09.1.18「イエス様の祈り」
マタイ 26:36-46
:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
序)イエス様の祈り
祈りというと、私たちはいろんな祈りを想像します。
食前の祈り、感謝の祈り、お願いする祈り、はじめる前の祈り、終りの祈り、朝の祈り、就寝前の祈り、みんなで心合わせる祈り、一人でひっそりの祈り、執り成しの祈り、按手の祈り・・・
それらは方法であったり、時と場合によって違ったり、いろんな形があります。
今日は、私たちにとって、とても個人的な、神様と一対一の祈りとでも言いましょうか、、、
そのような祈りについて、ゲッセマネのイエス様の祈りから一緒に見てきましょう。
1.本音の祈り
:39『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』
私たちはイエス様に祈る時、ついカッコつけて祈ったりすることはありませんか。
「来月から、仕事で大変な事業に関わらなくちゃいけなくなった。いやだなぁ。。」
「今度、部署が変わって、本当はいやなあの上司のもとで仕事しなければならなくなった。やだなぁ」等。。。
そんな時、どう祈りますか?
「神様、今度、大変な事業に関わることになりました。私のできる能力を超えているかもしれませんが、どうぞ全うできるようにして下さい。私も喜んでこれに臨みます・・・」
「神様、今度、部署が変わりました。どうかそこでの人間関係を祝福して下さい。ぼくも精一杯喜んで仕えていきます・・・」
素晴らしい祈りですね。
でも、あなたにとってこの祈りは無理をしているのではないでしょうか。
イエス様は、この後、十字架へ架かっていかなければならないことをご存知でした。
そのイエス様は、
「父よ、今から十字架に架かりに行きます。喜んでこのことをします。」とは祈られなかった。
「我が父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせて下さい・・・」でした。
イエス様でさえ、弱音を吐くような言葉で祈られたのです。
これは、私たちが、本当の気持ちを神様にぶつける祈りをしてもいいということをイエス様が地上の生涯の中で示された出来事だったのではないのでしょうか。
ですから、先程のたとえで言うならば、
「神様。来月から大変な事業に関わらなくちゃいけません。できることなら、やりたくない・・」
「神様、今度、部署が変わりました。その部署の上司は正直、苦手です。できることなら、再度、部署を変えてほしい・・・」と祈っていいのです。
私たちは、神様の前に祈る時に、ついつい形式ばったり、カッコつけたり、マイナス的なことは言ってはいけないと思って、そのような祈りを”最初から”しようとします。
でも、イエス様はそうされなかった。
私たちが祈る時、まずはありのままの自分の本音を神様にぶつける祈りをしてもいいのです。
でも、これは神様と自分という一対一の祈りの中での話しです。
2.委ねる祈り
イエス様は、本音をぶつける祈りだけをされたでしょうか。
今一度、イエス様の祈りを見てみましょう。
:39『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』
本当は十字架に架かるというような苦い杯は受けたくない。>ここまでは本音の祈りです。
でも、私の願うようにではなく、神様のみこころのようにして下さい。>ここが委ねる祈りです。
イエス様は、本音を、ありのままの自分の気持ちを、ぶつける祈りをされました。
でも、その後に、それでも、あなたのみこころがなるように祈られたのです。
自分の気持ちをぶつけても構いません。でも、決定権は神様に委ねるのです。
「今度の大変な事業には本当は関わりたくない。でも、神様のみこころのようにして下さい。それがたとえ責任者として関わるようなことになったとしても、それが神様のみこころなら、そのようになさって下さい。そこに神様の御心があるなら、それに従います。そこで仕えます」
「本当はあの上司のもとでは働きたくない。でも、神様のみこころがそこにあり、そこで仕えることをさせようとされているなら、そのようにして下さい。あなたのみこころのようにして下さい・・」と。
ここを間違うことがあるのです。
イエス様はありのままを受け入れて下さる。本音のぶつけてもいいのだ。
でも、それは自分の思いを優先させることではないのです。
ここでも、自分が神様を優先順位第一位においているかが重要です。
ありのままの自分をイエス様は受け入れて下さるし、本音をぶつけてもかまわないし、
そのあなたをイエス様は受け入れて、受け止めて下さるけども、
神様のみこころが自分の中になることを私たちもまた受け入れることが必要なのです。
子供が、道を歩く時に、車道の真ん中を歩いていたとします。
親は当然、端を歩きなさい、と言うでしょう。
でも、子供は、なぜ?こんなに道は広いのに、そんなに端を歩かなくてもいいじゃない、と思うかもしれません。
どちらが正しいでしょう。
親の方が正しいのです。
確かに車が来なかったら、真ん中を歩いていても問題ないかもしれない。
でも、車が来た時に危険だということを親は知っているから、子供に注意します。
小さい子供には理解できないかもしれませんが、親の言うことを聞いておく方が正しいのです。
あなたにとって、これは受け入れたくないと思うことがあるかもしれません。
でも、神様はそれをさせようとされるかもしれません。
この時、自分で判断してしまうことと、神様がさせようとされてることのどちらが正しいでしょうか。
自分の判断は不確かなものです。少なくとも私は。。。
しかし、神様は最善なる方で、いつもパーフェクトはことをされる方です。
この方に委ねることは、最善を選択することなのです。
私たちは、ありのままの本音をぶつけても構いません。
でも、その決定権は神様に委ねる、そんな祈りをささげたいですね。
結)神様は介入される。
そんな祈りを神様にささげ続ける時、どんなことが起こるのでしょう。
イエス様の祈りを見てみましょう。
:38 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
:39 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
:42 「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
:45 「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
変化しているのがわかります。
最初は、十字架のことを思うと、悲しみのあまり死ぬほどの思いになられています。
そして、本音をぶつけ、委ねる祈りをし、その祈りを続けられた時、
「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさって下さい」と父の思いを受け入れ始められる様子が伺えます。
更に同じ言葉で祈り続けられた後、
「さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切るものが近づいてきました」とその苦い杯を飲む覚悟ができて、そこに自ら向かっていこうとする勇ましい姿をうかがうことができます。
すごい変化です。
これは、神様に本音をぶつけ、ありのままの自分をそのまま神様の前にさらけだし、
神様に委ねる祈りをし続けることによって、神様が介入されて、
神様のみこころを受け入れるだけではなく、
そのことに向かっていく、力を受けるということが示されているのではないでしょうか。
私たちがこのような祈り・・本音の祈り、神に委ねる祈り、をし続けることにより、
神様の介入を見ることができるのです。
イエス様はここでは、3時間ほどの祈りだったかもしれません。
いや、イエス様でも3時間はかかったといった方がいいかもしれませんね。
私たちは、3時間くらいじゃ足りないかもしれません。
でも、何日でも、何ヵ月でも、何年でも祈り続けるなら、そこに確実に神様の介入があるのです。
ぶっ通しで、何時間も何日も祈ることは困難かもしれない。
でも、構いません。そう本音を祈りましょう。
そして、少しずつでもいいから、祈り続けることが重要です。
その時に、神様の介入があるのです。
イエス様の祈りを模範とし、私たちも祈り続けるものになりたいですね。
そう願い応答する人は幸いです。
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