2008/05/04

08.5.4「よい事をする人」

マルコ 14:3-:9
:3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」


序)みなさんにとって、よい事って何ですか?最近よい事ってありましたか?
さて、この箇所で、イエス様が「よい事」といわれる事はどんなことでしょう。

1.よい事をしてくれた。:6

女がした事をイエス様は「よい事」といわれた。

見ていきましょう。
非常に高価で純粋なナルドの香油を全部注いでしまったんですね。それも入れ物のつぼをこわしたと書いてます。
こわしてしまったということは、もう一度ふたして残しておくってわけにはいかない、つまり全てを注いだってことですね。
どうも売ると300デナリ以上になるくらいだったようです。また登場ですね。「デナリ」(笑)
1デナリは当時の一日分の労賃といわれていますから、300デナリというと300日分ということになりますね。
年収くらいでしょうか。300万とも500万とも考えられますね。

弟子達には、無駄遣いに思えたようです。でもイエス様は、「私によい事をしてくれた。」と言われました。
では、弟子達が言った「貧しい人に施すこと」はよい事ではないのでしょうか?
そうではないですよね。それもよい事です。実際イエス様もそれを否定されたわけではありません。女を困らせるなといわれただけです。
「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。」とそのこともよい事と言われています。
よい事とは、ひとつじゃないんです。
与えられたものをどう使うか、どうよい事に使うかはそれぞれ判断が違うでしょう。
でも、イエス様はそれらをよい事と言われた。
私達も祈ってばかりいないで伝道に行け。という人もいるかもしれない。
でも祈る事もイエス様は「よい事」だから、するままにさせておきなさいといわれるのではないでしょうか。
伝道ばっかりしてないで、奉仕もしなさい。これもどうでしょう。
助け、交わり、祈り、伝道、奉仕、ボランティア、ささげもの・・・どれがよい事でどれが悪い事かなんて、わたしたちが判断すべきものではないのです。また、全てよい事です。
弟子が言った「貧しい人への施し」もよい事ですし、イエス様に香油を注ぐ事もよい事です。

私達が、「よい事とはこれだ!」と言えるものではないのです。

では、よい事はたくさんあるが、私達は何をどの程度すればいいのでしょうか。


2.できる限りの事をしたのだ。:8

女はできる限りの事をした。

私達もできる限りのことをすればいいのです。できない事をする必要はない。

女は、自分の罪深さを知っていたのでしょう。
イエス様に何かしたいという強い思いから、全財産(嫁入りように貯えられていたものと思われる)とも言える香油を全てささげました。女にとってできる最高のことだったのでしょう。また、女はそれをすることができたのでしょう。

神様は、人に限界があることを十分ご存知です。
ですから、できないことを要求される方ではありません。

仕事をしている人は、基本的に「できる限り」仕事をこなすというのは通用しませんよね。
これだけをやる、となれば、何がなんでも責任を果たさなくてはなりません。
でも、人には限界もあるので、できないような無茶な要求をすることはできないこともありますね。

医者は、病気を治療します。
でも、限界があります。ですから、手を尽くしたが人が亡くなるということはあります。

運送屋さんに、「この荷物を15分以内に北海道に届けてくれ」というのは、限界を超えていますね。

でも、できることはあるのです。
延命治療もあるでしょう。
1日以内に届けることなら可能かもしれません。

神様は私たちにできることをしてほしいと願っておられるのです。

友達が病気で入院した。私達はその時、できることをすればいい。
病気を治せたら最高でしょうが、無理です。お見舞いにいけたらすばらしいでしょう。無理でも家で祈ってあげることができたら、素晴らしい。できる限りのことをすればいいのです。
イエス様はそれを喜ばれるのです。

人がしていることを評価する必要はありません。自分がイエス様に何ができるのか、それを祈るべきであり、それを考えればいいのです。


決)イエス様はできる限りの最高の事をして下さった。
イエス様は私達のために十字架で命を捨てて下さった。
私達は誰かのために十字架に・・・は無理かもしれない。でもかまわない、イエス様が私達のために最高のできる限りをして下さったのだから、私達は小さくても、自分のできる限りをしたい。
私達のできることは小さいことかも知れないが、そのできる限りのよい事をしていく人になりたいですね。
その一歩を踏み出す人は幸いです。