2008/02/24

08.2.24「神につく人」

1コリント 3:1-9
:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
:4 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
:5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
:8 植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。


序)誰かにつく?
プロ野球ではドラフト会議というものがあります。
それぞれの選手は希望していた球団から指名されたり、そうでなかったり、といろいろあるようです。
高校生ルーキーのN選手は、どこでも行くと言っていたのが記憶に残っています。
結局、Nハムになりました。
皆さんはどこかのファンですか?
私は○○を応援している。誰のファンだ。
といろいろとひいきにしているところもあるかもしれません。
中には、アンチ○○という人もいたりします。

別にそれらは、あなたの人生を変えるわけではありませんから、何ら問題ないです。
勿論、人生をその応援にかけて、財産を全て投げ打って、それらに投じるなら、問題かもしれませんが・・。

でも、私たちはどこかをひいきにしたり、何かに望みを置いたり、だれかについていきたいと思うこともあるでしょう。
しかし、それらが人生に関わることであるなら、とても注意が必要です。

今日は、お読みいただいたところから、
私たちが「人に」つくのか、「神に」つくのか、
その違いをみて、主から個人的に教えていただきたいと思います。


1.人につく・・・肉に属する人

私はパウロに、私はアポロに・・・といっている人々がいたようです。
これらの人は肉に属している人でした。

私は○○先生に、私は○○派に、私は○○教団に、私は○○さんに・・・。

それらは、肉に属する人が取る行動ですし、発言することのようですね。
人間的なレベルでの話しです。

先程のプロ野球だとか、Jリーグだったり、では、人間的なレベルで当たり前です。
カリスマ的な存在だとファンもつくでしょう。
それらは別に構わないのですが、
こと、信仰に関しては、人生そのもの、いや永遠にまで関わってくることなのですから、そうはいきません。

人気のある先生や教会、そういうことも実際はあります。
でも、それが最初の入口にはなっても、本来の信仰がそのままであってはいけないのです。

:5に、
アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
とあります。

人が信仰に入るために用いられたり、その信仰の成長の為に用いられたりすることはあるようですね。
でも、その「人」につくことは聖書は警告しているのです。

ここのみなさんは、別に私のファンじゃないでしょうから、安心してますが(笑)

でも、気をつけないといけないのは、
私は、「○○先生ではなく、△△先生につく」という信仰があるなら、それは間違いです。
それは人間的なレベルであり、肉に属する考え方です。

また、肉に属するとき、ねたみや争いがある:3とあります。
まさにそれは、サタンからきていることだと言えますよね。
肉に属する時、そこからサタンが入り込んでくる危険が非常に大きいといえます。

人につく、肉に属することのないように気をつけて目を覚ましているものになりたいですね。


では、私たちは何につけばいいのでしょう。


2.神につく・・・御霊に属する人

:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

神につく人は、神様が自分を成長させて下さることを知るのです。

ある人に植えてもらうかも知れません。
ある人を通して、水を注いでもらうかも知れません。
でも、成長させて下さるのは神なのです。


子供達が毎年、夏休みにいろんなものを持って帰ってきます。
それは、1学期に種を植えたり、水を注いだりして、持って帰ってくるのです。
朝顔だったり、ミニトマトだったり、、、
その種を植えたのは、人でしょう。
そこに水を注いだのも、人でしょう。
でも、成長させるのは、人ではないですよね。
神を信じない人は、それを「自然の力」だと言うかも知れません。

その自然の力はどこから来ているのか、
それはまさに神様からきているのです。
成長させて下さるのは神なのです。


私たちは、誰かを通して植えられたかも知れない、だれかを通して水を注がれたかもしれない、
でも、成長させて下さっているのは神なのです。
植えた人や注いでくれた人に感謝はしても、拝んではいけないように、
人につくのではなく、「神」につくことを聖書は語っています。

どんなに立派な人であっても、
どんなにカリスマ的な人であっても、
どんなに大きな教会を開拓した牧師であっても、
どんなにすごい奇跡をする伝道者であっても、

その人々は、所詮「人」なのです。

その人についていったからといって、救われる保証もなく、正しいとは限りません。
それは所詮、肉に属することだからです。


余談かも知れませんが・・・・・
これからの時代、確実に終わりの時代へと近づいています。
いや、入って来ているかも知れません。
だからこそ、ますます「人」が強調されることもあるかもしれません。
これは、終りの時代に「反キリスト」があらわれることの預言からもわかります。

反キリストという言葉には、「キリストの代わり」
すなわち、キリストの代用品という意味あいがあります。
キリストという言葉や、神という言葉を使いながら、
その実、キリストと異なる者というニュアンスがあるのです。

ですから、ますます「人」が強調される時代にあって、その注意をすることは私たちに求められるのです。

聖書のこの時代では、パウロやアポロは特別な人だったと思います。
12弟子やその後に続いた多くの使徒的な人々は今で言えば、
大伝道者かもしれません。
奇跡やしるしを聞きますし、多くの人がついていっています。
でも、これは実は大変危険なことであることをぜひ心に留めていただきたい。

「人」が注目されるのは、聖書の時代も今も同じなようです。

だから、聖書のこの時代のこの出来事についても、それらは肉に属することであって、
御霊に属する人、すなわち神につく人になるように書かれているのです。


結)大切なのは成長させて下さる神です。
大切なのは成長させて下さる神様だけです。

みなさんも私についているわけでもなく、
教会についているわけでもなく、
神様についている一人一人であるという信仰を大切にして下さい。

最初のころから私はお話ししていますが、
この教会を大きくして、人がいっぱい集って、成長させたいとは思っていません。
私の願いは、ここで人が救われるきっかけになったり、救われたり、
神様に癒されたり、成長したり、回復したりしていかれることです。
その後、その人々が他の教会で信仰生活を送ることになったとしても、その人にとってそれが一番神様の前に恵まれた信仰生活を送られることになるなら、大きな喜びです。
教会が1000人になったとしても、その人達がもし私についてきているなら、私は悲しいと思います。
教会が1000人になるよりも、
1000人の人がオアシスチャーチを通して、救われたり、回復したりして、
生涯イエス様と共に歩む人生を送っていかれて、
私が地上の生涯を終える時に、オアシスチャーチが私の家族だけであっても、
その方が私にとっては、喜びです。
教会の人数が増えることは神様がされることだと思っています。

大切なのは、成長させて下さる神だからです。

人につく肉に属する人であるなら、神様につく御霊に属する人へと成長したいですね。
神様につく御霊に属しているなら、神様につき続けましょう。

2008/02/17

08.2.17「愛によって動かされる」

使徒 20:7-12
:7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
:8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。
:9 ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
:10 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。
:11 そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。
:12 人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。

序)受けた人は動かされる。
阪神大震災から10年以上たっていますが、その震災の時には多くのボランティアが被災地へ援助へ行かれました。
その後、北陸でロシアのタンカーの座礁で重油が海岸に漂着した時や、いろんなところでは地震や天災の時に、阪神大震災の被災者がボランティアとして参加されたというニュースを何度か見たことがあります。
そのインタビューを聞くと、阪神大震災の時にたくさんのボランティアに助けてもらったから、今度は自分達が助ける番だと思った、という話しをよく聞きました。

人は、何かを受ける時に、何かをしてあげたい、という行動へと動かされるのだと思いました。

心に何かを受ける時に、心が動かされるんですね。

今日、聖書から、神の愛に触れ、神の愛を受けて、心動かされた出来事を通して、共に教えられていきたいです。

1.神の愛によって

★神の愛に触れ

★神の愛を受け

★神の愛に動かされる。


パウロは、翌日出発することになっていたにも関わらず、夜中まで、明け方まで語り続け、話合ったとあります。
普通、出発する前夜は早めに寝て、備えるものです。
しかし、パウロは、違いました。
翌日に出発だから、もうこれで今度はいつ会えるか、もしかしたらもう会えないかも知れない、だから、出発までの時間を語り合い、交わったのです。
ここには、この人々を愛するパウロの心が見えます。
神と人を愛する愛によって、最後の時間まで捧げたのだと思うのです。


パウロもまた、神の愛に触れ、神の愛を受け、神の愛によって動かされた人だったのでしょう。

使徒9には、サウロがまだクリスチャンを迫害していたところから、イエス様に触れられて、変えられていった記事がかかれてあります。
サウロは、クリスチャンの殺害に賛成し、また、そういう人々を牢にいれるために探し回って、教会を荒らしていた人物でした。
その為にダマスコへ向っている途中での出来事です。

使徒 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
:12 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

サウロは、イエス様に打たれて、命を落とすような裁きを受けても仕方のないことをしていたと思ったかも知れません。
でも、イエス様はそんなサウロをも愛し、アナニヤを遣わして、選び、生かし用いられたのです。
サウロは、主の愛に触れたのでしょう。
また、アナニヤがサウロのもとに来た時に、「兄弟サウロ・・・」と言いました。
サウロは自分がアナニヤのような人を迫害していることをアナニヤは知っているにも関わらず、
「兄弟・・」と呼んで祈ってくれた。
そこに主の愛を感じたでしょう。
この記事は、サウロがイエス様の愛を最初に受けた、その愛に触れた出来事だったのでしょう。

その愛を受けて、サウロは神と人を愛する人へと変えられていったのだと思うのです。
だから、このように翌日に出発するというような時でさえ、心が動かされて、
最後の最後まで、今できることによって、愛したのでしょう。


また、アナニヤもこの記事でわかるように、「兄弟サウロ」という前には、主の促しに対して拒んでいました。
しかし、主の愛を受けていたので、最終的には、その愛によって、心動かされて、愛によって動かされて、サウロを愛したのだと思うのです。


また、ルカ19章では、ザアカイという人が登場します。
ザアカイもまた主の愛に触れられた一人でした。

イエス様がエリコを通られた時、そこにいたザアカイにイエス様は声をかけられて、家に泊まられました。
ザアカイは取税人で、嫌われていました。
そのザアカイの家に、あのイエス様が泊まるといわれた。
そして、実際にそうされた。
ザアカイはきっと、イエス様と交わり、話しを聞き、イエス様の愛に触れ、イエス様の愛を体験したのだと思うんです。
そして、ザアカイはいいました。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

施しますといったことも素晴らしいですが、「私が騙し取った物は・・・」と罪の告白もし、その悔改めの実を結ぶ告白までしていますよね。

ザアカイもイエス様の愛を受け、心動かされて、変えられていった一人でした。
そして、貧しい人達を愛するという、ザアカイにとって今できることを告白したのです。

神様の愛に触れ、愛を受ける時、心が動かされて、神と人を愛することへと行動できるようになるのです。


さて、使徒7章では、ステパノという人が出てきます。

このステパノは、イエス様によって変えられて、主の恵みと力に満ち、知恵と御霊によって語っていた人でした。
そのステパノが偽の証言によって、議会にひっぱっていかれて、弁明を求められ、聖霊に満たされて、語った行った時、
人々が煮えくり返る思いで、ステパノを町の外に追い出し、石で打ち殺したのです。
しかし、ステパノはこの時、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。

「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。とあります。

正しいことをしているステパノが自分が殺されようとし、まさにその真っ最中に、この言葉を言ったのです。
自分を殺している人を愛しているのです。
神様の愛に触れ、その愛を受けている人はなんと強いのでしょうか。

神の愛に触れ、神の愛を受けて、心動かされることは本当に大きな力となるのです。


このステパノと同じような情景を思い出されませんか?

結)そうです、イエス様の十字架です。

イエス様もまた、偽りの証言で議会にひっぱってこられ、最後は人々が扇動されて、イエス様を十字架へ・・・となりました。
しかし、イエス様はその十字架につけられている時に、
「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは何をしているか知らないでいるのです」と祈られました。

神は愛です。
イエス様はまさに愛そのものです。
ですから、イエス様は人々を愛し、私たちを愛し、その愛によって行動され、私たちを最後まで愛しとおされた方です。

私たちは、神様の愛に触れ、愛を受ける時に、愛によって動かされていくのですが、
その根源はイエス様です。

イエス様はその愛そのものですから、受けるも何も、その愛によって愛して下さったのです。


私たちは、パウロやザアカイやステパノや多くの聖書に人々、また信仰の先駆者達のように、
神の愛に触れ、神の愛によって動かされるものになりたいですね。

愛がなければ一切は無益である。とコリント1にあるように、
私たちの行動は、神様の愛によって動かされたものとなるよう、
イエス様の愛にもっともっと触れて、もっともっと受けて、
その愛によって動かされて、行動するものになりたいと思います。

2008/02/10

08.2.10「全ては主の御手の中で」

使徒 10章(:1-23)
:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンとう人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。:18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。:19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。:20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」:21 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」:22 すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」:23 それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。

序)素晴らしい御業のプロセス
24節以降で、ヨッパからカイザリヤに到着した一行は、コルネリオのところに、親族や親しい友人が集まっているのを見ます。そして、事の一部始終を聞き、全ての出来事がペテロの中でつながりました。
そして、そこで、福音を語り始めたのです。
すると、その途中で聖霊が聞いている人々に下って、その後、全ての人がバプテスマを受け、救われたのです。
この素晴らしい御業が起こった背景に何があったのでしょうか。


1.主につながる信仰

コルネリオやペテロの記事に中に共通点があります。
それは、神に祈りをしていたことです。

コルネリオは、「いつも神に祈りをしていた」人でした。午後3時の祈りもいつもしていたようです。その祈りの中で御使いが現れてメッセージを語ったのです。

ペテロもまた、「祈りをするために屋上に上った」時に、夢心地になって幻を見たのです。
その幻は、すぐにはペテロには理解できない出来事でした。
でも、それはやがてわかるのですが、神様からのメッセージだったのです。

二人とも、神に祈るために時間をとっている人でした。そして、その祈りの中で神様がメッセージを送られたのです。

ペテロの場合は、お腹が空いて夢心地ということですから、眠ってしまって夢を見たのかもしれませんが、それでも、その夢で主がメッセージを送られたのですが、ペテロの心は神様に向いており、神様のことをいつも思っていたのでしょう。

祈りの時間をとっている。神様に心を向けている。また、そのことを優先している。
これらは、神様につながっているといえますね。
つまり、神様につながる信仰を持っていたのです。
その時に、神様からのメッセージが届けられたのです。

私たちは神様につながる信仰を持っているでしょうか。
今日、礼拝にこられたあなたは、持っておられるから、来られたのでしょう。
聖書を読むのは、祈るのは、神様につながりたいから、つながろうとしているから、つながっているから、、、ですね。

神様につながる信仰は大切です。
枝が木につながっていなければ、実を結ぶことはできません。
しかし、木につながっていれば、自然と実を結ぶのです。
実を結ぶ為にがんばる必要はないのです。つながることに努力することはあっても。。
私たちは枝です。イエス様は木です。枝は木につながるのです。その時に実を結ぶのです。

コルネリオもペテロも木である神様につながる信仰の持ち主でした。
だから、10章の最後には、素晴らしい実が結ばれたのです。

主につながるものになるなら、本当に幸いです。


さて、主につながっていれば、あとは何もしなくてもいいのでしょうか。

2.行動する信仰

コルネリオは、いつも祈っていた、そのある祈りの時にメッセージを受け取りました。
するとすぐに行動に移したのです。

:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ・・

しもべと兵士を呼び寄せて、事の次第を話し、ペテロがいるとされている場所へと遣わしました。
また、ペテロが来るという確信のもと、親族や親しい友人を呼び集めることも始めたのでしょう。
だから、ペテロをやってきたときには、みな集まって主の言葉を聴こうと待ち望んでいたのです。

ペテロもまた、夢の中で幻を通して、メッセージを受け取ったときに、ちょうど遣いの者やってきて、コルネリオのもとへ向かいました。
ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことでしたが、神様からのメッセージを受け取っていたので、それに従い、行動したのでした。

勿論、他にも、コルネリオに言われて、ペテロのもとへ向かったしもべや兵士の行動もありました。コルネリオから呼ばれて、集まってきた親族や友人の行動もありました。いろんな人が行動したことで、カイザリヤでの多くの人の救いという御業が起こったのです。

また、コルネリオは御使いが語ったからといっても、本当にペテロをいるのかどうか疑うこともできたのです。また、遣わされたしもべや兵士もコルネリオの言葉を信じて、いるかどうかもわからないヨッパに行くことに疑問をもたなかったのでしょうか。カイザリヤからヨッパまでは約50kmほどあります。車も電車もない時代です。
コルネリオから呼ばれた親族や友人たちも、本当にいるのか、いたとしても来るのかわからないペテロを待って、集まることに疑問は持たなかったのでしょうか。

ここにコルネリオやその人々の素晴らしい信仰を見ることができます。
神が語られたことが必ず成るという信仰、神様を本当に信頼し、神様に委ねる信仰があったのでしょう。
だから、行動することができたのです。

ペテロもまた、律法を知るユダヤ人だったわけですから、自分が見た夢、幻だけで、律法に反してまで、行動することにはリスクがあったかもしれません。
それでも、行動したのです。ここに神様に対する信頼の大きさが見えます。

この行動があったから、素晴らしい救いがそこに実現したのです。

主につながるだけでなく、そこで示されたことを行動に移していくときに、神様の素晴らしい業を目の当たりにするでしょう。


結)全ては主の御手の中で
コルネリオ、遣わされたしもべと兵士、ペテロ、集まった親族や友人、それぞれは、打ち合わせて時間を決めて行動したわけではないでしょう。
しかし、タイミングも全てばっちりです。
ここには、偶然を越えたものがあります。
それが神様の御手です。
脚本家がいて、演出家がいて、監督がいて、役者がいて、一つのドラマが完成するように、神様が全てをご存知で、その御手の中で全てが支配されて、そして、全ての人がその神様とつながって、その通りに行動したときに、完成した素晴らしい出来事でした。
主の御手の中の業はなんとすばらしいのでしょう。
そして、私たちもまた、神様につながり、神様からのメッセージを受け取って、行動するときに、私たちの人知をはるかに超えたところで、全てがつながり、神様の御業をみることができるのです。
主の御手の中で、生かされたいですね。
そのためにも、神様につながりましょう。そして、行動するものとなりましょう。

2008/02/03

08.2.3「律法を完成する愛」

ルカ 14:1-6
:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
:2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。
:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
:6 彼らは答えることができなかった。


序)この箇所は、ある安息日のイエス様の言動についてかかれてあります。
安息日というのは、モーセの十戒にも出てきますが、

出エジプト 20:8-10
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・

という箇所に根拠をおいています。
この日は神様の前に聖なる日として、すべての仕事をしてはいけない。休みなさい。という日です。

ですから、この安息日に、仕事をすることは律法すなわちモーセの十戒を破ることになりますから、それは罪を犯すことだと考えられていました。

そのような安息日の出来事です。
パリサイ派というのは、その律法に詳しく厳格にこれを行っている人達を意味するのですが、その指導者の家で、イエス様の目の前に水腫という病気の人がいました。
律法の専門家やパリサイ人たちは、イエス様が安息日にこの病気の人をどうされるのだろうか・・・と見ていたのです。

もし、いやされたなら、安息日を破ることになるから、イエスを罪人呼ばわりしようと思っていたのでしょう。

しかし、イエス様は聞かれました。
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と。
でも、彼らは黙っていたのです。

そこでイエス様はその人を抱いていやし、帰されたのです。
そして、こう言われました。
「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
それに対して、彼らは答えることができなかったのです。


イエス様は律法を破られたのでしょうか。
そうではありません。
律法を全うされたのです。

イエス様と律法の専門家・パリサイ人、この両方から今日、教えられたことを分ち合いたいと思います。


1.黙っていた律法の専門家・パリサイ人

みんながじっとイエスを見つめていた、とあります。
これは、イエス様が「安息日を覚えてこれを聖とせよ。なんの仕事もしてはならない。」という律法を破って、病人を癒すという仕事をするんじゃないだろうか・・・と「じっと」見つめていたようです。

この種の人達は、人の悪いところ、過ちやスキャンダル等を見つけることが得意のようです。

人間関係の中で、人の悪いところを見つけてそれを指摘していたら、どうでしょう。
関係は悪くなりますよね。
そんなことばかりの中では、いい関係も育たないし、人も育ちません。
本当のその人を知ることもできません。
もちろん、よくないところを嘘ついていいところのように言っているのもどうかと思いますが。。

この種の人達はイエス様のいいところよりも、悪いところがないかどうかを必死にみつけようとしていたようです。
だから、イエス様がどんな方なのか、その本質をみることができなかったのです。
これは、律法には詳しかったかも知れないけれど、その本質をみることはできていなかったといえるのではないでしょうか。。


では、イエス様はどうでしょう。


2.癒しをなされたイエス様

イエス様は、律法の専門家・パリサイ人に質問もされたし、実際に水腫の人を癒されました。
一見、安息日に仕事をしてその律法を破られたように見えるかもしれません。
でも、そもそも律法とは何か。

マタイ 22:36-40
:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:38 これがたいせつな第一の戒めです。
:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

とあります。
律法とは、「神様を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。」
という言葉に集約されているのです。

イエス様の行動は、その水腫の人を愛した行動です。
仕事をしたら、律法を破ることだから、そんなことをしたら、神様が怒るのか?
そうではないです。神様もその人を愛しておられるから、同じ思いになられたに違いないと思うのです。

モーセの十戒を見てみると、
・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
・安息日を覚えて、これを聖とせよ。
・あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
・あなたは殺してはならない。
・あなたは盗んではならない。

愛しているなら、これらのことはしないでしょう。

愛は律法を完成させるのです


ある小学校のミニバスケットチームは、すごく強いチームでした。
全国優勝経験もありました。
しかし、あるときこんなことがありました。
・・・優勝候補だったその年も順当に勝ち進んでいたのですが、ベスト4で敗退しました。
子供達はまさかの敗退に呆然としてベンチに引上げてきたのです。
その時、監督が怒声を上げて、選手たちの頭を叩きました。
それをある記者が取り上げて、「暴力監督」「負けたからといって小学生の選手に体罰」というようなことで取り上げられました。
この監督に対して、教育委員会は世間体を気にして、解任しました。
でも、実はこのことにはこういう事実があったのです。

普段から強くなることよりも、子供達のことを考え、試合に勝っても、傲慢な人間にならないように、相手を思いやれる、尊敬できる、強く礼儀正しい人間になるように指導してきた監督でした。
ですから、試合前後の挨拶や先輩に対する尊敬や後輩に対する配慮など、人間的に成長するように指導されていたのです。
この試合の時も、選手たちはまさかの敗退に呆然としてしまって、試合後に相手チームに挨拶するのも忘れてベンチへ帰ってきたので、監督は「負けたからといって、挨拶もできんのか。試合をしてもらった相手チームにちゃんとお礼を言ってこい!」と叱って、挨拶させにいったのでした。
当然この後、負けた選手達を試合の勝ち負けだけじゃない大切なことを話し、子供達はまた大好きなミニバスを練習したのです。
そして、このことに小学生の選手もその親も誰一人クレームひとつつけておらず、逆に解任になった監督をしたって、
「もう一度、監督になって教えてほしい」とまで言ったそうです。
厳しいけど、その奥にある本当の姿、本当の愛をちゃんと見極めていたのは、子供達でした。

本物の愛は、ちゃんと伝わるのです。
本物の愛は、心に届くのです。


残念なことに、律法の専門家もパリサイ人もその律法の本質を見つけられずに、その表側だけを知識として貯えていたようです。

私たちは、本当の律法の本質を見、イエス様の本物の愛を見極め、互いに愛し合い、助け合い、支え合い、赦し合い、神様を愛し、成長する人生を歩みたいですね。

今日、そのような歩みを一歩踏み出すことができれば幸いです。