2008/01/27

08.1.27「愛から始まる」

創世 29:9-20
:9 ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。
:10 ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。
:11 そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。
:12 ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。
:13 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。
:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。
:15 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」
:16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
:17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。
:19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。
:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。

序)ラバンのもとに到着したヤコブ
先週の続きで、ヤコブは母リベカの兄ラバンのもとへ旅を続けて、ようやく到着しました。
そして、出会うことができたのです。
そして、そこに滞在し、1ヶ月が過ぎたとき、ラバンはヤコブに提案しました。
「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」と。
そこで、ヤコブは、娘ラケルを愛していたので、ラケルのために7年間仕えることを約束しました。しかし、ヤコブはラケルを愛していたので、その7年もほんの数日のように思えたようです。

今日はこの箇所から、愛から始まるときに大きな力が発揮されることを共に見ていきましょう。


1.愛から始まるとき

ヤコブは、ラケルを愛していたので、7年間もラバンに仕えることができました。
また、それはほんの数日のようにおもわれたのです。


愛から始まるとき、、

①仕えることができる

愛から始まる、愛している、なら、仕えることができるのです。

子供が産まれると、子供に仕える生活が始まります。
ミルクを与え、オムツを替え、風呂に入れ、遊んであげ、掃除、洗濯、、、ありとあらゆることで、子供に仕えます。
でも、親はそれをすることができます。
なぜなら、愛しているからです。
生まれる前から、愛していたからです。
愛から始まっているからです。
そこそこ大きくなったからといって、仕えることが終わるわけではありません。
立派に成長し、大人になるまで、子供に仕えることは続くのです。
勿論、子供が悪いことをして、しかることもあるでしょう。イライラすることもあるかもしれません。
でも、それもこれも、みな子供を愛するゆえです。
愛しているから、仕えることができるのです。

ヤコブは、ラケルを愛していたので、ラケルを妻とすることができるということで、その愛ゆえに7年間仕えることが苦にならなかったのです。
愛から始まっていたので、仕えることができたのです。

イエス様もまた、私たちを愛し、弟子たちを愛しておられたので、仕えて下さいました。
人々を癒し、慰め、励まし、教え、弟子たちの足を洗い、十字架の死に至るまで従順になられ、仕えて下さいました。

愛から始まるとき、愛しているとき、仕えることができるのです。



愛から始まるとき、、

②忍耐することができる

愛から始まる、愛している、なら、忍耐することができるのです。

子供の成長は時間がかかるものです。当然です。
最初の一週間さえ、ミルクをやり、オムツを替え、風呂に入れてお世話さえすれば、あとは放っておいても大丈夫・・・なんてことはありません。
大きくなれば、手が離れてくれて、楽になるなんてこともありません。
それぞれの月齢、年齢に応じて、仕える形は違いますし、大変である内容も違いますが、手が掛かるのです。

ヤコブはラケルを愛していたので、7年間も仕えたのに、数日のように思えたようです。
耐え忍んで長く感じたのではなく、数日のように思えたのですから、ものすごい忍耐力が発揮されたといえるのではないでしょうか。
愛の力はなんと大きいのでしょう。

イエス様は、30歳で自らを公にされるまで、罪人の人々の中で忍耐して、時を待ち続けられました。
3年半といわれているその後の生涯の中でも、弟子たちに対しても忍耐されることもしばしばでした。
また、十字架を担っていかれたときも、架かられた時も、途中でやめることをなさらず、最後まで、その死に至るまで忍耐されたのです。
そして、今もまた、人々が罪の中にいますが、一人でも多くの人が救われるために、全ての人が救われてほしいと願い、忍耐しておられるのです。
それらは、イエス様の愛のゆえです。

愛から始まるとき、愛しているとき、忍耐することができるのです。


結)愛からスタート愛から始まるとき、仕えることができます。
愛から始まるとき、忍耐することができます。
大きな力が発揮されるのです。
実は愛から始まるときに、それだけではなく、いろんな力を発揮することができるのです。

さて、この愛はどこにあるのでしょうか。

ヤコブは、ラケルを愛しました。これは男女の愛です。
特定の人を愛したゆえ、ラケルのために、仕え、忍耐することができたのです。

全ての人に対しては、無理です。
でも、イエス様は私たちを愛してくださっている。そしてそれは、全ての人を愛してくださっているということです。
全てのことを愛から始めるために必要なのは、イエス様の愛です。
イエス様から愛をいただき、イエス様の愛で始めるなら、いろんな力が発揮されるのです。
このイエス様の愛からスタートできるなら、幸いです。

2008/01/20

08.1.20「約束から始まる」

創世記 28:10-22
:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。
:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、
:21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、
:22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

序)主はおられる
ヤコブは、エサウから祝福を奪ったことで、命を狙われるような状況になった。
それゆえ、その家から旅立つこととなった。
イサクはヤコブを祝福して、リベカの兄ラバンの娘たちから妻を迎えるようにと、送り出した。
ヤコブは日が暮れたので、石を枕にして休んだ箇所で夢を見、主の声を聞いた。

ヤコブはおそらく、とても不安なスタートを切ったのではないかと思います。
父イサクが祝福して、送り出されたとはいえ、この旅に不安がなかったとは、いえなかったのではないかと思うのです。
しかし、そんな時、神様は夢の中で語られたのです。
「共にいて、決して捨てない」と。
ヤコブはどれだけ励まされ、慰められたでしょう。
実際ヤコブは、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」
「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」 と言っています。

私たちもまた、不安を持ちながらスタートしたり、進んでいるようなことがあるかもしれません。
それは、信仰に限らず、普段の生活の中であっても、です。
しかし、そんな時に、神様が共におられる事がわかったなら、どんな大きな力になるでしょう。

今日は、そんなヤコブと神様とのやりとりから、共に教えられて、更に神様の御心に歩んでいきたいと思います。


1.神は約束され、成し遂げる方

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

このように、神様は、ヤコブに約束されました。
これは大きな祝福ですね。
アブラハムに神様が与えられた約束、希望にそっくりです。
それはそのはず、アブラハムへの約束はその子孫に対しての約束でもあったからです。
これだけでも、素晴らしいことがわかりますね。神様が約束をされ、そして忘れることのない方であることが。。
ヤコブからすれば、お祖父ちゃんに神様が約束された言葉を孫である自分が聞くわけですから。
それをヤコブが知っていようが知っていまいが、神様はここでもヤコブに約束されたのです。
そして、それを成し遂げると言われています。

神様はあなたに約束なさいます。そしてそれは必ず成し遂げられるのです。
聖書にはたくさんの約束があります。
私たちはそれを神様からの約束として受け止めておられるでしょう。
でも、それは成し遂げられない約束だと思ってはいませんか。
私たちの記憶は不完全ですから、忘れてしまっていることもあるかもしれません。
世の中には、絶対というものは存在しないでしょう。
しかし、神様ご自身が絶対的な存在ですし、完全ですから、その約束を忘れることはないのです。

神様は、約束され、そして成し遂げられるお方なのです。


2.神に約束する

神様は、私たちに約束をされる方で、そしてそれを成し遂げられるお方です。
さて、私たちはどうすればいいのでしょうか。
その約束を成し遂げてくださるのをただ待っていればいいのでしょうか。

ヤコブは、神様が現れ、約束してくださったとき、このようにしました。

それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

ヤコブもまた、神様に約束したのです。
これは、神様に対する応答でしょう。

私たちは、目標を立てます。これは、自己実現のためでしょうか。
それであるなら、信仰は不要です。また、虚しいものとなるでしょう。

神様が私たちに約束し、成し遂げてくださると知っているから、それに応答して、そのために自分ができることを目標とするのではないでしょうか。

もし、自分の目標を実現するために神様に祈っているとするならば、それは、自分の欲のために、神様を利用しているに過ぎないのです。それは、神様の前に正しい姿勢といえるでしょうか。

神様が私たちに約束してくださっていることの実現を見る為に、私たちもまた神様の前にその信仰を表すために目標を立てるのであるなら、それは幸いですし、素晴らしいことです。

神様は私たちに約束をされるのです。そして、私たちは実現を見る為に、目標を立てるのです。
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と約束をされたなら、何もせずに、「主よ、早く家族も救ってください。私待ってますから。。」と何もしないでいいのでしょうか。
たとえ、何もしなくても、神様は救うことができる方です。
しかし、神様がそのように約束されたなら、私たちは「ありがとうございます。では、私にできることは何でしょうか。神様が家族をも救ってくださるのですから、私もあなたに何かしたいのです。」という反応が神様の前に正しい反応だと思うのです。
「家族の救いのために、毎日祈ります」
「家族に仕えます」
と自分にできることを神様の前に応答されるでしょう。
それが目標だと思うのです。

勿論、神様に約束したからといって、それができなかったからということであなたが誰かから攻められることはありません。それはあなたと神様との関係で祈ればいいことです。
悔い改めることであるなら、神様の前に悔い改めましょう。再度チャレンジするように示されるなら、祈って再チャレンジすればいいのです。

神様からの約束は受け取っても、神様に約束はしないというようなことをしていないでしょうか。
もう一度、確認してはどうでしょうか。

結)約束から始まる
ヤコブの旅は、ベテルからスタートしたといってもいいのではないでしょうか。
神様からの約束と、神様との約束から始まったのです。
その約束があったから、その後の人生もまた、歩んでいけたのだと思うのです。

私たちもまた、神様からの約束を受け取りましょう。
そして、神様と約束しましょう。
そこに信仰生活の素晴らしい実りが実現していくのです。
神様から約束を受け取り、神様と約束することができるよう、祈るなら幸いです。

2008/01/13

08.1.13「祝福から始まる」

創世記27:1-17-41
:1 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。
:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。
:3 だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
:4 そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」
:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、
:6 リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
:7 『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』
:8 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。
:10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
:11 しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。
:12 もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」
:13 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」
:14 それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。
:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、
:16 また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。
:17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。
:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。
:19 ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。
:20 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」
:21 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」
:22 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、
:24 「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。すると答えた。「私です。」
:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
:26 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、
:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。
:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。
:29 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」
:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。
:31 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」
:32 すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」
:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」
:34 エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」
:35 父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
:36 エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
:37 イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」
:38 エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。
:39 父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。
:40 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」
:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」


序)求めるとき
以前、TDLに行った時の話です。
ミッキーやミニーが現れるときがあります。
するとたちまちそこには人だかりができます。
みんな一緒に写真を撮りたいからです。誰も順番に並ぼうとはしません。
我先に・・・と大変な状況になります。
バーゲンとか福袋とか、そういうときにもそういう光景を見ることがありますね。

人は自分が何かを得たいと求めるときに、なんとかしてそれを得ようとして必死になったり、あるいは奪ったりしようとします。

今日は、この箇所から、イサクを通して与えられようとしていた神様の祝福について、その家族の出来事から共に教えられたいと思います。


1.祝福を求めて

イサクはエサウを祝福しようと考えました。
しかし、それを聞いていた妻リベカは、イサクの祝福をヤコブに受けさせようとしました。
そして、見事その作戦は成功し、ヤコブはイサクから祝福を受けました。
その後、エサウがイサクのもとに戻ってきて、ヤコブがイサクを騙して、その祝福を受けたことがばれました。
そして、エサウは、そのことで、父イサクが死んだら、弟ヤコブを殺そうとまで思うようになっていったのです。

祝福を求めて、命までもかけるような出来事が起こったのです。
現代で言えば、遺産相続争いとでも言えるでしょうか。

実はここでは、リベカの存在が大きな意味を持っています。

創世 25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。

エサウとヤコブは双子でした。リベカはその子が胎内にいるときに、主の言葉を聞いていました。
それが、「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」 という言葉です。

つまり、兄エサウは、弟ヤコブに仕えるという預言的な言葉でした。
ですから、リベカは、その為には神様の祝福が必要不可欠であると考えていたのかもしれません。
だから、イサクがエサウを祝福しようとしたときに、すかさず、ヤコブが祝福されるようにこのような行動に出たのかもしれません。

そして、実際にヤコブの生涯は、祝福されて行きます。
騙してまで得た祝福であったとしても、神の祝福はヤコブと共にありました。
この出来事は、ヤコブの生涯にとって非常に大きな意味を持つものであったのです。
いや、その後の子孫にとってもとてつもなく大きな意味を持つものであったのです。
それほど、神様の祝福というのは偉大なものであることがわかります。


2.目に見えないもの

さて、イサクがヤコブに祈ったその祈り、祝福は目に見えないものです。
遺産相続であるなら、実際に物であったり、お金であったり、目に見える形で受け継がれます。
しかし、目に見えないものであるのに、命をかけてまでそのような行動にでたのです。

イサクの言葉にその意味が見て取れます。

:35 父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
:36 エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
:37 イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」
:38 エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。

目に見えないものであり、その言葉で発するならば、祝福の言葉を語ることはできたはずです。
それでも、それはもうないことを言っています。

イサクもリベカもエサウもヤコブも知っていたのです。
その祝福は口先だけのものではなく、そこには本当に神様の存在があることを。。

私たちが祈るとき、それは口先だけになっていないでしょうか。
イエス様の御名によって祈る祈りは、そこに神様が存在されるのです。
だから、聞かれるのです。もちろん、それは私たちにその信仰があるならば・・です。

目に見えないものだからといって、軽視してはならないのです。
逆に、目に見えるものよりも偉大なものだからです。
私たちもまた、目に見えない神様を信じており、その方を信頼し、その方に礼拝をささげ、その方に祈り、その方を愛しています。
そして、実際にそこには大きな力が働いています。そうです。そこに神様が存在されるからです。

ヤコブもそのことを知っていたので、その生涯で神の祝福を受け継いだものとして、祝福を現実に受け、そしてその子孫にまで影響していったのです。


私たちもまた、神様の祝福の偉大さを認識し、その祝福を受ける生涯を送りたいですね。


結)祝福からはじめる神様の祝福は目には見えないものであるかもしれません。
しかし、その祝福を受けてスタートするならば、それはなんと素晴らしいことでしょうか。
年の初めに、週の初めに、日々の初めに、神様からの祝福を受けておられるなら、それはあなたが思っている以上に素晴らしい大きな意味をもつものであることを知りましょう。
──────────────────────────────
そして、その最大の祝福であり、恵みは、魂の救いです。
人はみな罪人です。それは私もあなたも例外はないのです。
罪とは、神様を認めず、そのお方に背くことです。
それは、積極的に神様に反論し攻撃することだけでなく、
消極的に無関心で神様に向こうとしないこともです。
しかし、その全ての罪人のために、イエスキリストは十字架にかかられ、その罪を身代わりに受け、罰を受けてくださいました。
私の、あなたの身代わりとなって・・です。
この方を自分の罪からの救い主として受け入れるなら、あなたはその罪の赦しを受けることができます。そして、その魂が救われて、その死後に用意されている裁きから救われ、天国に行くことができるのです。
──────────────────────────────
この大きな祝福を受けてスタートしたクリスチャン生活もまた素晴らしいスタートを切っているのです。
それもまた、目には見えない救いでしたが、大きな意味を持つものです。

是非、年の初めの月、神様の祝福を十分に受け取ってスタートしたいですね。

2008/01/06

08.1.6「希望から始まる」

新年 あけましておめでとうございます

創世12:1-8
:1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

序)希望を与えられる主お正月休みはいかがでしたか。既に仕事が始まっている方もいらっしゃるでしょうが、正月ボケは抜けましたか。
正月前は、お正月が楽しみでわくわくしていた方もおられるかもしれませんね。
夏以来の長いお休みだし、正月でおいしいものも食べられるし、ゆっくり寝てられるし、初売りや福袋が楽しみだったり、お出かけだったり、、、高校サッカー、同窓会、、、
それらが楽しみで、その時が来る前はとても嬉しいものです。
みなさんは、遠足の前日とか、旅行の前日とかにわくわくして眠れないという経験はありませんか。何か楽しみなことがあるとその日に心が向いて、楽しみになりますよね。同じようなことなんじゃないかなと思います。

このように何か楽しみなことがあると人は前に進めるものです。
それは「希望」ということもできるでしょう。
そこにはいろんな期待感があるからかもしれませんね。

アブラム(のちのアブラハム)は、主から素晴らしい希望を与えられました。
それは、
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
というものです。

先ほどのたとえのような小さな「楽しみ」というレベルの低いものではなく、その人生を変えるほどの大きな「希望」です。

私たちもまた、新年を迎え、主から希望を与えられてスタートしたいですね。
私自身まだ、今年のことについて祈っている途中ですが、主は御言葉を通して希望を与えてくださると信じています。
既に与えられている方もいらっしゃるでしょうし、以前から与えられている希望を今も持っておられる方もいらっしゃるでしょう。

今日は、「希望」が与えられた私たちがなすべき行動について、アブラムのこの箇所から、共に教えられていきたいと思います。


1.踏み出す。

:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。
アブラムは、その希望を持って、生まれ育った故郷を踏み出したのです。

私たちは、希望に向かって、まずは踏み出さなくてはなりません。
そうしないと何も始まらないのです。

昨年のクリスマスには、Yでの2年目のクリスマス会を持ちました。
これも、子供たちやそのお母さんたちにクリスマスの本当の意味を知ってもらいたい、福音を伝えたい、という希望を持ったことからスタートしています。
クリスマス礼拝になんとかたくさんの未信者にきてもらって、福音を伝えたい。クリスマスというチャンスに福音を一人でも多くの人に伝えたい。そのような希望を持ったことから、クリスマスパーティを持つことができました。
そして、実際にそれは実現することができました。
そこに共通することは、その「希望」のために、まず1歩踏み出したということです。

Yのクリスマス会では、E姉妹がそのお母さん方に普段の交わりの時に、声をかけてみることをされました。実際に準備しました。祈りました。誘いかけをしました。
クリスマスパーティでは、実際に企画をし、準備をし、祈り、誘いかけをしました。

その「踏み出す」という行動をスタートさせたときに、その希望に近づきはじめたのです。

出エジプトのとき、モーセは主が言われたとおりに、その杖をあげ、紅海に向かって、手を振り下ろしたときに、その水は分かれて、乾いた地を民たちが渡ることができました。
また、ヨシュア達、イスラエルの民がヨルダン川を渡るときに、その祭司たちの足がヨルダン川に踏み入れられたときに、その上流からの流れはそこでせき止められ、民はみな渡ることができました。
これらもまた、主の言葉(希望)に向かって、踏み出したときに、行動を起こしたときに、その実現に近づいた出来事です。

希望が与えられた私たちがどうすればいいのか、それはまずその希望に向かって「踏み出す」ことです。
今、与えられている希望に向かって踏み出していますか。
今年与えられた、あるいは与えられる希望に向かって踏み出していきましょう。


もう一つは、、

2.祭壇を築く。

:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

アブラムは、祭壇を築き、主の御名によって祈りました。

主の希望に向かって、踏み出した私たちはそのまま突っ走ってしまうのではなく、絶えず主の声に敏感になる必要があります。
アブラムもまた、カナンの地で「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」という声を聞きました。
いつも、主の声を聞き、主が望んでおられることを悟って、進み続けることが必要なのだと思います。
昨年のクリスマスの行事についても、今後、どのように導かれていくのか、主の声を聞いていく必要があると思っています。
主が始めてくださったことですから、主が完成させてくださると信じていますが、主の声を聞くことは重要です。

モーセもヨシュアも最初に聞いただけであとは主の声を聞かずに進んでいっただけではありません。
絶えず、主の声を聞き、それに従っていったのです。

そして、それにはもう一つの意味があると思います。
主に信頼する、主に委ねる、という意味です。

希望が与えられて、行動を開始したとしても、自分の力でそれを成し遂げようとしてはならないのです。
勿論、私たちは自分のできることを精一杯するでしょう。それは素晴らしいことです。でも、それは自分の力でするということではなく、自分に与えられた力を主に捧げるということです。
そして、絶えず主に信頼して、希望に向かって進んでいくのです。

今年の教会のいろんな計画もまた、主から与えられた希望として、行動をスタートし、主に信頼して、進めて行きたいですね。

「祭壇を築く」とは、主の声を聞き、主に信頼することです。


結)完成者は、イエス様。
私たちは、主から希望が与えられます。
そして、その希望に向かって、まずは踏み出します。
そして、その実現に向かって、主の声を聞き、主に信頼しつつ、前進していきます。
その実現は、短期間で見ることができるものもあるでしょう。
あるいは、長くかかるものもあるでしょう。
しかし、それを完成して下さるのは、イエス様です。

だから、私たちはまだ実現を見ていないからといって、自分を責める必要はありません。もし、反省すべきがあるとすれば、自分が踏み出していないのではないか、主の声を聞いていないのではないか、主に捧げられていないのではないか、主に信頼できていないのではないか、と問うてみましょう。
また、あきらめてはなりません。主が始められたのなら、主は必ず完成させてくださる方だからです。

ピリピ 1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

ヘブル 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

希望を与え、それを実現される完成者であるイエス様に今年もしっかりと目を向けて前進する一人一人でありたいと願います。