからよかったようなものを失敗したときのことを考えると・・・。
ところが1タラントを渡されたものだけは、地を掘りこれを埋めたようです。この方が少なくとも減らすことをしないのでいいようにも見えます。
さて、その結果とその時の主人の言葉から、わたしたちは神様が私達に伝えたいと願っておられるメッセージを見ていきたいと思います。

1.預かった者の姿勢、態度を見られた。

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
この言葉は、5タラントで5タラント儲けた人も、2タラントで2タラント儲けた人にも全く同じ言葉をかけられています。
主人は儲けた額に対して評価されたのではなかったようですね。
「忠実」という言葉がこの短い言葉の中に2回も出てきます。主人はこのしもべの預かったものに対する忠実さを見られたのでしょう。
仮に商売に失敗して減らしてしまった時に、主人はどうしたでしょうか。
これは私の推測ですが、「そうか、失敗してしまったか。しかしよくがんばった。忠実に取組んだことを私は知っている。ではもう一度、5タラントを預けるから、やってみなさい。」といわれるような気がします。


神様は私達にいろいろなタラントを与えて下さっています。これは、自分のものではありません。神様から与えられているものです。ある人は1タラント、ある人は2タラント、ある人は5タラントかも知れません。しかし、その与えられているタラントに対して忠実な態度・姿勢で用いるならば、それは10タラントにも20タラントにもなる可能性があるのです。
与えられているものだということを忘れてはなりません。
まるで自分のものだと勘違いして、大事にもっているだけで使わないのでは、神様はその態度や姿勢を悲しまれるのではないかと思うのです。
私達が与えられているタラントを神様から預かっているものだと自覚できるならば、これを使って神様をお喜ばせしたいと願うのではないでしょうか。与えられているタラントに忠実であることはそれを用いることでもあります。
その時に、その実を結ぶことができるかも知れません。そして更に大きなタラントを神様から預かることになるでしょう。

さて、ここで1タラントを預かったが地に隠しておいた人に言われた主人の言葉を見てみましょう。
『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

ここからも神様のメッセージを見ましょう。
神様は私達に多い少ないの差はあっても、タラントを与えて預けて下さっています。そのタラントを用いないならば、その人に持たしても意味がなくなるのです。ですから、多くのタラントに対して忠実で管理できる人にもう1タラント任せても大丈夫だから・・・と委ねられるのです。

イエス様はその生涯を見る時、忠実でした。
両親や家族に仕え、自分に与えられていることに対して忠実でした。
罪深い私達の中で、弟子に仕え、人々に仕え、自分の使命に忠実でした。
そして、十字架の死に至るまで忠実であられたイエス様。
ピリピ 2:6-8
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は本当に忠実な姿を私達に示して下さっています。
私達は、このお方を模範にこのお方を見上げ目指して歩むものでありたいと願います。

さあ、私達はどうでしょう。与えられているタラントを用いることに忠実でしょうか?
小さなタラントだから大したことはないから用いなくてもいいでしょうか。いいえ、そのタラントに忠実であることを神様は願っておられます。
大きなタラントすぎて用いることができないと思いますか。大丈夫です。そのタラントに忠実でいるなら、用いていくなら、神様は最善をして下さいます。たとえ失敗してもそのタラントを取り上げることはされません。
失敗というのは、成功するまでに辞めてしまう時に失敗となります。
そして、忠実である時にそこに必ず実が結ばれてくるでしょう。
すると更に大きなタラントを委ねられることになります。
その時には、あなたはその大きなタラントを管理できる人と成長しているからです。

ルカ 16:10
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。


2.神様と喜びを共にできる。

その時、どんなことが待っているのでしょうか。
「主人の喜びをともに喜んでくれ。」主人と喜びを共にしてくれ、という意味です。
イエス様の喜びを共に喜びとできるのです。
素晴らしいことです。

この喜びを私達も体験したいですね。