09.2.1「イエス様のまなざし」
ルカ 22:54-62
:54 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
:55 彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。
序)泣くという表現
みなさんは、激しく泣いたことってありますか?
私は、クリスチャンになってから、感情が回復したような経験があります。
お笑い番組を見て、面白いと思っても、声を出して笑うことはほとんどありませんでした。
感動するような映画やドラマを見ても、ジーンと来たとしても、涙が出るようなこともありませんでした。
ところが、クリスチャンになってから、お笑い番組を見ていて、面白いところで、つい声を出して笑っていたり、吹き出したりするようになりましたし、感動した時に、涙を流すようになったのです。
自分の中の感情が回復したのでしょうか。
素直に反応するようになったような感じでした。
そして、これは年を追う毎に顕著になっているようです。。。年のせい?^^;
今朝、この、ペテロが激しく泣いた箇所を共に見ていきたいと思います。
1.激しく泣いた。
ペテロは激しく泣きました。
激しく泣くというと、肉親を亡くしたり、友人を亡くしたり、あるいは失恋して恋人を失ったり、等、激しく泣くというとそれくらいのことを想像したりしますよね。
確かにそういう時もあるでしょう。
サムエルの母ハンナは、まだ子供がない時に、神様の前に激しく泣き、祈りました。
それは、ある種のうめきのような、叫びのようなものだったのでしょう。
また、出エジプトの時、過越の祭りの原点でもある、死の使いがエジプトを巡り、家の初子が次々と死んでいった時に、大きな悲しみと共に泣き叫ぶ声が聞こえました。
また、生まれてすぐのイエス様を殺そうとヘロデがベツレヘムとその近辺の男の子をみな殺した時にも、泣き、嘆き叫ぶ声が聞こえました。
子供を亡くすという時の激しさは本当に激しいものがあるのでしょうね。
みなさんはいかがですか。激しく泣いた経験はありますか。
そこまでの経験はなくとも、心で泣くような経験はあるんじゃないでしょうか。
イエス様の前に、罪を犯してしまって、申し訳ない・・・と泣く。
イエス様に応えられなくて、申し訳なくて・・・泣く。
「牢であろうと死であろうと、イエス様にご一緒します」と言ったペテロはここで、イエス様が言われたように、鶏が鳴く前に3度、イエス様を知らないと言いました。
そのことに気付いて、我に返ったペテロは、外に出て激しく泣いたのです。
自分が情けないと思ったのでしょうか。
イエス様に申し訳ないと思ったのでしょうか。
いろんな思いが交錯したから、激しく泣いたのでしょう。
余談ですが、激しく泣くときは、理由は単純ではないと思います。
自分の無力さ、亡くした悲しみ、同情、悔しさ、理不尽な思い・・・・・いろんな思いが交錯するから、激しく泣くのではないかと思うのです。
とにかく、ペテロは激しく泣きました。
でも、これは後のペテロにとっては大きな貴重な経験となったと思います。
先程、みなさんは激しく泣いたことはありますか、とお聞きしました。
激しくでなくても、泣いたことはあるんじゃないでしょうか。
その経験はあなたにとってどのようなものでしょうか。
泣くほどの出来事によって、私たちが経験するのは、とても貴重なことが多いと思います。
泣いたことによって、すっきりして立ち直ったという経験もあるかもしれません。
泣いたことによって、人の気持ちがわかるようになったかもしれません。
泣いたことによって、二度の同じ過ちを犯さないようになったかもしれません。
いろんな経験をし、いろんなことを学び、体得してきていることがあると思うのです。
ペテロはここで激しく泣きました。
しかし、この経験から、後にイエス様が祈って下さっていたように、信仰をなくすことなく、立ち直ったときに、兄弟たちを力づけることができたのだと思うのです。二度と主を拒むことをしなかった。
この経験はペテロしかできなかったのです。
なぜなら、他の弟子達は、逃げてしまって、こっそりでもついていったのはペテロだけだったからです。
ペテロの経験は、貴重なものでした。
もしあなたが、今でも、過去にでも泣いた経験があるなら、それは貴重な経験になっているのだと思います。
ましてや、イエス様に心を向けているからこそ、泣いていたなら、泣いているなら、それは信仰の上で、とても大きな貴重な経験となるでしょう。今は泣くほどに苦しい思いをしていたとしてもです。
さて、この時のイエス様は・・・
2.見つめられた。
イエス様は、ペテロが3度イエス様を知らないと言った時、振り向いてペテロを見つめられた、のです。
イエス様が見つめられた「目」はどんな視線だったのでしょうか。
「ほらみろ、ペテロ。さっき言った通りだろ?だからお前はだめなんだよ。いい加減なこと言って、結局裏切っちゃうんだから・・」とか
「ペテロ、やっぱり裏切ったな。結局誰もついてこないじゃないか。この恨みは・・・」とかでしょうか?
そうじゃないはずです。
イエス様はペテロを、睨まれたのでもなく、威嚇されたのでもない。。。
「見つめられた」のです。
ぼくには、この表現から、イエス様は、ペテロに対して、愛に満ちたまなざしで見つめられたのだと感じました。だから、ペテロは激しく泣いたんだし、その後、イエス様の為に命を惜しまず、立ち上がれたと思うのです。
「ペテロ、あなたはそういう弱さを持っていることを私は知っているよ。だから、前に言ったように、私を知らないと言ってしまっただろう。でも、大丈夫、その時に言ったように、私はあなたの信仰がなくならないように祈ったから。自分の力に頼って、信仰生活を歩むんじゃなくて、神に祈り、神に信頼し、神の霊によって信仰生活を送るんだよ。自分の弱さも自覚した上で、更に祈って歩みなさい。私はあなたを愛している。わかったかい?」
まるで、そんな声が聞こえてくるようでした。私には・・・。
私たちがイエス様の前に罪を犯してしまって、悔改めて泣いた時、
イエス様に応えられなくて、申し訳なくて泣いた時、
イエス様は責められず、愛のまなざしで私たちを見つめていて下さる。
そして、その愛に心打たれて、泣き、そして、立ち直るのです。
結)イエス様のまなざしがいつも注がれている。
私たちの信仰生活には、イエス様の愛のあたたかいまなざしがいつも注がれているのです。
私たちが失敗したり、罪を犯してしまったり、いろんな経験をする時、
イエス様は愛のまなざしで私たちを見つめて下さり、いつも見守って下さるのです。
私たちは、罪を犯してもいいのではありません。
イエス様のまなざしが向けられていることを体験し、そこから立ち直るものになりたい。
自分の力ではなくて、神の力によって。
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