2007/09/30

07.9.30「あなたを生かす個性」

マタイ 14:22-33
:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。


序)個性は人それぞれ・・
人には、それぞれ個性があります。
それは、神様が与えられたその人のオリジナルなものです。
外見もそうですし、内面にも言えることです。
今日は内面についての話しですが、神様の前にいい面、用いられる面、喜ばれる面もありますが、
用い方によっては失敗したり、神様の前にふさわしくない時もあるでしょう。
でも、個性は個性ですから、それがいいとか悪いというものではないのです。
神様の前にどう生かすことができるか、ペテロの個性を通して、自分の個性についても神様の前に祈ることができれば幸いだと思います。


1.ペテロの個性・・・大胆さ

ペテロは、この状況で「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 といいました。
大胆ですね。

いくらそんな状況でも、「自分も」って言ったのは、ペテロだけでした。
思ったことはすぐに口に出しちゃうんでしょうね。
よく言えば、大胆。
悪く言えば、無策、おっちょこちょい、・・・

他にもペテロが大胆であることがわかる箇所があります。
いくつか紹介しましょう。

マタイ 4:18
湖で網を打っている時にイエス様に召されて、すぐに網を捨ててしたがった。

マタイ 16:
イエス様に、「私をだれだと言うか」と聞かれ、「生ける神の子キリストです」と一番に言った。
イエス様が殺されて三日目によみがえるべきことを話された時には、「そんなことが起こるはずがありません」と言って、
「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われた。

マタイ 17:4
イエス様が栄光の中で、モーセとエリヤと話合っている状況を見て、「ここにいることは素晴らしいこと、よければ、ここに三つの幕屋を造ります・・・」と言った。

マタイ 26:33
「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と大胆告白。

マタイ 26:58
イエス様が捕らえられた時に、成り行きを見ようとついて入っていった。

ヨハネ福  20:4
イエス様の墓を見に行った時に、先についた人はかがんでのぞきこんだのに、ペテロは入っていった。

ホントに大胆ですね。


ペテロの個性のひとつだと思いますが、
この「大胆さ」が神様の前に用いられた時もあれば、失敗した時もありました。

水の上を歩いたのは、ペテロだけでした。
すごいことです。
個性が神様の前にいい方向で用いられる時、神様の御業を見たり、体験したりすることができるのだと思います。

ペテロの場合は「大胆」という個性が特によくわかります。
使徒の働きの中で、弟子たちが聖霊を受けた時に、立ち上がってメッセージしたのもペテロでした。
大胆が神の前に用いられた出来事のひとつです。
その時に、神様は多くの人を救われました。


あなたの個性はなんでしょうか?
それぞれ違うでしょう。でも、それでいいのです。
その個性がいいとか、悪いとかではなく、神様の前に生かされる為に何をすべきかを祈ってみる機会にしてみましょう。

個性があることはいいことです。
考え方が違うことも個性のひとつです。
それが神様の前にいかされているかどうかが大切なのです。


2.イエス様はいつもそばに

失敗することもあるかも知れません。
でも、それは構いません。すぐにその失敗を生かして次につなげればいいのです。

ペテロも「来なさい」とイエス様に言われて、水の上を歩きはじめました。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言ったのです。

この箇所からは、いろんなことが教えられます。
イエス様だけを見て、歩き始めたのに、それ以外の周りを見てしまったという失敗ともいえるでしょう。それは、私たちの周りに起こってくるいろいろな状況に目を留めてしまうと自分ではどうしようもないような状態になってしまうということを教えているのかもしれません。

しかし、今日はそのことよりも、そんなときでもイエス様がいつもそばにいてくださることに目を留めたいと思います。

ペテロは、大胆さゆえに、水の上を歩くという素晴らしい体験をしたのですが、
失敗してしまったのです。
でも、イエス様は、すぐに助けて下さり、
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

ペテロの大胆という個性は完全ではなかったのですね。
でも、それを神の前に用いたペテロをイエス様は喜ばれたんではないかと思うのです。
主に助けを求めたペテロをイエス様はすぐに助けられました。

私たちの個性も個性としてあっても、完全なものはないと思います。
どこか足りない部分があるでしょう。
でも、それを神様の前に用いていく時に、イエス様はいつもそばにいて、いざと言う時は助けて下さるのです。


結)神様へささげる個性
私たちは、自分自身を神様へ捧げることはきいてきています。
それは、その賜物や個性を用いるということも含まれているのだと思います。
ペテロが自分の持っているものでイエス様に仕え、イエス様に捧げたように、
私たちも持っていないものを無理して捧げようとするのではなく、
自分の持っているもの、その一つが「個性」でしょう、
それを捧げ、それを用い、それによって、神様の御業を見て、体験するものになりたいですね。

これは、言い換えれば、ありのままのあなたでいいということです。
でも、そのままでは悪い面もあるかもしれませんから、神様によって聖別していただき、用いていただくのです。

あなたは、世界の中で、歴史上で、ただ一人の存在です。
その個性を神の前に生かしていただく為に何ができるのか、何をすべきなのか、
今日のメッセージを通して、祈る機会とできれば感謝です。
祈りましょう。

2007/09/16

07.9.16「優先することの重さ」

創世記22:27-34
:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。
:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。
:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。
:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。


序)
エサウは長子の権利を軽蔑した。
これは、神の祝福を軽視したことを意味する。

物事を軽く見ることは、わたしたちの生活の中でもあることでしょう。
しかし、軽く見てはいけないことがあることも事実です。

子供が怪我をした時、ちょっとすりむいた程度の怪我でも、本人は気になる。
でも、そんなに重く受け取る必要はなく、ばい菌等が入って化膿しないようにさせすれば、軽く見てもいいですよね。

逆に、
最近のリアルなゲーム
人を痛めつけたり、殺したりすることに対して、
ゲーム感覚で犯行に至る青少年がいるが、まさに命を軽く見ていると言えるでしょう。
これは、軽く見てはいけないこと。
個人的には、こんなゲームはいらないと思う。


さて、エサウが長子の権利を軽くあつかったように、
神の祝福を軽く扱ってもいいのでしょうか。
答えはNo!です。

神の祝福、神様を優先しなかった時に、エサウのように軽視してしまうのです。
エサウが神様の祝福、神様を優先せずに、何を優先したから、軽視してしまったのかを見て、
私たちは共に教えられ、共に神様を、神様の祝福を優先し、重視するものとなりたいと思います。

さて、エサウが神様を差し置いて何を優先したのか見てみましょう。


1.赤い物・・・「肉を満たすもの」

エサウは神の祝福よりも「赤い物」を優先したのです。

エサウは、狩りから帰って来て、飢え疲れていたのです。
ですから、ヤコブが作っていた「赤い物」を食べたいと思いました。
別にこれは健全なことですね。
お腹が空いたから、食べたい。
喉が渇いたから、飲みたい。

しかし、この時、ヤコブは、「赤い物」をあげるかわりに、「長子の権利」を売るようにいいました。

エサウはここで、長子の権利を売ってまで「赤い物」を買う必要があったのでしょうか?
ここは、長子の権利を優先すべきでした。

しかし、エサウは長子の権利を売ってまで「赤い物」を買ったのです。

「赤い物」・・・つまり、自分の肉体的な欲を満たすものを優先したのです。

一時的に満足するでしょう。
しかし、長子の権利は二度と買えないものです。

私たちは、神様の祝福よりも、一時的な肉欲を満たすものを優先させてはならないのです。
もし、優先させてしまったら、比べようもないような大切な物を失うことになるかもしれないのです。


私たちは、肉を満たすものではなく、神の祝福を神様ご自身を優先するものになりたいですね。


2.今の私に・・・「今だけを満たすもの」

エサウは、「長子の権利など今の私になんになろう」といって、
”今さえ”よければいいという「今だけ」を満たすものを求め、優先しました。

今さえよければいいという「今だけ」を満たすものを優先する時に、神の祝福を失うことになるのです。

私たちは、今だけを満たすものではなく、神様の祝福を神様ご自身を優先するものになりたいですね。


結)
エサウにとって、この出来事は軽視したくらいですから、小さな出来事だったのでしょう。
しかし、その結果はあまりにも大きな違いでした。
ヤコブはイスラエルとなり、イスラエル民族の父祖になりました。
もし、エサウがこの時、長子の権利を売っていなかったら、歴史は変わっていたかも知れません。
この小さいと思える出来事での決断ひとつで、エサウの人生は変わってしまったのです。

私たちの優先順位の上位に置く物は何でしょうか。
「神様からのもの」です。
私たちは小さな決断、あるいは小さいと思える決断をすることによって毎日を生活しています。
その決断の時に、「神様からのもの」を優先し、選択していく決断をして行く時に、
大きな祝福を受けることになるのです。

「神様からのもの」を優先するものになりたいですね。

2007/09/09

07.9.9「忠実であれ」

黙示録 2:8-11
:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』

序)スミルナの教会へ

今日は、スミルナの教会について書かれてある箇所から共に教えられ、神様と出会っていきたいと思います。

先週、7つの教会のうち、エペソの教会について書かれてある箇所から、
神様が私たちを理解してくださっており、わかってくださっていること。
そして、初めの愛から離れてしまっているなら、立ち返るように言われており、そこに恵みと祝福があることを見ました。
初めの愛から離れたという表現がある以上、私たちの愛や行いは、最初と今では変わりやすいものであることも指摘されているのでしょう。
私たちの人生の最初から、死に至るまでには、その人は変わっていくというのは、自分も含めて多くの人がそれを経験します。
私たちは不変ではないから仕方のないことなのかもしれません。

しかし、神は不変です。
:8・・初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
初めから終わりまでを支配されている方、死も生も越えて存在される方なのです。
その愛は昨日も今日もとこしえに変わらないお方なのです。

ヘブル 13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。

イエスキリストは不変なのです。
スミルナの教会についてのこの箇所からもこのようなことを知ることができます。

さて、このお方が言われていることを見ていきましょう。

1.神は知ってくださっている。

:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

苦しみと貧しさとを知っている。と言われています。でも実際は富んでいるとも言われています。
これは、どういうことでしょうか。

年収が少なくて、貧しく苦しい生活であるように見えるているけれども、実際は隠してある財産があって、富んでいることを知ってるよ。とその秘密をしっているということなんでしょうか。
勿論そんなことを言っているのではありません。

では、収入が少なく、貧しくて苦しい生活をしているけれども、そのことを知っているよ。でも、あなたには、誰も奪うことができない信仰を持っているでしょう。そして天に宝を蓄えているでしょう。これこそ永遠の富であるんです。だから、実際はあなたは富んでいるんですよ。
ということでしょうか。
そうかもしれません。

でも、私はここで、また別のことを教えられたように思います。
それは、9節全体を読むときにわかります。

この貧しさや富というのは、霊的なものであると思います。
あなたの教会は霊的な恵みに貧しく苦しい信仰生活であると見えていることを知っています。でも実際は、霊的に恵まれているのです。ということなのではないかということです。

9節後半に「・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」とあります。

ユダヤ人とはどのような人でしょうか。
神の選びの民。神に祝福された人々。アブラハムの子孫であり、神の祝福を受ける為にはユダヤ人を祝福しなければならない存在。
とにかく、神様の霊的な祝福を受けた恵まれ、富んでいるという人々であると思われます。

本当のユダヤ人であるなら、そうかもしれません。
しかし、ここでは、「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく・・」とあります。
ユダヤ人だと自称している人々であり、ユダヤ人ではない人々なのです。そのような人が存在しているということです。
その人々は、かえってサタンの会衆である人たちであることが書かれています。サタン礼拝をしている人々であるということです。
スミルナの教会は、その「ユダヤ人とだ自称しているが実はそうでない人で、サタンを礼拝している会衆から、ののしられていた。」のです。

ユダヤ人と自称している人をみて、それが自称ではなく、本当にユダヤ人だと周りの人が信じていたらどうでしょう。
「この人たちは、ユダヤ人だから、神様からの特別な祝福があり、恵みがある。素晴らしい霊的な祝福に満ちた教会で、神の選びの民の会衆だ・・」と思われることでしょう。
そして、そこにある霊的なことは、全て神の業だと信じてしまうということがあるのではないでしょうか。

逆に、この会衆の人々からののしられるようなスミルナの教会は、恵みに乏しく、苦しい信仰生活を送っているかわいそうな教会と見られていたり、
あるいは、この会衆の人々からののしられるようなスミルナの教会は、実は神の恵みがある教会ではなく、サタンが働いているんじゃないかと思われていて、周りからそのように見られていて、苦しく貧しいと思ってしまうような状態に見えているかも知れないということなのだと思うのです。

でも、神様は言われます。
「しかし、あなたは実際は富んでいる。」

ユダヤ人と自称しているが実はそうでなく、サタンの会衆からののしられるということは、どういうことでしょう。
サタンの敵は、真の神様です。
つまり、スミルナの教会には真の神様の臨在があったのだと思うのです。だから、サタンの会衆からはののしられたのだし、神様は「実際は富んでいる」とおっしゃったのだと思うのです。

ここで、注意してほしいのは、これは神が解き明かされているので、偽物と本物がわかりますが、私たちの目には、逆に見えるかもしれないということです。
「ユダヤ人と自称しているが実はそうでなく、サタンの会衆」とは、周りから見ると
「神に祝福されたユダヤ人で、神様から選ばれたすばらしい恵みに満ちた教会の会衆」と見えている可能性が高いのです。
そして、その会衆からののしられるスミルナの教会は、
「神が敵対するサタンに属した会衆」と見られているかもしれないということです。

では、実際に神の臨在があり、神の恵みと祝福があるのは、どちらなのでしょう。
言うまでもなく、スミルナの教会です。

だから、神様はスミルナの教会に対して、
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」と今の状況と霊的な恵みとその中での苦しみも全てを理解していることを語られたのだと思うのです。

私たちがどのような状態であっても、ただ唯一の神であるイエスキリストを信じ、礼拝し、従っているなら、神はその中でどんなに苦しく貧しいと思われる状況であっても、そこの臨在し、私たちを理解していて下さるのです。

恐れることなく、ただイエスキリストだけを見あげて進んでいくなら幸いです。


2.忠実であれ。

:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

そのお方がスミルナの教会に言われていることがあります。
「忠実であること」です。

そして、このことは中途半端な気持ちではいけないことがわかります。
苦しみを知っているといわれていますが、その苦しみを取り除こうとか、和らげようとは言われていません。そうではなく、さらにあなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない、といわれています。
悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。
死に至るまで忠実でありなさい。
と。。。

牢に投げ入れられるのです。これは、ユダヤ人だと自称しているが実はそうでなく、サタンの会衆から、敵視されることで、逆にサタンの会衆呼ばわりされ、牢に投げ入れられることを預言しているのかもしれません。十日というのは、実際の十日なのかどうか私はわかりませんが、少なくとも苦しみを受けることが預言されています。そして、死に至るかも知れないのです。それでも、死に至るまで忠実でありなさい、と神様は言われています。

心ではイエス様を信じているけど、周りの人の手前、表向きはイエス様を否定するでしょうか。
日本では昔、踏み絵というものがありました。
あなたはもし今、日本がそのような状態になったとしたら、どうされますか?
踏み絵は所詮「絵」だから、神様ではないから踏もう、そして、「私はイエスキリストを信じていません」と言おう。でも、心の中ではイエス様を信じているし、死んでしまえば伝道もできないから、それでいいじゃないか。。。と自分の命を長らえるために主を否定する行為と告白をするでしょうか。

それとも、仮に踏み絵は絵(偶像)だから踏むことはできても、「私はイエスキリストを唯一の神、救い主であると信じています。これを否定することは命を奪われたとしてもしません」と告白し、それで牢に入れられ、苦しめられ、殺されても、イエス様を主と告白し続けるでしょうか。

イエス様は、後者であれ・・
「死に至るまで忠実であれ」と言われています。
そして、同時に、
「そうすれば、命の冠を与えよう。」といわれているのです。

大げさに聞こえるかもしれませんが、皆さんはイエス様に対して、死に至るまで忠実である信仰を、覚悟を、持っていますか。
主はこれを求められていることを今日、知りましょう。


結)永遠の勝利と命が用意されている。

:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

そして、死に至るまで忠実であった人々は、勝利を得る者と表現されており、その人々は、決して第二の死によってそこなわれることはない。と預言されています。
第二の死とは、
黙示録 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
とあります。これは永遠の死を意味するのでしょうか。
それによってそこなわれることがないという表現されているのは、意味深いものを感じます。
地上では死に至るまで忠実であり、実際に肉体はそこなわれてしまうかも知れないけれども、それによって守った信仰を持った勝利者は、永遠の死というものによってもそこなわれない永遠の命が与えられるのだということではないでしょうか。

終わりの時に確実に近づいているということは、大変、困難な苦しく貧しい時代に近づいている、あるいは入ってくるということでもあります。
しかし、私たちは、イエス様に対して死に至るまで忠実な者として信仰生活を歩み、永遠の命を得る者となりたいですね。
いや、イエス様はそうしてくださることのできるおかたです。
十字架で私たちのために命を捨ててくださった、最高の愛で愛してくださり、今もその愛を注いでくださるお方が私たちの真の理解者であり、味方なのですから。。
祈りましょう。

2007/09/02

07.9.2「初めの愛に・・・」

黙示録2:1-7
:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

序)七つの教会へ
七つの教会へ神様が語られている一番最初の部分です。
それぞれの文章はいつも、
まず理解を示したり褒めたりし、
責めるべきところを示し、
励まして締める。というつくりになっています。
神様の配慮が伺えますね。

今日はその一つ目を見て、ともに教えられたいと思います。


1.神は知ってくださっている。:2、:3

:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

神様は、私たちのことをよく知ってくださっているのです。

ここでは、エペソの教会に対して、その行い、労苦、忍耐、また悪いものたちを我慢できずに、その偽りを見抜いたことも知っていると言われています。
そのように少なくもと喜ばしい嬉しい楽しいといえるような状況ではなく、つらい悲しい苦しいというような状況のことを知っているよ、と理解を示して下さっています。
そして、「よく忍耐して、耐え忍び、疲れたこともなかった。」と褒めてくださっています。

人から理解される、わかってもらえる、ということはどれだけ励ましを受けるでしょうか。
自分がつらい思いをしたり、苦労していても、あまり人には伝わらないことのほうが多いと思います。そういう経験は誰しもあるんじゃないでしょうか。

「親の心子知らず」とありますが、親が子供のために一生懸命苦労していても、子供は理解していないということはよく聞く話です。
逆に、子供がつらい思いをしていても、親は理解していないということもあります。
それで子供は「理解してもらえない。わかってもらえない・・」というストレスを抱えてしまうということもあるようです。

しかし、そんな心を理解してくれたら、どれだけ人は励まされ、慰められるでしょう。
もし、あなたの理解者があなたのまわりにいるならば、主に感謝しましょう。それは素晴らしいことです。
でも、人には限界があります。その人もまた理解してほしいと願っている部分を持ち合わせているのです。あなたもまたその理解者となっているならそれは素晴らしいと思いますが。。

でも、唯一私たちの全てを理解し、わかってくださり、受け止めてくださる方がいらっしゃいます。
それが、イエスキリストです。

イエス様は私たちが経験する全ての苦難も誘惑も体験されたにも関わらず罪を犯されなかった。そして、十字架の死という苦しみをも耐え抜かれたお方です。
だから、私たちがどんな苦しみにあったとしても、理解してくださるのです。
鞭打たれた痛みによって、私たちの病の苦しみも理解してくださるのです。

誰に理解してもらえなくても、イエス様は理解してくださっています。
そうです。既に理解してくださっているのです。

「主よ。私は今こんな苦しみの中にいます。つらいんです・・」と祈るとき、
主は、「わかっているよ。あなたがその苦しみの中で苦しみ、つらい思いをしていることを知っています。そして、よく耐え忍んでいるね・・・」と語ってくださるのです。

完全な理解者であるイエスキリストがあなたの全てを知ってくださっているのです。


でも、そのお方が次のように言われています。

2.初めの愛から離れた。:4、:5

:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

非難すべきこととして、「初めの愛から離れてしまった」と言われています。

初めの愛とはどういうものなのでしょう。
いろいろあるでしょう。それぞれみなさんが示されるところがそれであると思います。

私は救われた初めの頃、この素晴らしい救いを、まことの神様を友人に伝えたいと思って、同級生に連絡を取っては、会って証をし福音を語りました。
時には、それが女性である場合は、ファミレスに呼び出して、教会の姉妹2人以上に一緒にきてもらって、話したり話してもらったりもしました。
会社の人にもそうしましたし、路傍伝道も頑張った時期もありました。

しかし、胡散臭がられたり、煙たがられたりして、なかなか思うようには導かれず、同級生は未だ救われていません。
そのうち、そのように見られるのがいやになり、伝道に対する熱が冷め、特に同級生に対しては伝道しなくなりました。
しかし、いろんなことの中で、やはり救われてほしいという思いが再燃してきました。
でも、同じ失敗を繰り返さない為にも、まずは関係作りからしていこうと思うようになったのです。
クリスチャンである前に友人であること、人間関係、信頼関係が築けなければ自分が語る言葉を信用してもらうことが簡単ではないことを学んだのです。

同窓会の幹事を引き受けたり、仕事の関係での人との付き合いもなるべく持つようになったのも、そのようなことからでした。

初めの愛から離れてしまったときもありましたが、今はもう一度立ち返ろうとしています。
最初はその愛を勢いだけで行動していましたが、今は内側にその愛をしっかりと持ちつつ、初めの行いである伝道、証をし、福音を語ることをしようとしています。

あなたは、初めの愛から離れていませんか。
友人の救いのために祈り伝道した愛。
家族の救いのために祈り伝道した愛。
兄弟姉妹を愛し、交わりを大切にした愛。
教会を愛し、互いに仕えた愛。
そして何よりもイエス様を愛し、祈り、ささげた愛。

もし、離れているならは、イエス様は、
「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」と言われています。

結)初めの愛に・・・
最後にイエス様は、
「:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 」
とも言われました。
ちゃんとフォローされています。気持ちは同じだよ。とメッセージしてくださっています。
だからこそ、このお方に応えようと愛が働くのではないでしょうか。
また、
「:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
と、聞くものに対して、勝利を得る者と表現し、その恵みと祝福が用意されていることも示して、弱い私たちを励まし、押し出してくださるのです。

真の理解者であるイエス様が私たちを理解してくださっています。
そのお方が言われる「初めの愛」を持ち続け、勝利を得る者となりたいですね。

今、あなたはどのような状態でしょうか。いや、どのような状態でも、その状態を知って、まず一歩を踏み出すときに、イエス様は私たちに最善をなし、導いてくださいます。
十字架で自らの命を捨ててまで愛してくださったお方なのですから。。
祈りましょう。