2009/10/25

09.10.25「愛が豊かになるなら」

ピリピ1:9-11
:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

(口語訳)
:9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、:10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。


序)パウロの祈り
「あなたがたの愛が豊かになり・・・」
パウロは獄中にいながらにして、ピリピの人たちに対してこのように祈っているといいました。
それは、あなたがたの愛がいよいよ豊かになるための祈りでした。
私たちもここから、私たちの愛がますます豊かになるためのポイントを二つ見ていきましょう。


1.真の知識

「神を知り続ける」

真の知識によって、愛が豊かになるのです。

真の知識とはなんでしょう。
これは、御言葉をさしていると思います。

世の知識は、人を誇らせ(1コリント 8:1)、いずれすたれて(1コリント 13:8)いきます。
しかし、真の知識、すなわち神を知る知識、キリストを知る知識(ピリピ 3:8)は、真に価値があり、愛が豊かに増し加わるのです。

聖書は、神様からのラブレターとも言われるほど、神の愛について書かれています。
聖書を読むとき、神が私たちをいかに愛しておられるのかをみることができます。

天地創造の時、まず神は天と地を作られ、あらゆる生き物、植物等を作られ、全てを備えた上で、最後に、人を作られました。
しかも、神に似せて創られたのです。
神が人をいかに愛しておられるのかがわかります。
また、最初の人であるアダムとエバが罪を犯したときにも、動物の皮で着物を作り、与えられました。
ノアの時代には、地上が罪で満ちているような状態になりましたが、人を完全に滅ぼすことをせず、ノアの家族を選び、生かされてその子孫が現在の私たちであることを見ても、神の愛を知ることができます。

また、イエス様のことを読むとき、そこにも神の愛を見ることができます。
病んでいる人を癒し、悪霊に取り付かれている人を解放し、慰めが必要な人に本当の慰めを与えられ、あちらこちらで神様の愛を見ることができます。

そうです。
私たちが見ようと思えば、見ることができるようにしてくださっているのです。
私たちはそれを見るか見ないか、、、これは私たち自身にかかっています。

私たちは、真の知識によって、ますます愛が豊かになるために、聖書から神様の愛を見て、知っていきたい。



2.あらゆる識別力

「イエス様の判断力」

あらゆる識別力によって、愛が豊かになるのです。

あらゆることについて、識別できる能力を身に着けることで愛が豊かになるというのです。
これは、「イエス様なら、こんなときどうされるか」ということを繰り返し、経験していくことで、身についてくるのではないでしょうか。
これがイエス様の判断力ではないでしょうか。

福音書を見ると、イエス様がどんなときにどのように行動されたかをたくさん見ることができます。
大きな意味では、「真の知識、神を知る」ことでもあるのですが、実際にイエス様の行動を知って、自分の生活、人生の中で、イエス様ならどうされるかということを識別して行動することで、あらゆる識別力が養われるのではないかと思います。

安息日に癒しをされたこと、罪人といわれている人の家に入って食事をされたこと、ザアカイの家に泊まられたこと、サマリアの女に話しかけられたこと、、、
イエス様は、どうされたかを見ていくときに、イエス様ならどうされるかを祈りつつ生活することにより、識別力を養うことができるのではないでしょうか。

実際に、生活の中で、
「こんなときどうする?」って場面は多々あると思います。
そんなときに、「オレなら・・・」ではなく、「イエス様ならどうされるだろう・・」という視点で判断していくなら、それは神様の喜ばれるところとなるでしょう。

愛がますます豊かになるためにも、あらゆる識別力を身につけたい。


結)神の栄光とほまれとをあらわすに至る
私たちが真の知識とあらゆる識別力によって、私たちの愛が豊かになることによって、

・何が重要であるかを判別することができるようになる。
・キリストの日に純真で攻められるところのないものになる。
・イエスキリストにより義の実に満たされる。

そして、神の栄光と誉れとをあらわすようになるのです。

こんなにも素晴らしい祝福に預かることができるのです。
勿論、まだまだかもしれませんが、今できる一歩を、今日できる一歩を、今週できる一歩を踏み出す人は幸いです。

2009/10/18

09.10.18「できることは何か」

使徒 3:1-10
:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

序)できることは何か。
あなたができることは何ですか。
できることは限られてたりします。でも、できることもあります。
また、年齢によってできるようになってくることもあるでしょう。
あなたができることは何か、、、


1.人々ができること

生まれつきの足のなえた人は、宮に入る人たちから施しを受ける事しかできなかったので、毎日「美しの門」に運んでもらっていました。

生まれつきの足のなえた人ができることは、門のところで、施しをこうことでした。そのことでここまで生きてきたのです。自分ができることをしていたのでしょう。
また、歩けないので、その門のところまで運んでもらっていました。その運ぶ役をしていた人々もいたようです。
この男の年齢は、40代前半だったようですから、それなりの体重もあったでしょう。運ぶ事も大変だったかもしれませんが、協力者がいたようです。
その協力者もまた、自分のできることをしたのでしょう。

人はそれぞれ自分にできることは限られていますし、人によって様々です。
でも、そのできることを精一杯することで生きていけるのでしょう。

自分にできることすらしない人は、その権利を放棄しているとも言えます。
できないことまでする必要はないでしょう。勿論、努力してできないことを克服することは素晴らしい事です。でも、できなくても仕方ないことです。
ところが、できることすらしないならば、それはやることによって得られることも得られないのです。

生まれつきの足のなえた人は、歩けないので、働く事ができなかったのでしょう。だから、せめて自分の食べる分だけでも、得ようと思い、プライドを捨てて、宮の門に運んできてもらって物乞いをしていたのだと思うのです。自分のできることを見つけて、それを精一杯やったのです。
また、運ぶ事に協力した人たちは、この男に自分ができることといったら、本人が運んでほしいと言う場所まで連れて行くことくらいだったのでしょう。
そのことを精一杯やったのです。

人々ができることを精一杯するときに、また、お互いにできることを協力し合うときに、そこに何かが生まれてきます。

この男もそれによって、40年以上生きてこれたのです。

私たちも自分にできることを精一杯するものになりたいですね。
また、お互いに協力できることを支えあっていくものとなれるなら素晴らしいですね。



2.ペテロたちにしかできないこと

生まれつき足のなえた男は、立つことも歩く事もできないので、人の協力をえて、門まで運んできてもらって、物乞いをしていました。
ところが、ある日、劇的な出会いがあったのです。

ある日、ペテロとヨハネが宮に入ろうとして、その男の前を通りました。
その時、この男は二人に施しを求めたのです。
ペテロとヨハネは、その男を見つめて「私たちを見なさい」といいました。
男は何かもらえると期待して見ていましたが、ペテロは
「金銀は私にはない。・・」と言ったのです。
男はがっかりしたでしょう。
しかし続けて言いました。
「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
そう言って、彼の右手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行ったとあります。

ペテロとヨハネとの出会いは、この男にとって、人生が劇的に変化する出来事となりました。
自分にできることをやってきた男とその周りの協力者たちでしたが、これ以上を望む事は難しい状況でした。もし、足が癒されて、立つことができたら、歩く事ができたら・・・と考える事もあったでしょう。
でも、ペテロたちの信仰によって、それが現実のものとなったのです。

ペテロが癒したのでしょうか。ペテロが治療したのでしょうか。
そうではありません。12節以降にペテロが言っています。

「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

ペテロの信仰は、イエス様によって与えられる、御名を信じる信仰でした。
イエス様から与えられる信仰とは何でしょう。
イエス様の御名は、唯一私たちを救う名です。その御名を信じる信仰によって、ペテロはイエス様ご自身を内の持っていたのです。
これをあなたにあげようと告白したのです。
「あげよう」という言葉は、原語では「引き渡す」という意味です。
引き渡すというのは、言葉の通り、所有しているものを相手に渡すと言う意味です。
ペテロが持っていたのは、イエス様の御名により与えられていた救いであり、信仰であり、命であるのです。それをこの男に引き渡したのです。

男は何を言っているのかと疑ったでしょう。
でも、ペテロは大胆にも男の手をとって立たせました。
すると、たちまち足とくるぶしが強くなり、飛び上がりながら立ち、歩き出したのです。

生まれつきの足のなえた人の中に、ペテロが持っていたものが引き渡されたときに、この奇跡は起こりました。

これは、この男やその周りの人たちは持っていなかったものだったのでしょう。
しかし、ペテロたちは持っていたのです。

私たちは、どうでしょう。私たちしか持っていないものがあるのではないでしょうか。
イエス様の御名による救いを受けたでしょう。命を持っているでしょう。信仰を持っているでしょう。人生を導く光を持っているでしょう。
イエス様によって、あらゆるものを持っているのです。
ペテロはこれを引き渡したのです。
私たちも自分の持っている、いや、自分たちしか持っていないものを与える事ができるものになれるのです。
自分たちにしかできないことがあるのです。
そのことをするものとなるなら、なんと幸いでしょう。



結)根本的な答えを与えてくださるイエス様
生まれつき足のなえた男は、立つことも歩く事もできないので、人の協力をえて、門まで運んできてもらって、物乞いをしていました。それで何とか生きてこれたのでしょう。
しかし、根本的な解決にはなっていませんでした。それでも仕方ない状況でした。人ができることは限界があるからです。
ところが、ペテロとヨハネに出会い、劇的な奇跡を体験した男は、立つことも歩く事も飛び跳ねる事も走り回る事もできるようになったのです。
この男はどうしたでしょう。
翌日からは、運んできてもらう必要がないので、自分の足で門までやってきて物乞いをしたのでしょうか。
聖書にはその後のことは書いていませんが、おそらく仕事についたでしょう。働いて生計を立てることができるようになった事でしょう。
あるいは、以前の自分のように、同じように苦しんでいる人々のところへ行って、イエス様からいただいたものを与えるものとなったかもしれません。

人としてできる事をすることは素晴らしい事です。
でも、イエス様からいただいているあらゆる良いものをもってのみ、できる事をすることはさらに素晴らしい事です。
その時に、イエス様がその人の人生の根本的な答えや解決を与えてくださるのです。

私にできることをする。私にしかできないことをする。
その一歩を踏み出すなら、幸いです。神様の祝福がますます増し加わることでしょう。

2009/10/11

09.10.11「ピンチは、救いのチャンス」

出エジプト 1:8-2:10(1:22-2:9)

:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。
:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。
:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」
2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。
:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。
:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、
:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。
:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです。」と言った。
:7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
:8 パロの娘が「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。
:9 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
:10 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである。


序)ピンチは避けられない?
皆さんの人生では、ピンチに直面したことは今までに何度あったでしょうか?
ピンチなど、一度も経験したことのない方っておられますか?
ぼくは今までの人生の中で何度も「ピンチ!」と思ったことを経験してきました。

小学校の5年くらいのときでしょうか。
弟に向かって竹刀で、寸止めをしていたら、寸前で止まらず本当に顔をたたいてしまったときは、
「しまった!ピンチ!」と思いましたがもう遅く、えらい怒られました。

16歳で原付免許を取ったので、無免許の友達とバイクを乗っていて、パトカーが来たときも
「ピンチ!」で、、、実際つかまっちゃいました。

また、17歳のころ、ズボンのポケットにタバコを持ったまま、デパートの本屋で立ち読みしていたところ、それを見つけた補導員に声をかけられたとき
「ピンチ!」で、、、またまたつかまりました。

同じころ、M鶴のスーパーで万引きしたときに、声をかけられたときも
「ピンチ!」で、、、捕まってえらい迷惑をかけたこともあります。

また、22,3のころでしょうか。
80kmくらいで走っていて、赤い旗で誘導されたときも
「ピンチ!」で、、、つかまってしまい、もう少しで免停になるところでした。

いろんなピンチを経験してきました・・・。


あ、でも、これは、ある意味自業自得ですよね(^^;;
悪いことをしていたから、ピンチがやってくるわけですから。。。
ということは、こういうピンチは避けられますね。(^^;


でも、実際の私たちの生活、人生の中では、避けられないようなピンチに遭うこともありえます。


今日読んでいただいた箇所は、モーセの誕生の時の話しです。
エジプトに住んでいたイスラエルの民は、どんどん人数が増えて、エジプトにとって脅威となりつつありました。
そこで、ヘブル人の助産婦に命じて、男の子なら殺すように命じました。
しかし、助産婦は神を恐れて、それをしませんでした。
そこで、今度は、男の子はナイル川に流すように命じました。
そのときの出来事がお読みいただいた箇所で、この子が2:10でわかるように、
モーセです。

モーセは、ある意味、ピンチの連続の人生だったといえます。
でも、神様の恵みの中で、今日まで語り継がれるような信仰者として人生をまっとうしました。
ここから、教えられて、私たちの人生の糧となれば、幸いです。


ここでの、モーセのピンチを二つ見ます。

1.ヘブルの男の子として生まれた。

ヘブルの男の子として生まれたということは、ナイル川に流される運命に生まれてきたということです。
先ほどの私のピンチとは大違いで、モーセは何も悪いことはしていません。
神様から命を受けて、この世に生まれてきたのです。
しかし、その生まれたのが、ヘブル人として、そして、男の子として生まれてきたというだけで、ナイル川に流されてしまうという運命でした。

私たちが生まれてきたときに、親を選ぶことはできません。
自分の子供が生まれてきたときに、本当に思いました。
この子は、ぼくを選んで生まれてきたのではないんだ、と。
もっとお金持ちの家に生まれてきたかったと思うときもあるかもしれない。
もっとかっこいいパパだったら、もっと若かったら、、と言われても、どうしようもありません。
その子にとっては、受け入れるしか仕方のないものですね。

差別というのは、そこに生まれてきたからという出身だけで差別したり、
肌の色がどうだから、ということで差別したり、
その人の親がどうだからということで差別したり、
その人にとっては、どうしようもできなかったことが理由です。

ですから、本当にこれは正しくないことだと言えますね。

モーセも自分ではどうしようもできない中、
ヘブル人の 男の子として 生まれました。

まさに、「ピンチ!」です。

でも、このとき、両親は、モーセを何とかしようと3ヶ月の間隠して育てていました。
ここに両親の愛があって、ピンチをまずは3ヶ月クリアすることができました。

しかし、3ヶ月にもなると隠し切れなくなってきました。
ここで、モーセにとって次のピンチがやってきます。

両親は祈るような思いで、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いたのです。
かごが沈んでしまわないように、水が浸入しないようにして、簡単に流されないように、岸の葦の茂みの中に置いたのです。
そして、モーセの姉がそれを遠くから見ていました。


それでも、次のピンチがやってきました。

2.パロの娘に見つかった。

パロの娘に見つかり、「これはきっとヘブルの子供だ」とばれてしまうのです。
パロが命令したのですから、そのままナイル川の流れの急なほうへ流すこともできたでしょう。
いや、そうされてしまっても仕方のない状況です。
いわば、敵に見つかったわけですから。。

まさに「ピンチ!」です。

しかし、神様の介入でしょう。
パロの娘は、モーセを見て、あわれに思ったのです。
そして、そこに絶妙のタイミングで、モーセの姉が登場して、
「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
といって、うばとして母親を連れてきたのです。

パロの娘は、
「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」といったのです。

モーセは実母に育てられて、その上、パロの娘から賃金まで払ってもらったのです。

ピンチでしたが、ここでも、敵の心さえ動かして、救われたのです。


結)神は救い出してくださる。

これらのピンチは、モーセにとっては、自分ではどうしようもできないことでした。
でも、その全てのピンチ、逆境から救われたのです。
ここには、両親の愛、家族の愛、もあったでしょう。
隠すために周囲の協力もあったことでしょう。
パロの娘のあわれに思う心もあったでしょう。

しかし、一番大きなことは、その全てのピンチの中から、神様が救い出してくださるということです。

両親は、モーセを隠した3ヶ月は本当に大変だったでしょう。
もし、見つかったら親子共々殺されてしまうかも知れません。
でも、神様が守り、愛を注ぎ、これをさせてくださいました。

また、パロの娘に見つかったときも、パロの娘にあわれに思う心を神様が与えられたのだと思うのです。
そこに、小さい子供をかわいく愛しく思う心があったからこそ、救われたのです。

そこに神の介入があったとしか思えないのです。

私たちの人生の中で、自分ではどうしようもできないことでピンチに立っている状態になることもあるかもしれません。
しかし、神を信頼するとき、神様はどんなピンチや逆境の中でも、救い出してくださるお方なのです。

いじめ苦、生活苦、いろんな苦しみ、ピンチや逆境で苦しむ人々がおられます。
でも、その人々に伝えたい。

「神様は、どんなピンチや逆境でも、救い出す力のある方です。」

でも、その神様を知り、この神様に出会い、この神様とともに歩むことができないなら、
この「救い」も受け取ることができないのです。

是非、出会っていただきたいこの神様は、
2000年前にイエスキリストとして、地上にお生まれになり、
罪のない生活、つまり神様の言葉を守り、神の御心にかなった歩みをされ、
地上の生涯の最後に、十字架に架かられ、
私たちの罪の身代わりとなって命を捨ててくださったのです。
これは、私たちへの愛なくしては、決して成し遂げられなかったことです。

このイエスキリストを迎え入れるなら、あなたは「救い」を受け取れるのです。
そして、神とともに歩む新しい人生がスタートします。

このお方を心に迎えて、命がけで用意された「救い」を自分のものとして下さい。

2009/10/04

09.10.4「天にある喜び」

ルカ 15:-1-10
:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

序)喜び
みなさんは、最近いつどんなことで喜ばれたでしょうか。
9月に小学校の運動会がありました。
縦割りで5色の色別対抗で点数を競う形でもたれるのですが、毎年、子供たちはその点数に一喜一憂します。
途中経過の点数が表示されると、一位のチームは「わぁー!」と喜びの声が上がります。
先日、2016年の五輪開催地が決定しました。ブラジルのリオデジャネイロに決定しましたが、決まった瞬間、リオの人々、いやブラジルの人々からは、喜びが沸きあがりました。

人々はいろんなことで、喜ぶことがあるのですが、
今日の聖書の箇所においては、天において神様が御使いらと共におおいに喜ばれることが書いてあります。
共に見ていきましょう。


1.一人に注目される神

羊飼いは100匹の羊を飼っていました。ところが、その内の1匹がいなくなってしまったのです。その時、羊飼いは、残りの99匹を荒野に残して、いなくなった1匹の羊を見つかるまで探したのです。
100匹もいるんだから、1匹くらい仕方ないといって見殺しにすることはしませんでした。
そして、その1匹が見つかったときに、羊飼いはすごく喜んだのです。

また、10枚の銀貨を持っていた女の人が1枚をなくしたら、家中を掃除して見つかるまで探したのです。そして見つかったらこれまたすごく喜んだのです。

この喩えを通して、イエス様は、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、大いなる喜びが天にあることを語られました。:7、:10
その喜びは、99人の正しい人にまさる喜び、また、神の御使いたちに喜びが沸き起こると表現されているように、とても大いなる喜びが天にあることがわかります。

あなたは、罪人でしょうか。
だとすれば、神様は危険にさらされている一匹の羊を探すように、あなたを取り戻そうと探しておられます。
あなたは、既に神様に見つけられた存在、罪許された者となっているでしょうか。
だとすれば、あなたが悔い改めたときに、天においては、私たちが想像している以上の大いなる喜びがあったのです。そして、今度は、イエス様の友として、失われている羊を一緒に探し、また1匹が見つかったときに一緒に喜ぶ者へと変えてくださっているのです。
なんと素晴らしい事でしょう。

ここで、もう一つのことをお話します。
最初のたとえ話では、100の内の1が見つかったときの喜びです。
2番目では、10の内の1が見つかったときの喜びです。
そして、11節以降にもう一つのたとえ話があります。有名な放蕩息子の話しです。
ここでは、2人兄弟のうちの弟が家から出て行ってしまって、後に戻ってくる話しですから、
2の内の1が戻ってきたときの喜びです。

一人の罪人が悔い改めるときに、天において大いなる喜びがあるのですが、それは、100分の1でも、10分の1でも、2分の1でも同じなのです。
あなた以外がどれだけ多くても少なくても関係ないのです。
「あなた」が悔い改めるときに、「あなた」の為に天において大いなる喜びが沸き起こるのです。

神様はたくさんいる中のあなたに注目されているのではなく、あなたがどんな中にあっても、どんな環境にあっても、どんな集団にいたとしても関係ないのです。その全ての状況の中で、あなた個人に注目してくださっているのです。
神様はあなただけに注目してくださっているのです。

一人の悔い改めが天において、どんなに大きな喜びとなっているのかがわかりましたか。
あなたが悔い改めて救われたときもそうですし、これからまた、一人が悔い改めて救われるときに、そのたびに天において大いなる喜びが沸き起こるのです。
そして、私たちは、その喜びの中にいることができるのです。イエス様の同労者となるなら。。




2.失われていたものの回復

今日は読まなかった11節以降の放蕩息子の話しも含めて、この3つのたとえ話の共通点は、
失われていたもの(羊、銀貨、息子)が見つかり、戻ってきたことをとても喜んだ、ということです。
失われていたものが回復したときに、大いに喜んだのです。

ルカ 19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

失われた人、つまり、悔い改めを必要としている、救いを必要としている罪人を捜す為に、そして救うためにイエス様は来られました。
そして、今もイエス様はそのために来られています。

私たちは、そのイエス様によって捜し出されて、救われたのではないでしょうか。
そして、今もまだ失われた人がたくさんいるのです。
その人々が回復するために、救われるために、イエス様は、必死に捜しておられるのです。
私たちは、見つけ出していただいたものとして、イエス様と共に喜ぶ事ができる特権に預かっているものとして、イエス様と共に捜すものになりたいですね。


結)
イエス様は、あなたを捜しておられます。必死に捜索しておられるのです。悔い改めが必要だからです。
あなたがイエス様の前に出るなら、イエス様はあなたの元へかけよって抱き寄せてくださいます。
そして、あなたを救ってくださるのです。
そのために、イエス様は十字架に架かられました。あなたの罪を身代わりに負って。。
あなたは、イエス様の元へ行き、イエス様を救い主と信じて告白するなら、救われるのです。
「あなた」という存在を本当の意味で回復させてくださるのです。
今日、イエス様を罪からの救い主、あなたの主として信じて祈りませんか。

イエス様は、あなたを救うために必死に捜索されました。そして見つけ出され、悔い改めて救われ、回復させられた人なのです。その時、天では大いなる喜びがわきおこったのです。
そして今もイエス様は悔い改めが必要な人を捜しておられます。
あなたは、自分が見つけてもらい救われたからそれで終りでしょうか。
イエス様と共に悔い改めが必要な人に、イエス様のもとへ導く事ができるのではないでしょうか。
イエス様が捜しておられる事を伝える事ができるのではないでしょうか。
そして、一人の人がイエス様によって、救われ、回復されたなら、天における喜びを地上で一緒に喜ぶことができるのです。
きっと、あなたにできることがあるはずです。それは、あなたが今イエス様によって既に救われて、回復してもらっているからです。

今日、あなたの一歩を踏み出しましょう。