2008/07/20

08.7.20「出て行くこと」

マタイ 28:18-20
:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


マルコ 16:15-20
:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
:19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。
:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕



序)最後の言葉。
地上での最後の言葉というのはとても大切なことを普通いいますよね。

ある婦人がご主人に聞きました。
「ねえ、あなたがもし死ぬ時を迎えるとしたら最後の言葉は何て言う?」
婦人は自分に対して「今までありがとう」とか「お前のお陰で楽しい人生だった」とかを期待していたのかも知れません。
しかしご主人は「おれが死ぬ時は「う”、う”ぅぅ~~・・・」かな」

まあ、これは実話なのですが、笑い話ですが、普通最後というのは大事なことを話します。
ここはイエス様が天に帰って行かれる直前に語られた箇所ですので、とても重要な箇所であることはみなさんもご理解いただけると思います。
ですから、今日は少し見て行きましょう。


1.出て行くことは主の願い

マタイ あなたがたは行って:19
マルコ 全世界に出て行き:15

出かけて行くことをイエス様は命じておられる。

これは、何も言葉通り世界一周宣教旅行に行くことを言っているわけではない。勿論それができればそれも素晴らしいことではあるが。。。
私達に適用するなら、これは私達が遣わされているあらゆるところへ出かけていくことではないだろうか。
山にこもって俗世界から隔離されて過ごすことをイエス様は望んでおられず、その俗世界の中に出て行って福音を伝え、証しすることをイエス様は望んでおられるということだと信じます。

では、出て行って福音を伝えるとは、訪問したり、路傍で大きな声で福音を語ったり、キャッチセールスみたいに声をかけて福音を語ったりすることなのでしょうか。
それもしても構いませんし、ひとつひとつはイエス様を伝える方法ですから、尊い働きと言えるでしょう。
訪問しても普通平日の昼間は留守が多かったり、路傍で伝道しても余程でないと聞いてもらえなかったり、
刈り取り伝道みたいなことをしても、今は胡散臭く思われてなかなか難しいかもしれません。

でも、福音を伝えるというのはそれだけではありません。

私達は仕事をしてます。職場に出て行きます。そこで私達が仕える時、それはキリストの香りを放っているひとつの伝道であると思います。
近所付き合いの中でもそうでしょう。
家庭でもそうでしょう。特に家族がクリスチャンでない場合はそういう面は大きいのではないでしょうか。
キリストの香りを放っているのに気付かない人もいるかも知れません。
でも気にしないでいいです。目には見えないので自分がキリストの香りを放っているかどうかは分からないかもしれないからです。
あなたを通して放たれたキリストの香りを感じていても何も言わないだけかもしれません。

最近は電話で断ることが多いのであまりきませんが、以前はよく事務所にセールスマンが来ました。
ある時、えらいいい話しだと思ったので聞くだけ聞いたのですが、結局帰ってもらいましたが。。
その人がどうも香水を付けていたみたいで、二日くらい事務所の中が香っていました。

私達もキリストの香りを放っているならきっとそれに気付く人や反応する人が起こってくると信じます。

ですから、私達が行くところ行くところがイエス様が言われた「出て行くべき全世界」だと信じます。
イエス様は何も難しいことを言われたのではありません。あなたも既にしていることなのです。

私はこの意味はどちらかというと、クリスチャン界(キリスト教界)に留まっているのではなく、まだイエス様を知らない人や信じていない人のところへ出て行くことをイエス様が望んでおられるということだと感じています。

ヤコブ 2にはこのようにあります。
:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

出て行くことはイエス様の願いであり、御旨にかなったことであると信じます。
既に遣わされているところがあり、出て行っていることを感謝します。

では出て行くといっても、なかなか勇気がいる場合もありますし、覚悟が必要な時もありますね。
それでもイエス様は、「とにかく出て行きなさい」と私達をほっぽり出されるのでしょうか。


2.イエス様は共におられる

マタイ 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 :20
マルコ 主は彼らとともに働き、:20
私達が出ていくとき、イエス様は共におられ、共に働かれるのです。

マルコで、 信じる者には、このようなしるしが伴う。・・・と書かれてありますが、これは私達が持っているものでしょうか。
これはイエス様が持っておられる権威ですね。
マタイでは、イエス様は「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに・・・」といわれています。
イエス様が一切の権威をお持ちであり、そのイエス様が共におられるので、弟子達が出かけて行って福音を語り行動していったところでしるしも伴ったということです。
私達は出て行って伝える、証しする、キリストの香りを放つというのは困難に思える時もあるかもしれません。
でも、イエス様が共におられるのです。しるしが伴うかどうかは主に委ねて、わたしたちができることをすることが大切です。

出て行くからイエス様が共におられるのではない。
イエス様が共におられるから出て行くのです。


ですから、イエス様はルカ伝では、
「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
といわれています。イエス様を迎えて共におられることを確信するまでは留まっていてもいいのです。

だからといって、「まだまだ・・」とサウナで耐えるように、主が共におられるのに、留まり続けるのもどうかと思いますが^^;
別に無理をする必要はありませんが、イエス様を受け入れ、イエス様に祈っているなら、イエス様は共におられます。
信仰によって受け止めましょう。

そうです。イエス様が共におられるのです。
その確信とイエス様が命となり力となり慰めとなり励ましとなったなら、イエス様と共に出て行きましょう。
そこにイエス様も共に働いて下さり、キリストの香りが放たれ、人々にイエス様を伝える働きをすることでしょう。



結)
もう4年くらい前になるでしょうか、映画パッションを見て、かなり泣きました。
確かにすごい凄惨なシーンもありました。私が映画を見て感じたことをひとつだけ分かち合うとしたら次のことです。
イエス様が十字架で救いを完成されるために、こんなにも痛く苦しいところを通られたということを映画というものを通してみたような気がします。
私達が苦しむこと痛むことも人生のなかであるでしょう。
でも、イエス様の苦しみを思ったら、なんてことない、たいしたことないと思えます。
映画を見てそれを感じました。

イエス様の愛はものすごいです。
1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
映画を見て、この大きな愛を少しは感じられたように思いました。

そんなお方、イエス様が共にいて下さるのです。
共に出て行くものになりたいです。