2008/10/26

08.10.26「イエス様に向けられた目」

使徒 3:1-10
:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

序)午後三時の祈りの時間
みなさん、午後三時といえば、何の時間ですか。
おやつの時間、という方もいらっしゃるかもしれません。
子供みたいだと思うかもしれませんが、適度な休憩も必要ですから、これも仕事を効率的にする上では役に立ったりするかもしれませんよ。
私も3時から4時頃というのは、休憩しておやつを食べることが多いです。
決まった時間に食事をしたり、休憩したり、おやつを食べたり、寝たり起きたり、、、
これらはとってもいいことだと思います。

ペテロとヨハネは、午後三時という決まった時間に、祈りの時間を宮で持っていたのですね。
(おそらく、そのような習慣があったのでしょう)
そのことはとてもすばらしいことです。
なぜなら、決まった時間に神様に目を向けて、心を向ける時間をもっているからです。
私たちも毎週このように集い、神様に目を向け、心を向ける時間を持っていることは素晴らしいことです。また、日々、聖書を読んだり、祈ったりする時間を持っておられるなら、素晴らしいことです。それによって、神様に目を向けることができるからです。

さて、今日は、この箇所から、生まれつき足のなえた人を通して、神様に目を向けることがいかにすばらしく、恵みに満ちたことであるかを共に見ていきたいと思います。



1.人に向けられていた目

生まれつき、立ち上がれない、歩けない人でした。ですから、働くこともできなかったのでしょう。だから、人々が宮に祈りのためにやってくる時間になると、その門のところまで運んできてもらって、そこで施しを求めて生計を立てていたようです。

ある意味、仕方のないことなのかな、、と人間的には思います。
しかし、ここで注目したいのは、足のなえた人は、宮の門にまで来ていながら、その目はそこに入る人々の向けられていました。
そして、その人々から施しを受けることにだけ、目が向けられていたのです。
宮の中に入り、神様に求めることはしていなかったのです。

私たちは、自分の必要を満たす為に、神様に求めるのではなく、人々に目を向け、人々に求めてしまっていないでしょうか。
私は、自営業をしているので、このことはよく祈らされます。
仕事をいただける人であったり、会社であったり、が存在します。
ついつい、これらの人や会社等に目が行きがちです。それがいつの間にかそこにだけ目が向けられてしまっているということがありました。
イエス様が営業に出かけて、うちに仕事を取ってきてくださるわけじゃないから・・と思えば、そうなってしまうでしょう。
勿論、人間関係や仕事の付き合いで、それらの人に対して、お世話になっているわけですから、感謝もするし、喜んでもらえるように仕事をしようとします。それは、いいことです。
しかし、その仕事ができるようにしてくださったのは誰でしょう。
あるいは、その仕事をすることを許されているのは誰でしょう。
他でもない、神様なのです。

私たちはそのことを忘れて、神様にではなく、人にだけ、目が向けられているという風になってはいけないと思います。

さて、この足のなえた人は、宮の門、つまり入口にまで来ていながら、神様ではなく人にだけ目が向けられていたのです。
そんなある日、その門にペテロとヨハネが入ってきました。


2.神様に向けられた目

足のなえた人は、ペテロとヨハネにもいつものように施しを求めました。
そこで、ペテロは男に言いました「私たちを見なさい。」
そして続けて言いました「金銀は私にはない。・・・」
『なんじゃそりゃ・・』と思ったかもしれません。
『ないんなら、私たちを見ろ、なんていうなよ。』と突っ込みたかったかもしれません。
しかし、ペテロは続けてこう言いました。「・・しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」

ここで、私が感じたメッセージは、
ペテロたちが「私たちを見なさい」「金銀はない」と言いましたが、これは、あなたは人を見ているが、同じように私たちをよく見なさい、でも、施すことのできる金銀はない、つまり、そこには解決はない。
あなたが目を向けなければならないのは、私たちもしっかりと見ようとして目を向けているお方、つまり、イエス様なんだ。このお方こそ、あなたの本質的な部分を解決してくださる。つまり、立ち上がれず、歩けないあなたの足を強くし、あなたがひとり立ちできるようにしてくださる。
さあ、このイエス様に目をむけ、イエス様の名によって、歩きなさい。

私たちが本当に目を向け続けなければならないのは、イエス様です。
実際の生活の中では、いろんなことがあります。しかし、その中であっても、イエス様に目を向けることはいつも意識することが必要です。
なぜなら、私たちがイエス様から目をそらして、いろんな人々や物に目を向けたとしても、たとえ一時的に何かを得ることができたとしても、本質的な解決は得られないのです。

私たちを本質的なところで支え、必要を満たしてくださるのは、イエス様に他ならないのです。
イエス様のお名前のほかに私たちを救い得る名は他にないように、イエス様にこそ、本質的な解決が、答えが、あるのです。

この生まれつきの足のなえた人は、その後、ペテロに手をとられて立ち上がり、歩き出したのです。
そして、その人は、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行ったのです。
人々に向けられていた目をイエス様に向けたときに、その人の人生の必要を満たし、解決したのです。そして、この人は、その解決を見て、帰って行ったのではなく、神を賛美しながら宮へ入っていったのです。
神様に向けられた目をまた人に向けてしまうのではなく、神様に向け続けるように、宮へと入っていきました、賛美しつつ・・・。

神様に目を向けられた人はなんと幸いでしょう。
私たちもますますそうしたいと願います。


結)神様に目が向けられるときに、神様が御業をなさる。
使徒 3:16で、ペテロは語っています。
「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

私たちは、神様に目が向けられたときに、神様がその業をなさるのです。
人々を導くでしょう。その人々は、あなたを見て、集会に来るかもしれません。まさに宮の門にまで来ている人々のようです。そして、そこに入っていくあなただけを見ているときには、本質的な解決ではないのです。一時的には、満足するかもしれません。でも、本質的な解決ではないのです。
その人の目がイエス様に向けられるとき、そこに解決、つまり「救い」がやってくるのです。そして、救われた人は、あなたと一緒に神を賛美しながら、宮へと入ってくるのです。
そのようなビジョンをもって、まず私たちがますますイエス様に目を向け続け、人々がイエス様に目を向けられるように、祈り、導き、働きを進めていきたいと願います。
神様の御業を期待しつつ・・・。