08.10.5「人生が変わる時」
ヨハネ8:1-11
:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
序)評論家?専門家?
いろんな出来事が起こると、テレビでは評論家や専門家が登場します。
戦争が起こると軍事専門家が、
北朝鮮が動くと北朝鮮の専門家が、
政治の動きに対して、政治評論家が、
カルト集団や新興宗教が問題化すると宗教評論家が、
それらの人は、そのことを分析したり、評論したり、賛否両論いろんな意見や見解を言います。
でも、何一つ解決しようとはしませんし、できません。
中には、その知識を持って、カルト集団からの脱退の手助けをしている人がいたりはするかもしれませんが、大半は現場は現場、評論家は評論家、ですよね。
別にこういう人を批判するわけではありません。
これらの人はその特別な知識を必要とする人に提供することが仕事なのでしょう。
でも、なんらそこには解決がないんです。
今、読んでいただいた箇所でも、姦淫の罪を犯した女を連れてきて、
非難し、イエス様になんだかんだと詰め寄ったのです。
この人達は、この女になんの助けも与えず、やったことに対して、意見や見解を述べているだけです。
ここから、これらの人とイエス様の違いを見て、教えられたいと思います。
1.女を連れてきた人々
姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れてきた人々は、女の犯した罪を責め、律法にはこう書いてある、この女のしたことは、石打にあたると見解を示し、イエス様に「あなたはどうするのか?」と詰め寄りました。
イエス様は黙っておられたようですが、
:7には、「問い続けてやめなかった」とあります。
これらの人々は、自分がどうかとか関係なしに、罪を犯した女を裁こうとして、イエス様に詰め寄り続けたのです。
私たちも時に、
「あの人はあんなことをして、なんであんなにのうのうと生活できるんですか?神様、不公平ですよ!」とか、
「あの人がこんなことをするせいで、私はこんな思いになって、不愉快だ。神様、なんとかなりませんか?」とか、
神様に詰め寄るようなことを言うことはありませんか。
ここで、この女は確かに律法によれば、罪を犯したのですから、裁かれても当然というような状況です。
別にまわりの人が言うことは間違いではありません。
でも、イエス様は黙っておられた。
そして、問い続けてやまなかったので、イエス様はとうとう口を開いてこう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
するとどうでしょう。
年長者から始まって、全員が出ていってしまったのです。
私たちも人を裁こうとしてしまうことがあるかもしれませんね。
でも、自分はどうでしょうか。
先程のようなことを神様に言った時に、神様はどういわれるでしょう。
「あなたは、どうなのですか」と聞かれるかもしれませんね。
この女は確かに罪を犯したのです。
裁かれても文句の言えない状況でした。
でも、裁くのは、人ではないのです。
イエス様は、「罪のない者が・・」といわれましたが、これは
「では、聞きますが、あなたには罪はないのですか?」ということを言いたかったのでしょう。
明らかに罪を犯した者に目をむけ、自分のことは棚に上げて、その女を裁くことにしか目が向けられていなかった人々の心の目を自分に向けさせ、神様の前に罪を自覚させた素晴らしい一言だったのです。
ここで、実は、この女を連れてきた人々もイエス様の言葉によって、自分の罪に気付き、後に悔改めた人もいたかも知れません。
この女一人が裁かれて終わるのではなく、その女を連れてきた人をも罪を自覚させ、自分にも救いが必要であることに気付かせられたイエス様の言葉はなんと力強く、知恵に満ち、素晴らしいのでしょう。
私たちも人のことばかり神様の前に責めて詰め寄るようなものではなく、神様の前に自分の罪を自覚し、救いを求める者になりたいですね。
さて、イエス様はその後、この女にどうされたでしょう。
2.罪に定めなかったイエス様
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
イエス様は、裁くことができるお方であり、その裁きは正しいのです。
でも、そのイエス様もこの女に対して「私もあなたを罪に定めない」といわれました。
しかし、その後に続けてこうも言われています。
「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と。
この女は、この後どうしたでしょう。
「ラッキー、赦されちゃった。じゃ、もう一度、罪をおかしても 大丈夫だ・・」と思ったのでしょうか。
いいえ、おそらくこの女は生涯、罪を犯さないように努力したに違いないと思います。
イエス様は、正しいことを話されます。また、その知識は計り知れません。
でも、それだけでなく、この罪を犯した女の人生に介入され、問題を本当の意味での解決への導かれたといえるのではないでしょうか。
罪に定めることができたにもかかわらず、罪に定めず、この女を帰された。
この女の人生を素晴らしい方向へと導いて下さったのです。
私たちも罪人です。
この女のように、神の御前に出れば、裁きを受けても仕方のない存在です。
でも、神様は罪に定めず、解決し、最善へと導かれることをここを通してみることができるのではないでしょうか。
結)イエス様の前に出る時・・
ここで、人生が変わった人は誰でしょう。
これは私の推測もありますが、
この女と、そして、その女を連れてきた人々全員だったと思うのです。
女は罪を赦され、その後の人生を罪を犯さないよう生きたでしょう。
また、イエス様を信じて、救われたでしょう。
連れてきた人々も自分の罪を自覚し、神様の前に祈ったと信じたい。
少なくとも、「罪のない人」といわれて、一人も自分は罪がないとは言えなかったのですから、なんらかの形でこれらの人々もイエス様の救いにその後預かったのかも知れません。
そして、それらはどうして起きたのでしょう。
女は、イエス様の前に無理矢理連れてこられ、
連れてきた人々はイエス様を試そうとして、イエス様の前に出て来たのです。
方法は様々であっても、「イエス様の前に出た」のです。
人はイエス様の前に出る時、こんなにも素晴らしいことを体験するのです。
私たちは今、イエス様の前に出られることが当たり前のように思ってしまいがちですが、これは素晴らしい特権であるのです。
そして、イエス様は私たちの為に、十字架で命を捨てて、全ての人が救われる準備を完成させて下さっています。
また、聖霊として今も共にいて下さるのです。
このお方の前に、いつも出る者でありたいですね。
そして、この女や連れてきた人々のように、人生に介入していただき、最善の道へと導いていただきましょう。
今日も主の前に出られることを感謝し、祈りましょう。
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