08.5.11「心に留める母」
ルカ 2:41-51
:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
序)マリヤは、イエス様の地上の母
今日は、母の日ということで、聖書からお母さんに注目してみたいと思います。
聖書にはたくさんの素晴らしい女性が、母が、出てきますが、今日は、マリヤに注目します。
マリヤは、イエス様の地上での母でありました。
イエス様が地上に生まれるために、選ばれたのが、マリヤであったのです。
先ほど読んだ箇所の最後に「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」とあります。
また、同じルカの2章の19節にもこのような箇所があります。
ルカ 2
:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
「心に納めて・・」とあります。
口語訳では、どちらも「心に留めて」という「留める」という言葉が使われています。
お母さんの特徴であり、優れているところでもある「心に留める」ということに今日は注目してみたいと思います。
1.全て心に留める
マリヤは、イエス様に対して起こったことや、語られたこと等を全て心に留めていたようです。
普通は、その時々で、驚いたり、少しは考えたりすることはあっても、すぐに忘れてしまいます。
しかし、マリヤは心に留める人でした。
これは、女性の、あるいはお母さんの素晴らしい特性の一つなのではないかと思います。
教会では月に一度、お互いの祈りの課題を出し合って祈る祈り会を持っています。
その時には、それぞれの課題を聞いて覚えてそのためにみんなでお祈りします。
素晴らしい時間です。
でも、何日か経つと、自分のことは覚えていても、なかなか他の方の課題を覚えているかというと忘れてしまっていることもあります。。ぼくはそうでした。。
でもある時、妻が「○○さん、どうなったんかなぁ。」と話してきました。
それは、祈り会でその方が課題として祈りのリクエストをされた内容でした。
ぼくは、忘れかけていたのですが、妻は覚えていて気に掛けていたのです。
それで、その時に、その方にメールを送って、「その後いかがですか?」と聞いてみて、最新の状況を聞いて、祈ることができました。
それ以降、ぼくも祈り会で出された課題をなるべく次の祈り会まで覚えておくようにして、時々お祈りするように心がけるようになりました。
また、子供が以前、こんな病気にかかったとか、それは何歳頃のことだったとか、何歳頃はこの子は、こんなことをしてたとか、よく覚えているのがお母さんの方だったりします。
「心に留める」というのは、やはり女性のあるいはお母さんの優れた部分なんだなぁと感じる事が多々あります。
これは、いろんなところに気が利くとか、心配りができる、配慮ができるといった素晴らしい特性だと思うのです。
教会では、そのような配慮や心配りも必要です。
男性もできる人はできるでしょうし、それは素晴らしいことですが、あまり得意とするところではないようです。しかし、女性がいるから、教会も配慮が行き届くような場所となっていくのだと思うのです。
2.その心に愛があるから
マリヤが自分の子であるイエス様のことで、あらゆることを心に留めていることができたのは、子供に対する愛や神に対する愛があったからだと思います。
心に留める、心配りができる、配慮する、といったことが得意であるかどうかというのは、女性のほうが男性よりは得意なのでしょう。
でも、得意だからできるだけではないのです。
そこには、「愛」があるからです。
自分の子供を愛しているから、子供のいろんな言動に目をむけ、それらを心に留めることができるのです。
それならば、男性でも可能じゃないか・・・。
そうです。可能です。
子供に対する愛があるから、お父さんも自分の子供のことや、愛する人のことには関心があり、いろんなことを覚えていることも多々あります。
それでも、女性の方が得意な方がおおいでしょうが。。。
でも、教会が来られる全ての方に対して、また、あらゆる方に対して、心を留めることができるためには、それらの方々に対する「愛」が必要です。
その愛は、どこから来るのでしょうか。
それは、イエス様からです。
聖書にはこうあります。
1ヨハネ 4
:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
まず神が私たちを愛してくださったのです。
私たちはその愛を受け取っているでしょうか。
子供は産まれてきて、まずお母さんの愛を受けるのです。
そして、お父さんや周りの多くの人の愛を受けるのです。
だから、将来、人を愛する、自分の子供を愛することができるようになるのです。
人は受けなければ、与えることはできません。
愛を受けなければ、愛を与えることはできないのです。
両親から愛を受けてきたでしょうか。素晴らしいことです。その愛を与えることができるでしょう。でも、その愛も限界があるのです。
自分を愛し、自分の伴侶を愛し、自分の子供を愛することで使い切ってしまうかも知れません。
他人を愛すること、あらゆる人に愛を与えることには不十分かもしれません。
でも、無限の愛を受け取るなら、たくさんの人に愛を与えることができます。
それが、神の愛です。イエス様の愛です。
その愛があなたの心にあるなら、多くのことに対して「心に留める」ことができるのです。
結)イエス様の愛によって
イエス様の愛を受けて、愛を与えることができるものになりたいですね。
イエス様の愛は、昨日も今日もとこしえに変わることなく、私たちに注がれているのです。
この愛を受け続けて、愛を与えるものになるなら、幸いです。
その具体的なことの一つが、「心に留める」ことです。
母から愛された人は幸いです。その母の愛は、その両親から来ているのです。さらにその上、、、その原点は神の愛です。
また、お母さんが神の愛を受けているなら、あなたはお母さんを通して神の愛をも受けてきたのです。
もし、お母さんからの愛を受けてこなかったという方がいらっしゃっても、大丈夫です。
神様がそれ以上の愛を注いでくださっていますから。
そんなお母さんに感謝し、その愛の源であるイエス様に感謝し、母の日を記念とできたら幸いです。
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