2009/03/22

09.3.22「義と認められて生きる人生」

ガラテヤ2:15-21
:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」


序)義と認められる
義と認められるとは、
罪ある人間が正しい人として、罪がないもののような人として、神に認められることを言います。

もしある人に身寄りがなく、唯一、配偶者と子供が一人いたとします。
あなたが車で走っていて、しかも周りのことを考えずに暴走しているときに、その配偶者と子供をはねて殺害したとします。そして、あなたがその配偶者と子供をなくした人の前に連れて行かれたとき、この人があなたになんの罪も問わず、正しい人として、罪のないものとして、あなたを認めたとしたら、どうでしょう。
考えられない、想像できないようなことですよね。

私達が神の前に義と認められるということは、それほどすごいことなのです。
そして、義と認められるために必要なことはたった一つです。
今日は、そのようなことについて、ともに見て行きましょう。


1.律法の行いによって

人は律法の行いによっては義と認められない。

律法の行いによっては義と認められないとのことですが、
では、律法は必要ないのか、行いは無意味なのか、といえば、それは違います。

ヨシュア 1:7-8
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

律法の行いによって、義と認められることはありませんが、それによって、繁栄し、栄える事が約束されています。
逆に、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(申命記27:26)とあります。
律法を行う事で、義と認められる事はありませんが、のろわれず、繁栄が約束されているのです。

また、

1コリント6:9-10
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

とあるように、律法を行わないならは、神の国を相続することができません。
神の国を相続するという素晴らしい祝福にあずかるためには、律法を行うことが必要なのです。

でも、注意しなければいけないのは、律法を行ったからといって、義と認められることはないのです。それらは、祝福のためであり、繁栄の約束のために過ぎないのです。
しかし、私達は義と認められる為ではなくても、神につくものとして、律法を行う事に努めることは、神の前に正しい事なのです。


律法の行いによって義と認められませんが、神の祝福や繁栄を受ける為に、律法を軽んじないものとなりたいですね。


では、義と認められるためには、、


2.キリストを信じる信仰によって

キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。

私達が神の前に、正しい人、罪がない人のように認められるには、
「キリスト・イエスを信じる信仰」が必要なのです。

ここに私達の大きな希望があります。
もし、律法によって義が認められるとすれば、誰一人として義と認められる人はいないでしょう。
ローマ3:10にも、「義人はいない。ひとりもいない。」とあります。
律法によっては、誰も義と認められない中で、誰もが義と認められる道が備えられているのです。
なんと素晴らしい事でしょうか。
それが、「キリスト信じる信仰による義認」なのです。

これが私達が受けて、また伝えている「救い」であり福音の根拠です。

キリストを信じる信仰は、全ての人に開かれています。
行いは、人によってはできること、できないこともあるでしょう。
しかし、この信仰は誰もが持つことができます。

そして、このことが実現する為に大きな犠牲が払われているのです。
イエスキリストが十字架にかかって命を捨ててくださり、信じる全ての人が義と認められるために、その身代わりとなって、受けるべき苦しみ、痛み、悲しみ、死を受けてくださったのです。
その犠牲によって、キリストを信じる信仰によって義と認められるという素晴らしい恵みが私達に用意されました。

このようにして、義と認められた人は、どのように生きていくのでしょう。

結)キリストと共に生きる。

イエス様の大きな犠牲によって、神の前に義と認められる道が備えられたことを知るとき、そして、その恵みに預かるとき、私達はもはや自分のためではなく、キリストと共に生きることができるのではないでしょうか。
パウロはこのようにいいました。
:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

私達は、律法によって義と認められません。キリストを信じる信仰によって義と認められるのです。この神の恵みを受ける事が、神の恵みを無にしない生き方ではないでしょうか。
もし、律法によって義を得ようとするなら、それはキリストの死を無意味にしてしまうのです。

私達がキリストを信じる信仰によって、義と認められる事を受け止め、キリストと共に生きるとき、キリストの死は私達の中に生きて、キリストが私達のうちに生きておられるといえる人生を歩むことができるのだと信じます。
この素晴らしい人生、キリストと共に生きる人生を歩みたいですね。

2009/03/20

09.3.15「弱さを誇ろう」

2コリント 12:7-10
:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

序)弱点はありますか。
完璧な人はいないと思いますが、誰しも弱点はありますよね。

ある俳優さんの話ですが、彼は以前、暴走族の総長までしていたようなけんかの強い男でした。
そんな彼には怖いものなんてないだろうと周りの人は思いますよね。
でも、以外にもそうじゃなかったんです。
ぼくの記憶がただしければ、「虫」が苦手だそうです。

ぼくもたくさん弱点はあります。
ひとつのことに深く理解を進めようとすると、続きません。
忍耐がないんですね。。
オタクといわれる人はある意味すごいと思うんですよ。
一つのことについては、本当に異常なほどに詳しいわけです。
ぼくにはできないことです。

みなさんはいかがですか?
いやぁ、私は弱点だらけだ・・・って人がおられたとしても大丈夫です。
今日はそんな方には一番恵まれるお話かもしれません。

パウロにとって、肉体に与えられた一つのとげ、つまり弱点は、高ぶることのないようにするためのものであったようです。
でも、実はそのままでいいと主は言われたようですね。
その理由を見ていきましょう。

1.主の恵みは十分であるから。

「私の恵みはあなたに十分である」と主は言われました。

私たちはつい、「主よ、あれも必要です。これも必要です。ここに恵みが足りない・・」というように主に求めることがあるでしょう。
求めることはいいことです。
でも、時にイエス様はこのように言われることもあるんですね。
「私の恵みはあなたに十分である」

これは、これ以上はあなたに恵みを与えませんよ、という意味ではありません。
もう既に十分恵みは与えていますよ、という意味です。

私たちに対して主は、十分な恵みを与えてくださっています。
それなのに、「足りない、足りない・・」と不平不満を言うことは避けたいですね。

たとえば、こういうたとえはどうでしょう。
あなたの両親には莫大な資産があり、お金持ちです。
その両親から「必要なものはいつでもいいなさい」といわれたとします。
しかし、毎月の小遣いは5000円だとします。
とりあえず、親にいわずに買う必要のあるものはその5000円で買えるとします。
で、必要なものができました。
移動のための自動車が必要なら、自動車が与えられます。
かばんが必要なら、かばん。服が必要なら服。靴が必要なら靴。家が必要なら家。。
でも、現金で1億円がほしいといったら、どうでしょう。
両親にその現金を用意する能力はあっても、与える必要のないものは与えません。
不足はしていませんし、十分なお金はあります。
でも、必要以上にはあなたは「自分では」もってはいないのです。

神様の恵みも十分です。
あなたに必要なものは神様はご存知で満たしてくださるお方です。
不足はしていません。十分に用意されており、与えられているも同然なのです。

このように、神様の恵みはあなたに十分なのです。
その神様を求め、神様に信頼するものになりたいですね。


2.キリストの力が現れるから。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

弱さをもったままでいいというのは、
その弱さのうちにキリストの力が完全に現れるからです。

弱いところにその力が現れるということはいろんなところで経験することでしょう。

寒さに弱い人は、あったかい格好をします。
ダウンジャケットなんかは本当にあったかいですよね。
ダウンジャケットの力が発揮されるわけです。

「補強」という言葉がありますが、まさに弱いところを補い強めるという意味ですが、
そのような意味合いがあるとすれば理解しやすいでしょう。

昔から正義の味方のような子供用の番組がありますが、
誰かが助けを必要としているところに颯爽と現れて、
敵をやっつけて助けるというお決まりのパターンでした。
もし、ヒーローが現れる前に、やっつけちゃったらどうでしょうか?
ヒーローの出番はなくなります(笑)
弱さがあるから、強いヒーローの力が現れるのです。

先ほどの両親と子供のたとえ話ですが、
もし、その子供に莫大な支払いが必要となったときに、
自分で支払ってしまえば、それで終わりですが、
親がそれを支払えば、親の資金力という力が現れるわけです。

私には、忍耐がない、継続することが苦手という弱さがあることを最初に少し触れましたが、
それでも、クリスチャンになってこの信仰生活を20年以上継続できていることは、
まさに神様の力が現れた証だと思います。

私たちが弱さを覚えるとき、それはイエス様の力が現れるチャンスなのです。
だから、そのままでもいいのです。

イエス様の力を私たちの人生に、生活に現していただきたいですね。

結)弱さを誇ろう。
だから、私たちは弱さを誇りましょう。
弱点、弱さがあっていいのです。
その弱さの中でもキリストの恵みは十分で、
その弱さにこそ、キリストの力が現れるからです。

パウロも言っています。
「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と。

2009/03/08

09.3.8「仕える、ということ」

ルカ10:38-42
:38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
:39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
:40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
:41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
:42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

序)先月、5つのパンと2匹の魚で5000人のお腹が満たされたお話の中で、その為に仕えた弟子達はその神様の祝福の一部始終を見、更に弟子達も祝福に預かったということを教えられましたが、今日は、この「イエス様に仕える」ということについて、マルタとマリヤの話しから教えられたいと思います。
ここで、マルタとマリヤは二人とも、イエス様の前に仕えたわけですが、そこに微妙な違いがありました。
そして、イエス様はマリヤの方がよいものを選んだといわれました。
さて、その違いを見て、わたしたちはイエス様が言われるよいものを選びたいと思います。


1.マルタ・・・イエス様の為に。

マルタは、イエス様を喜んで家にお迎えしました。そして、そこでくつろいでもらって、食事を用意したり、いろいろとおもてなしをしようと思って、忙しく動き回っていました。
これはマルタが「イエス様に喜んでもらいたい、イエス様の為に何かしたい」と思っていたのでしょうが、一方マリヤはイエス様の足下に座って、マルタの手伝いを何もしません。
さすがにマルタもイライラしてきて、とうとうイエス様に言ってしまいます。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
さて、マルタは誰の為に誰を喜ばせたいと思って、おもてなしの準備をしていたのでしょうか。
イエス様の為です。でも、ここで、イエス様にこんなことをいってしまいました。普通お客さんにそんなこと言わないですが。。。

イエス様の為に・・・と思ってやっていると、時にこんなつまずきを体験することがあるのです。
イエス様の為にやっているのに、何もしない人を見ると裁いてしまったり、「主よ、なぜあの人はイエス様の為になにもせずにいるのにあんなに祝福されて、私はこんな大変な思いをしているのに、これだけの祝福なのですか?」と言ってしまったりすることと同じようですね。

「イエス様の為に仕える」ことは素晴らしいことです。
でも、その時には、どうしても人と比較したり、その成果を気にしてしまって、時には不平不満の原因にもなってしまうのです。
イエス様の為に仕えたなら、仕えられたことを喜ぶことができるなら素晴らしいですが、なかなか弱い私たちは難しく感じてしまうことも度々です。

さて、一方のマリヤはどうだったのでしょうか。


2.マリヤ・・・イエス様に。

マリヤは、イエス様の足下に座って、イエス様の語られるみ言葉に聞き入っていました。
これは、イエス様に仕える姿なのではないかと思うのです。
実際、マルタが不平を言った時に「マリヤはよい方を選んだ。そしてそれを彼女から取り上げてはいけない」とおっしゃった。
マリヤの方がよい方を選択したわけです。
これはどういうことなのでしょうか。
例えば、この礼拝ひとつとっても、早く来て会場を準備する人がいます。賛美の司会や奏楽、印刷物を配る人、プロジェクタ、メッセージ、祈る人、献金係、会場の片付け、CS・・・と様々な仕える人によって成り立っています。
それらを否定して、ただ、イエス様の話しを聞く・・・聖書を読んでいればそれでいい?
そうではないですよね。
先ほどの礼拝で仕えてくれている多くの人は、イエス様の為に仕えているのでしょうか?
もしそうだとしたら、つまずきの原因になるかも知れませんから気をつけましょう。
皆さんは、礼拝等で仕えてくださっていますが、これは、「イエス様に仕えている」のです。

私たちは、イエス様「の為」に仕える、よりも、イエス様に仕える、ことを選択する方がいいとイエス様はおっしゃっているのだと思います。

この違いなんです、最初に言いたかったのは。。。

牧師は教会では、イエス様のために・・と思って、信者たちを訓練しようとしているかもしれません。
それが正しいと信じて、、、。
聖書を読みましょう。祈りましょう。捧げましょう。仕えましょう。。。と。
でも、それよりも、牧師がイエス様に仕えているなら、信者はその牧師の姿を見て、
イエス様に仕えることを学ぶのではないでしょうか。
また、イエス様に仕えるように信者に仕えるとき、そのように仕えられた信徒はまた、イエス様に仕えるように互いに仕えるものに成長していくのだと信じます。
イエス様のために仕えるのではなく、イエス様に仕えるということは本当に大切なことです。

よく聞く話しですが、子供が遊んで欲しいというので、おもちゃを与えた。
ゲームを欲しがったから、買ってあげた。退屈だというので、DVDを見せておいた。

それらがすべて悪いとは思いません。
でも、その子達は、本当は親からの「愛」が欲しいのでしょう。
触れ合って遊びたいのです。
「ものより思い出」ってCMが以前ありましたが、言い当てていると思いました。

親はその子のために・・と思って、おもちゃを与え、ゲームを与え、DVDを与え、
なんでも与えてきたのかも知れません。
でも、本当に与えなければならないのは、「愛」だと思うのです。

イエス様のために何かするよりも、イエス様に仕える、イエス様を愛することの方が大切なんですね。

そして、イエス様はそうされるだけの方なのです。
なぜなら、イエス様は私たち人類を愛して、私たちが罪によって滅びることから救われるために、
十字架にかかり自らの命を捨ててくださって、愛を示してくださいました。

ローマ 5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

そして、今もその愛は変わらずに私たちに注がれているのです。
すべての人が救われて欲しい・・と。



結)私たちは、同じ仕えるなら、
「イエス様の為に仕える」のではなく、「イエス様に仕える」ものになりたいですね。
あなたのために、命を捨てるほど愛してくださったイエス様に仕えるものに。。。

イエス様が「よい方を選んだ」と言われたマリヤの選択。。。「イエス様に」仕える選択をこれからもしていきたいと願います。
そして、その選択をするなら幸いです。

2009/03/01

09.3.1「正しい判断をするために」

マルコ15:6-15
:6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。
:7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。
:8 それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
:9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。
:10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
:11 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
:12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。
:13 すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。
:14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。
:15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。


序)イエス様の十字架刑が決まった。
まさに、イエス様が十字架の刑に決まった瞬間の出来事がかかれてあります。
イエス様が十字架にかかることは、私たちが救われるためにはなくてはならないことでした。
これはまた預言の成就でもありました。

でも、イエス様は罪に定められるような方だったのか、罪人だったのか、、、
だから、十字架の刑に決まったのか、というと、それは違います。
人々は間違った判断をしたのです。
つまり、罪人ではない人を罪人とし、罪のないかたに罪を定めたのです。
なぜ、そのような間違った判断を下してしまったのでしょう。
そのことは、今日読んだ箇所でも見ることができます。

見ていきましょう。


1.扇動された。:11

祭司長たちは群集を扇動しました。

人々は、上に立つような人や、策を持った人に扇動されて、間違った判断をしてしまうことがわかります。

もう3年くらい前になるでしょうか。ア○リカがイラ○戦争を起こしました。
911テロにより、ア○リカはテロにより、その脅威にさらされた。
だから世界中のテロの脅威を撲滅するのだ。とか、イラ○が大量破壊兵器をもっているから、とかいって、イラ○を攻撃しました。

余談になりますが、、、
911テロそのものが自作自演で、世界をそのように導こうとしている人たちによって、仕組まれたものだと主張する人もいますし、実際、自作自演ではないかと思える不可解なことは多数あるようです。

これも上にたつ人によって、ア○リカという国が扇動されて、間違った判断をした例です。
ア○リカ人が全て悪いとはいいませんが、実際、このときに、ブ○シ○大統領の支持率は上がりました。
多くのア○リカ人は扇動されたのです。


私たちは、誰かに扇動されて信仰を持ち、信仰生活を送るのでしょうか?
きっかけを作ってくれる人もいるでしょう。
でも、扇動されて、その信仰を持ち、扇動されて、信仰生活を送ることは、避けなければなりません。

イエス様に影響を受け、御言葉の土台の上に自分をおき、神の御心を求めて歩まなければならないのです。
そこには、誰にも扇動されることがあってはならないのです。


もうひとつ、

2.多数の意見が通った。:14-15

扇動された人々は、ますます激しくイエス様を十字架につけるように要求しました。
それにより、ピラトは、群集の機嫌をとろうと思い、バラバを釈放し、イエス様を十字架につけるように引き渡したのです。

ここでは、多数の意見が通ったのですが、それは間違った判断でした。。

多数決というのは、民主主義の基本でしょう。
一見正しく見えるようですが、実はこれは、正しいか否かを判断する基準ではありません。
多数決は、多くの人がそれを望んでいるということであって、正しいかどうかの判断ではないのです。

北○○という国は、現在の元首を支持しています。
選挙をしても、投票率は限りなく100%に近く、その支持率もそうです。
でも、それが正しいかどうかというとそうではないのです。
多数決で多いから、それが正しいのではなく、そう望んでいる人が多数いるという状況なのです。
もし、多数決がただしいのでしたら、キリスト教は正しいとはいえませんね。
少なくとも日本では、そうでしょう。

ア○リカが起こしたイラ○戦争、これも多数決でいうなら、もしかしたら、賛成が多いのかも知れません。
でも、その判断が正しいかどうかの基準ではないのです。

同じように、多く人がある出来事に賛成しているからといって、それがいつも正しいとはいえません。

でも、この世の中では、多数の意見が通る世界なのです。
だから、注意も必要です。

天皇制についても、女性天皇を認めたほうがいいという世論も多くなってきています。
だからといって、それが正しいかどうかはわかりません。
世の中の人々がそう望んでいるに過ぎないのです。

これは、キリスト教の世界でもいえます。
エキュメニカル運動といって、キリスト教の教会が一致し、世界で一つの大きな教会となっていこうというような動きがあります。
しかし、実際は、カソリック等とも一致していこうということですが、
カソリックがプロテスタント化するのではなく、その逆になっていこうとしているという指摘もあります。

しかし、多数が賛成しているから、それが正しいかどうかというのは、また違うのです。
本当に注意しなければならないですね。



結)神の言葉は正しい。

私たちが正しいかどうかを判断することは難しいかも知れません。
でも、神の言葉は正しいし、神様は絶対に間違いのない方です。

神様が「白」といわれて、50億人の人が「黒」といい、
1対50億という票数であったとしても、
50億人が「黒」だと思っているが、正しいのは、「白」なのです。

私たちは、何を基準に信仰生活を送るのでしょうか。

神様が正しいと言われることを基準にしなければならないのです。
でないと、判断を間違うこともあるのです。

神の言葉にしっかりと立って、神様が正しいとされることを基準にしていきたいですね。

そのことは、私たちの能力でできることではないかもしれません。
でも、神様にそのことを絶えず求め、判断を間違うことがないように、祈り続け、求め続けるときに、ここで十字架にかかられたイエス様が私たちを救い、助け、導いてくださると信じます。
この神様だけを唯一正しい方として、見上げつつ、神の国とその義とのまず第一とする歩みを進める人は幸いです。