2008/05/25

08.5.25「弱さの中に、イエス様」

マタイ 26:30-35
:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。


マルコ 14:26-31
:26 そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。
:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。
:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。


ルカ 22:31-34
:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」


ヨハネ 13:31-38
:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
:33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

序)自分の弱さを知っていますか?
いや、私は可能性思考ですから、弱さなんて口に出しません!という人もいるかも知れませんね。
・・・・・・・私は、弱さだらけです(^^;
勿論、自慢して人に見せるようなことはしませんが。。。

もう15年以上前に信仰の戦いを覚えることがありました。今までにいくつもありますが、これほどの戦いはそうそうないようなものでした。
多賀の山へ車で行き、一人で祈っていたというか、もがいていたというか・・・
その時、「そのままでいい。受け入れているよ」というようなメッセージを受け取りました。
弱さだらけの自分のままでもイエス様の私に対する愛は変わらないことを実感した出来事でした。
それ以来、人間的に弱さで落ち込んだり傷ついたりすることはありますが、イエス様が私を愛して下さっていることに変わりはないという確信があったので、本当に私の力となり続けています。

イエス様は私達をどう見ておられ、どのようにして下さるのでしょうか。
見ていきましょう。

1.イエス様は私達の弱さを知っていて下さる。
マルコ14:27 あなたがたはみな、つまずきます。

過ぎ越しの食事をしたあと、賛美を歌って、オリブ山へ出発しました。
賛美を歌って、意気揚々と出かけたのかもしれません。少なくとも神様を見上げて賛美しているわけですから、マイナス思考ではないでしょうね。
しかし、イエス様は弟子達にこう言われたんですね。
「あなたがたはみな、つまずきます。」と。
>口語訳>あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう
ガクッときたかも知れません。

これは何を意味するのでしょうか。
イエス様は弟子達がつまずくことを知っておられたというですが、
これは、イエス様は弟子達の弱さを知っておられ、それをあからさまに宣言されたわけですね。
つまり・・・
私達の弱さを知っていて下さる。そして、それを認めることをよしとして下さるということなのではないでしょうか。
弱さを見せるというのは、信仰がないように思われたりするのではないかとつい思ってしまって、
「主よ、やります。できます。信じます!」と力を入れてしまいがちですが、イエス様は
その弱さを認めてもいいとメッセージされているように思いました。

「私は弱さがあります。だからあなたの恵みが必要なんです」

弱さを認める時に、神様の恵みを求めます。
自分のがんばりや力でがんばるのではなく、神様の恵みによって歩む信仰生活を送りたいですね。

大丈夫です。難しいことではありません。
自然体でいればいいのです。
自分には何ができて何ができないのか、強さは何で、弱さは何なのか。
できないところや弱いところに、神様の恵みを求めましょう。

勿論、私はあれもこれもできないから、恵みもないから、何もできない・・・というような甘えたようなことはだめですよね。
その境目はどこにあるのか。
「自分にウソをつかない」とでもいいましょうか、本当に自分の心を見つめる時に何が自然体なのかがわかるでしょう。

何もできないという人は、突き詰めていくと、その人の心は「自分は怠けたい」だとか、「自分は絶えず、人から同情されたい」などの心があるのかも知れません。
それなら、その人は、「神様、怠けたいという弱さが私にあります。恵みを注いで下さい」と祈ればいい。
本当の自分を見つけたら、そこに恵みを祈りましょう。
イエス様は、自らの愛を注いで恵みを注いで下さるでしょう。

エペソ 2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

私達のクリスチャン生活は、恵みによって始まりました。
恵みによって進み、恵みによって完成させていただきたいですね。

イエス様は私達の弱さを知っていて下さる。
そして、その弱さに恵みを注いで下さる素晴らしいお方です。


2.イエス様は弱い私達のために祈って下さる。
ルカ22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られた。
私達の弱さを知って、その弱さでイエス様につまずくことがあっても、イエス様は祈って下さっています。

イエス様はこのあと十字架にかかられますが、弟子達は実際につまずき、散らされてしまいます。
私達がもし、イエス様につまずいて、教会から散らされたら、この教会はなくなるのでしょうか。
弟子達が散らされたということは、キリスト教の終りになったかも知れない一大事です。
しかし、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られた。
だから、立ち直った時には兄弟達を力づけてやりなさい。とまで言われた。

人が教会をスタートするのではなくて、イエス様がスタートされ、イエス様が建て上げられるのです。人はそのために用いられるだけです。
この時はペテロが用いられました。
ですから、ご安心下さい。この教会もなくなりません。
たとえ、ここにおられる全ての方がイエス様につまずいて散らされても、イエス様はだれかをペテロのように用いて、立ち直るように祈っておられ、立ち直った時にその人を用いて、教会をスタートされるでしょう。

私達は、自分の弱さの中に神様の恵みを求めますが、イエス様御自身もまた、私達のために祈って下さっていることを知る時、大きななぐさめと励ましを受けます。
イエス様からのスタートはなんとすばらしいのでしょうか。


結)イエス様を求める
さて、この同じ時期のこの話しは4つの福音書全てに書かれているのですが、ヨハネ伝にはこうあります。
13:34-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ペテロがイエス様の祈りによって、信仰をなくさず立ち直った時に、他の兄弟達を力づけてあげたのでしょう。
それはまさにペテロが他の兄弟達を愛したという出来事です。
そして、それによって立ち直った兄弟たちもまたペテロや他の兄弟達を愛したでしょう。

互いに愛し合うというイエス様からの新しい戒めの成就です。

そして、その結果、イエス様が言われたように、イエス様の弟子であることを人々が見、またその人々をも愛した結果、多くの人がイエス様を信じ、互いに愛し合うようになって、救われる人が多く起こされていきました。

弱さをもつ私達もまた、いつどんなことにつまずくかもわかりません。しかし、イエス様はそれをも認めた上で、受け入れて下さっており、さらには祈って下さっている。
ですから、わたしたちが立ち直った時には、人々を力づける者になりたいですね。
その時、互いに愛し合うというイエス様の戒めが実現され、他の人々に私達がイエス様の弟子であることが認められ、多くの人の救いをイエス様が見せて下さると信じます。

しかし、それはイエス様がして下さる結果であり、イエス様が結ばせて下さる実です。
私達は、その結果を求めるのではなくて、イエス様御自身を求め、イエス様からの愛を健全にいただきましょう。
なぜなら、イエス様は私達のために、その命を十字架で捨てて下さり、葬られ三日目によみがえって天に昇られ
今も聖霊として私達と共にいて下さる。
救いを完成し、完全な愛を示してくださり、示すだけでなく、聖霊によって注いで下さっているからです。

このイエス様を求め、その愛をいただくならば、
互いに愛し合うようになるし、他の人を力づけ愛するようになるでしょう。
すると、イエス様はそこに結果、実をも見せて下さることでしょう。

私達がすべきことはシンプルです。
「イエス様を求めること」です。