2009/03/20

09.3.15「弱さを誇ろう」

2コリント 12:7-10
:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

序)弱点はありますか。
完璧な人はいないと思いますが、誰しも弱点はありますよね。

ある俳優さんの話ですが、彼は以前、暴走族の総長までしていたようなけんかの強い男でした。
そんな彼には怖いものなんてないだろうと周りの人は思いますよね。
でも、以外にもそうじゃなかったんです。
ぼくの記憶がただしければ、「虫」が苦手だそうです。

ぼくもたくさん弱点はあります。
ひとつのことに深く理解を進めようとすると、続きません。
忍耐がないんですね。。
オタクといわれる人はある意味すごいと思うんですよ。
一つのことについては、本当に異常なほどに詳しいわけです。
ぼくにはできないことです。

みなさんはいかがですか?
いやぁ、私は弱点だらけだ・・・って人がおられたとしても大丈夫です。
今日はそんな方には一番恵まれるお話かもしれません。

パウロにとって、肉体に与えられた一つのとげ、つまり弱点は、高ぶることのないようにするためのものであったようです。
でも、実はそのままでいいと主は言われたようですね。
その理由を見ていきましょう。

1.主の恵みは十分であるから。

「私の恵みはあなたに十分である」と主は言われました。

私たちはつい、「主よ、あれも必要です。これも必要です。ここに恵みが足りない・・」というように主に求めることがあるでしょう。
求めることはいいことです。
でも、時にイエス様はこのように言われることもあるんですね。
「私の恵みはあなたに十分である」

これは、これ以上はあなたに恵みを与えませんよ、という意味ではありません。
もう既に十分恵みは与えていますよ、という意味です。

私たちに対して主は、十分な恵みを与えてくださっています。
それなのに、「足りない、足りない・・」と不平不満を言うことは避けたいですね。

たとえば、こういうたとえはどうでしょう。
あなたの両親には莫大な資産があり、お金持ちです。
その両親から「必要なものはいつでもいいなさい」といわれたとします。
しかし、毎月の小遣いは5000円だとします。
とりあえず、親にいわずに買う必要のあるものはその5000円で買えるとします。
で、必要なものができました。
移動のための自動車が必要なら、自動車が与えられます。
かばんが必要なら、かばん。服が必要なら服。靴が必要なら靴。家が必要なら家。。
でも、現金で1億円がほしいといったら、どうでしょう。
両親にその現金を用意する能力はあっても、与える必要のないものは与えません。
不足はしていませんし、十分なお金はあります。
でも、必要以上にはあなたは「自分では」もってはいないのです。

神様の恵みも十分です。
あなたに必要なものは神様はご存知で満たしてくださるお方です。
不足はしていません。十分に用意されており、与えられているも同然なのです。

このように、神様の恵みはあなたに十分なのです。
その神様を求め、神様に信頼するものになりたいですね。


2.キリストの力が現れるから。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

弱さをもったままでいいというのは、
その弱さのうちにキリストの力が完全に現れるからです。

弱いところにその力が現れるということはいろんなところで経験することでしょう。

寒さに弱い人は、あったかい格好をします。
ダウンジャケットなんかは本当にあったかいですよね。
ダウンジャケットの力が発揮されるわけです。

「補強」という言葉がありますが、まさに弱いところを補い強めるという意味ですが、
そのような意味合いがあるとすれば理解しやすいでしょう。

昔から正義の味方のような子供用の番組がありますが、
誰かが助けを必要としているところに颯爽と現れて、
敵をやっつけて助けるというお決まりのパターンでした。
もし、ヒーローが現れる前に、やっつけちゃったらどうでしょうか?
ヒーローの出番はなくなります(笑)
弱さがあるから、強いヒーローの力が現れるのです。

先ほどの両親と子供のたとえ話ですが、
もし、その子供に莫大な支払いが必要となったときに、
自分で支払ってしまえば、それで終わりですが、
親がそれを支払えば、親の資金力という力が現れるわけです。

私には、忍耐がない、継続することが苦手という弱さがあることを最初に少し触れましたが、
それでも、クリスチャンになってこの信仰生活を20年以上継続できていることは、
まさに神様の力が現れた証だと思います。

私たちが弱さを覚えるとき、それはイエス様の力が現れるチャンスなのです。
だから、そのままでもいいのです。

イエス様の力を私たちの人生に、生活に現していただきたいですね。

結)弱さを誇ろう。
だから、私たちは弱さを誇りましょう。
弱点、弱さがあっていいのです。
その弱さの中でもキリストの恵みは十分で、
その弱さにこそ、キリストの力が現れるからです。

パウロも言っています。
「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と。