2007/06/24

07.6.24「互いに・・・」

ヨハネ13:1-17
:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうする思いを入れていたが、
:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

序)イエス様は、イエス様と弟子達の関係を示され、それを通して、今日の教会のあり方、神様と私達の関係を示唆されました。

ここでイエス様が弟子達にされた行動を通して、神様と人との関係、また人と人との関係、これは教会での人間関係とも考えられることだと思いますが、それらは、どうなのか、みていきましょう。


1.イエス様が足を洗われた。

足を洗うのは、しもべの役目でした。
そのしもべの役目を神であるイエス様が弟子達にされたのです。
イエス様は神ですから、人々の上に立つことができた方ですし、そうすることもできたでしょう。
しかし、しもべのように仕えられたのです。
これによって、イエス様がいかに弟子達を愛しておられ、最後まで愛しとおされたかということがわかります。
イエス様は裏切るユダをも愛されました。また、十字架の死に至るまで、愛しとおされました。

神であるイエス様がしもべのようになって仕えられたのに、人々の中で上に立つことができるような存在などないと言えるでしょう。

2年前に捕まった牧師は、牧師の言うことは絶対、神がわたしを立てられたのだから、わたしに従うことは神の御心であり、祝福だと言い、聖書だけでなく、この牧師が神に直接示されたということまで、神の言葉として語っていたというのです。

どうして、神が一人の人間をそんな神のような存在として立てられるでしょうか?
神であるイエス様でさえ、人に仕えられたというのに。。。
ですから、教役者に対して、わたしたちは感謝し、尊敬することはあっても、絶対的な存在にすべき方は、神様以外ないのです。
絶対的な言葉は、神の言葉、聖書しかないのです。
絶えず神に栄光をお返ししなくてはなりません。

この地上において、上に立つべき人は存在しません。
神以外にそのような存在はないのです。

では、私達はどのような関係であるべきなのでしょうか。



2.互いに足を洗い合うべき。

イエス様は、御自身が模範として、足を洗われ、仕えられましたが、互いにそのことをするように言われました。

「互いに」です。

ある人は洗われる人、ある人は洗う人、ではないのです。
互いに洗い合うべきだとおっしゃったのです。

牧師も副牧師も伝道師も宣教師も教師も役員も長老もリーダーも信者もそれは、そういう役割であったり、呼び名であるだけで、神の前には互いに仕えあう、愛し合う、存在なのです。
聖なる方は、唯一神様だけです。
人はどんな人も罪人です。一人として例外はありません。
ですから、その中では互いは、神の前に同じ存在なのです。

私達はどうでしょう。
互いに足を洗い合う、仕えあい、愛し合う教会になりたいですね。


結)イエス様が教会を建て上げられる。
そうです。イエス様が建て上げられるのです。
牧師が建てるのではありません。
イエス様が教会を建て上げる時に、牧師をそこに据え、あるいは教師を据え、あるいは執り成し人を据え、あるいは励ます人を据え、と、御霊が自由に賜物を与えて、そこに建てていかれます。
そのようにして、イエス様は教会を建て上げていかれるのです。
そこでは、唯一、神様が礼拝され、その神がまた私達の足を洗い、癒し、励まし、建て上げて下さる。
そして、教会では、互いに足を洗いあい、仕えあい、愛し合い、互いに建て上げられていくのです。これが健全な教会なのではないでしょうか。
私たちの教会は、イエス様御自身に建て上げていただき、互いに愛し合い建て上げられていきたいですね。
祈りましょう。

2007/06/17

07.6.17「どんなことでもできる」

ピリピ4:8-13
:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。
:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

序)どんなことでも
どんなことでもできるような人を見ると、
スーパーマンみたいだ。
といったりします。
なんでもできる人のことを指して使ったりします。
パウロは「どんなことでもできる」と書いていますが、果たしてどういうことなのでしょうか。
ここから、私たちが教えられることを見ていきましょう。


1.あらゆることに心を留める。:8

あらゆるよい方向に向かうようなことには心を留める。

みなさんは毎日、新聞を読まれたり、ニュースを見たりされていますか。
わたしもほぼ毎日、そのような情報を新聞やニュースやネットで目にしています。
テレビのワイドショーを見ておられるかたもいらっしゃるかもしれません。
それ以外にも、人から聞いたり、ラジオから聞いたり、いろんな方法で情報を得ますよね。

最近なにか気になったことはありますか。
私は介護制度についての問題や年金の問題、政治のことについても気になったりしています。
また、自分の仕事に関係する制度改革のことにも目が向きます。
少し前なら、インフルエンザの流行やタミフルの問題も気になったりしました。

それらは、まさに私が心に留めていることと言えるでしょう。
心に留めようと思って留めているものばかりではなく、知らない間に心に留まっているものもあります。

心に留めるまではいかなくても、目にして気になることはたくさんあると思います。
そして、それらの情報は、いい情報もあれば、悪い情報もあるのです。
それらの情報を得ることはある意味大切なことですが、私たちの心に留めることを考えるとき、そのすべてを心に留めるべきでしょうか。

8節を読むと、「すべて・・・なこと・・」というように、
「すべて」という言葉がついています。

すべての・・・
 真実なこと
 誉れあること
 正しいこと
 清いこと
 愛すべきこと
 評判の良いこと
 徳と言われること
 称賛に値すること

があるならば、そのようなことに心を留めなさい。とあります。

これは、そのようなあらゆる良いと思われることや良い方向へ向くようなことに対しては、心に留めるようにという意味と言えるのではないでしょうか。

知ることは良いことも悪いことも知るでしょう。
ある意味これは、避けることはできません。よい情報だけしか目にしない、耳にしないということはできません。
しかし、その情報や出来事等に対して、心に留めることは、私たちの側で出来ることだと思うのです。

これは罪についても同じようなことが言えますね。
罪の誘惑は避けられないかもしれませんが、罪を犯してはならないように。。
鳥が頭の周りを回ることをやめさせられなくても、頭に巣を作ることはさせないように。。。

パウロは、すべての「あらゆる良い方向にむかうようなことに心を留める」ことをここで勧めています。

その情報の大きな一つが、「聖書」です。
神のみ言葉には力があります。私たちを変える力さえあります。
他にもいろいろあるでしょうが、例外なく絶対的にこれを心に留めることは間違いないといえるのは、「聖書」です。
そこには、真実も清さも正しさも愛すべきことも、、、すべてが書いてあります。
これらを心に留めるならそれは素晴らしい第一歩と言えるでしょう。

私たちは、良い方向、前に向かう、プラスに向く、、そのようなことに心を留めるものになりたいですね。
そのためにも、イエス様に心を向け、聖書を心に留めるなら幸いです。


2.あらゆる境遇に対処できた。:11-12

パウロはあらゆる境遇に対処できる人だった。

先日、仕事である現場に行ったのですが、昔からの集落で、車がすれ違うのには困難な道を何度か曲がっていきました。
そのときに、私の普通車で、なんとかいけたのですが、「軽自動車だったら、もっと楽にいけるだろうな」と思いましたし、実際、以前、軽自動車じゃなかったので、入っていけなかった現場も何度かあったのです。
もし、車を何台も持っていて、ワンボックスの8人乗り、4ドアセダン、2ドアのスポーツカー、4WDのジープ、4WDの軽自動車、ワンボックスの軽自動車、原付、、、等などだったら、現場に合わせて車を乗っていくでしょうし、行き先に合わせたり、行く人数に合わせたり、行く目的にあわせたりするでしょう。
あらゆる種類の車をもっているならば、どんな状況にも対処できるわけです。

パソコンの話になりますが、私はエクセルやワードといったものが今までほとんど使ってきませんでした。昨年の9月にPCを買い換えたときに、仕方なくではありましたが、オフィスを導入したのです。ところが未だにワードについては、ほとんど使えません。
思うように操作できず、結局、簡単な文書を打つときくらいにしか使っていません。
少し、体裁を整えたいようなときは、エクセルで文書を打ったりしているくらいです。
ですから、大した書類は作れませんが、今のところなんとかやっています。
ところが、ワードやエクセルや他のオフィスのソフトを使いこなしている人ならば、本当に複雑なこともやってのけてしまうのです。
それは、オフィスのソフトの知識の豊富さゆえに、あらゆる状況に対処できるのです。

このように見ていくと、あらゆる境遇に対処できるというのは、ある特定のことだけしかできないとか持っていないということでは難しいようです。

しかし今、例にあげたようなことは、物であったり、スキルであったりするので、努力次第ではなんとかなるものです。
ただ言えることは、それらはあらゆるものやことをまずは自分のものにしたり、経験したりする必要があるのです。


パウロがあらゆる境遇に対処できる人であったのは、このようなこととは直接関係ないかもしれません。

あえて、関係付けて話すならば、
軽自動車でしか入れないような現場に行ったとしたら、「入っていけないから止めだ」といってやめてしまえば、対処できていないことになりますが、
「軽自動車じゃないと入れないけど、途中までいって、そこから歩いていけば現場にいけるから、そうしよう。」とするならば、車で現場までいけなくても、歩くという方法を通して、その仕事に対処できています。

ワードが使えないので、ある文書が作れないとしても、エクセルでなら作れるから、とか、手書きなら作れる、とか、等で、とにかくその必要な文書を作れたなら、対処できているわけです。

パウロもまた、貧しい中でも生きていく道を知っていたし、豊かさの中で生きていく道も知っていたり、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇で対処できる秘訣を心得ていると言いました。
貧しさを解決して豊かになったり、飢えているから飽くほどなったり、乏しいから富をえる方法というのではなく、置かれているあらゆる境遇に対して、対処できるというのです。

ですから、私たちも今いろんな境遇におかれていたり、日々いろんな境遇になりますが、そのときにそれに対処する秘訣を知るならば、それは素晴らしいことです。


その答えが・・・


結)私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。:13
私を強くしてくださる方、とは誰でしょう。
イエスキリストです。
イエス様によって、どんな境遇におかれても対処できるのです。

あらゆる境遇におかれたときに、「できない・・」という思いに支配されていては、イエス様の出番はありません。「できるはず・・」という前向きな思いで主に拠り頼むとき、イエス様の出番があるのです。

一つ目で話したように、あらゆる良い方向に向くことに心を留めているときに、そのような思いを助けてくれるでしょう。

聖書をはじめとするあらゆる良い方向に向くことに心を留め、
私を強くしてくださるイエス様により頼むときに、人生のあらゆる境遇の中で対処し、どんなことでもできるという歩みとなり、イエス様から来る実を結ばせていただけると信じます。

このイエス様にさらに近づき、さらに親しく、共に歩むものとなりたいですね。
祈りましょう。

2007/06/10

07.6.10「主が戦われる」

出エジプト 17:8-16
:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

序)アマレクがイスラエルと戦った。
アマレクというのは、エサウの孫の一人。
イサクとリベカの長男エサウと二男ヤコブ。
そのエサウのたくさんいる孫の一人がアマレクです。創36:10-
イスラエルは、ヤコブの子孫ですから、もとは兄弟です。

創27:39-40を見ると、
:39 父イサクは答えて彼に言った。
「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。
:40 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」

ヤコブが父イサクを騙して、長子としての祝福をエサウから奪ってしまったからでした。
それで、エサウは、父イサクが死んだら、それからヤコブを殺そうと思うようになったと書いてあります。
エサウの子孫であるアマレクがヤコブの子孫であるイスラエルのところに来て戦ったのは、このイサクの言葉のとおりになっているのかもしれませんね。
おのれの剣によって生き・・・とか、おまえが奮い立つならば彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう・・・とかありますから、剣によってイスラエルと戦って、自らのくびきを解き捨てようとしているという意味なのかも知れませんね。

イスラエルがエジプトに寄留して、この脱出までが430年ですから、もともと兄弟なのに、4~500年も経つと、戦争するような関係になるかもしれないんですね。
室町時代には実は兄弟だったのに、今ケンカしてるって人もいたりして。。。

それはさておき・・
アマレクとイスラエルはそういう関係だったのですが、私たちはこの戦いを通して、教えられることも多々あります。
一緒に見ていきましょう。


1.主に手を上げていると優勢になった。

これは「祈り」を象徴しているとも言えるかもしれません。
少なくとも、「主により頼んでいる」状態を現しているのではないでしょうか。

別に、ヨシュアがモーセの手を見て、下げているから、後退したとか、戦うのをやめたというわけではありません。
ヨシュア達は戦い続けていたのですが、モーセの手が上がっていると優勢になり、おろしていると劣勢になったのです。

モーセは手を上げ続けることは困難でした。
ですから、モーセを石に座らせ、アロンとフルが両側で、手が下がらないように支えたのです。
これは、主に拠り頼み続けることを意味すると思います。

私たちも人生のいろんなことの中で、主に拠り頼んで始めたけど、軌道に乗ってくると調子に乗って、自分でやろうとしてしまう時があるかもしれません。

新改訳
ガラテヤ 3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
口語訳
ガラテヤ 3:3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

主に拠り頼んでスタートしたことは、最後まで主に拠り頼んでいくことこそ、信仰と言えるのではないでしょうか。
このモーセの記事から、
主に拠り頼んでいる時にこそ、主の力が現されることがわかります。


2.アロンとフルはモーセを支え、ヨシュア達は戦った

先ほども話したように、手を上げ続けることはモーセだけでは達成できなかったのです。
アロンとフルという助け手があって、初めて上げ続けることができたのです。
また、実際に戦ったのは、ヨシュア達でした。

:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
モーセは、ヨシュア達に戦いに行くように言いましたが、
これは別にヨシュア達に戦わせて、年寄りのわたしは高みの見物をしようと思って、そうしたのではありません。
モーセはモーセの役割を果し、アロンとフルはそれぞれの役割を果し、ヨシュア達は自分達の役割を果したのです。
その時に、イスラエルはアマレクに勝利しました。

モーセが手をあげたから勝ったのでしょうか?
アロンとフルが支えていたから・・・?
ヨシュア達が戦い、強かったから・・・?
いえ、それら全ての働きがあったから、勝利があったのです。

教会もいろんな人がいます。
いろんな働きがあります。
でも、その働きの一つでもかけるなら、完全な勝利は現されないのかも知れません。

いろんな働きがあって、優劣はなく、全ての働きが一致した時に、主の力が現されるのです。
自分のやるべきこと、できることはなんでしょうか。
そのことを一つずつするなら、幸いですね。


結)主が、アマレクと戦われる。

誰が戦ったのか?
確かにヨシュアは直接戦いに出ていった。しかし、モーセもアロンやフルも主に手を上げるということを通して一緒に戦った。
そして、この勝利を主は、
:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
そして、モーセ達は、
:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

つまり、「主御自身がアマレクと戦われた。そして代々に渡って戦われる」ということです。

最初は、アマレクがイスラエルと戦った(:8)、のですが、
実はアマレクは主と戦っていた(:16)のです。

これは、イスラエルが主に拠り頼み続け、それぞれが自分のすべきことをしていった時に起こった出来事です。
主が戦われ、勝利されるときはこういう時なのです。

私たちもまた、主により頼み続け、自分にできること、すべきことをしていくなら、主の御業、主の勝利を体験することでしょう。
祈りましょう。

2007/06/03

07.6.3「用いられること」

マタイ 20:1-16
:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」


序)用いられる・・・誰かに頼りにされるということは、喜びだと思います。
子供が頼りにしてくる。嬉しいことです。
人に信頼される。これは嬉しいことです。
時には、疲れていてそれどころじゃない。というときはたとえ子供が頼ってきても、
「やめてくれ~」という気持ちになることも確かにあります(笑)
これは、自分が何もしたくない時に、何かさせられると感じるからでしょう。

今日は、神様が私たちを用いられる、ということを見ていきましょう。


1.神様は私たちを雇おう(用いよう)とされている方。

:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

夜明け、9時、12時、15時、17時と一日に5回も雇おうと出かけられている。
たとえ、わずかな時間でもいいから用いてあげたい・・・そんな気持ちなのでは?
それほど、用いたいと願っておられる。

神様は私たちも、用いたいと願っておられる。
働きは違うかも知れない、いろいろあるかも知れない、賜物も違うかも知れない、でも神様はそれぞれをいろんな形で用いたいと願っておられる。

まずこのことを知りましょう。


2.神様の報酬は不公平?!

これは、いい意味で不公平だと言えます。

神様は長い時間仕えた人にも、短い時間しか仕えなかった人にも同じ報酬を与えられた。
そうしたいと願われてそうされた。

これは、イエス様が来られた2000年前の弟子達が夜明けに雇われた人たちで、今の私たちは5時に雇われた人にあたる、と言えるかも知れない。

あるいは、クリスチャンホームに生まれ育って、ずっと教会で仕えて生涯を送った人が夜明けに雇われた人で、年老いてから救われた人が5時に雇われた人にあたる、と言えるかも知れない。

でも、神様は同じように、永遠の命を与え、救いを与え、恵みと祝福を与えられて、天国へと導いて下さる。
不公平は神様です。

これは、早く信じた人には救いを与えず、年老いて信じた人に救いを与えたという不公平ではありません。
早かれ遅かれ同じように救いを与えられるという不公平です。
実はこれは、大きな恵みです。

この事から教えられることを二つ・・・

①イエス様との関係は1対1の個人的な関係であること。

ほかの人がどれだけ報酬をもらったから、不公平だとか、ほかの人のことをとやかく言うこと自体が神様の前には不要なこと。

ペテロが、ヨハネのことを、「あの人はどうなのですか?」とイエス様に聞いた時に、
「・・・あなたに何の関わりがあるのか」といわれたように、
イエス様との関係は、1対1の個人的な関係であることを知ろう。

ほかの人がどうかということは、神様の前には関係ない。いい意味でも悪い意味でも。
牧師だから、神様から特別な祝福がある、信徒だからそこそこしかない。
そんなことはあり得ない。
神様の前には、みんな同じ神の子。
できのよい子もいれば悪い子もいるかも知れないが、神様の目から見れば、
「みんな私の子だ。何ができるできないは関係ない。私の大切な子だ」といわれている。
自分の命をかわりに十字架でささげるほどに、全ての人を愛しておられる方。

だから、ほかの人がこうだから・・・ということを神様の前で言うことはやめて、神様と自分の関係を築きたい。


②主に用いられることが喜びとなっているか。

:12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

神様に用いてもらえることは、素晴らしいことであり、特権です。これは喜びとなるべきもの・・
しかし、夜明けから用いてもらった人は、
「労苦と焼けるような暑さを辛抱した・・・」と言いました。

早く救われた人が、年老いて救われた人と同じ扱いを受けて、
「クリスチャンホームに生まれ育って、献身して牧師にもなって、こんなに長い間苦労して耐えてきたのに、死ぬ前に信じて救われた人と同じ扱いかよ?神様、そんなの不公平ですよ!」
っていっているのと同レベルじゃないかと思うのです。

早くから救われて用いられているからこそ・・・
>味わう祝福や恵み。
>知ることのできる神様の素晴らしさ。
>体験できる神様の奥深さ。

私たちが、神様に用いられることが労苦だと感じるなら、それは健全な心の状態とは言えないでしょう。

用いられるとは、奉仕するとかそういうことだけじゃないです。
神様の前に、できることをする。ということです。

もし、喜びと感じられないなら、何か原因があるはずです。
まずは、神様との個人的な関係を見直し、築き直しましょう。
正しい神様理解が正しい信仰になります。



結)神様は、わたしたちを用いたいと願って探しておられます。
今私たちにできることは何でしょう。
イエス様との個人的な関係を築くこと、そしてそれを深く強くすることです。
そして、神様に用いてもらっているなら、そのことが喜びとなっているかチェックすることです。
もし、なっていないなら何か原因があるはずです。
神様との個人的な関係を見直し、もう一度築き、深め強くし、神様との関係を健全で正しい関係にしていただきましょう。