2008/06/15

08.6.15「父と子の関係」

ルカ15:11-24
:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。


序)父と二人の息子
イエス様が喩えとして話された箇所です。
ここで、父と子の関係をみることができます。
父の日を記念して、ここから共に教えられたいと思います。


1.弟息子の行動

弟息子は、父の財産について、まだ生きている父に対して財産を要求し、これで遠い国に行って、浪費して使い果たしてしまった。

生前贈与というのは、日本でもありますが、これは、親が子供に対して相続の時に与えるものを贈与するわけです。
しかしここでは、子供の方から要求しているのです。
また、一般的に考えるのなら、生前贈与を受けた子供は、その親の面倒を見たり、何らかの形で亡くなるまでの間の世話をしたりするでしょう。
また、この時点での財産であって、実際に父が亡くなるときにそれだけの財産があるかどうかもわかりません。勿論もっと増えているかも知れないけど、減っているかも知れないのです。
しかも、その財産は父が得たものであって、息子が得たものではありません。
弟息子は自分で稼いだわけでもない父の財産を要求したというわけです。

そして、その財産を持って、遠い国へ行き、湯水のように使ってしまうのです。
金融会社のCMじゃありませんが、収支のバランスを考えないと、財産はなくなってしまいますし、借金して使ってばかりでは、負債ばかりが増えてしまいます。
いくら財産があっても、使えばなくなるのは当然です。
収入があって、支出があるのです。
弟息子は、父親から得た財産、つまり臨時収入だけを当てにして支出だけをしていったのです。
これでは、その財産がなくなるのは、時間の問題でした。
そしてとうとう使い果たしてしまったのです。
その時にその地方に大飢饉が起こり、食べることにも困り始めたのです。
そこで、なんとかある人のところで働かせてもらったのですが、それは豚の世話でした。
空腹のあまり、その豚の食べるイナゴ豆を食べたいと思うほどでした。

さて、みなさんはこの息子をどのように思われるでしょうか。

まだ生きている親の財産を当てにして、親の気持ちも考えないで、自分勝手なことばかりして、その財産さえも食いつぶしてしまって、、、
なんておろかな子供なんだ。こんな目にあうのは自業自得だ。。。
痛い目にあったほうがいいんだ。そうじゃないとこの弟息子のためにもならない。。

もし、そう思うとしても、共感する人はたくさんおられるでしょうね。

しかし、ここでとても大切なことをお伝えします。
この弟息子の姿は、「あなた」なのです。勿論、私も含めて。。

私たちは、地上に命を受けて生まれました。
それは、あなたが生まれたくて生まれたのでしょうか。
また、あなたのお父さんとお母さんがあなたをそのお腹の中で組み立てたり、くっつけたりして、まるで粘土で何か作るかのように、作ったのでしょうか。
勿論、お父さんとお母さんがいなくてはあなたの存在はありませんでした。
そういう意味では両親に感謝しなくてはなりません。
しかし、あなたを作り、あなたの肉体をあなたに与えられたのは、神様です。
また、あなたに心を与え、自由な意思を与えられたのも、神様です。
あなたにこの地上の人生を歩むと言う時間を与えられたのも、神様です。
あなたが自分で作り出したものは何もありません。

弟息子は父の財産を与えられ、それだけを当てにして、好き勝手なことをしていたのです。それが自分の生きる道であると思ったのかもしれません。

あなたに与えられているあなたの命も肉体も心も時間も人生そのものも神様から与えられたものです。しかし、そうは考えず、
「自分の命は自分のものだ。この肉体も自分のものだ。どのように考え、どんな思いを持っても、自分のものなんだから、勝手だろう。オレの人生はオレのものだ。誰にも何も言われる筋合いはない。」
たしかに、他の人からとやかく言われる筋合いはないかもしれません。
しかし、あなたが自分のものだと思っているものが実は全て与えられたものであるなら、その与えてくださった方に対して、背を向けて歩むことは果たして正しいと言えるのでしょうか。
それでも、勝手なことをしてもいいと言えるのでしょうか。

だから、この弟息子の姿は、私たち一人一人であるのです。
父から与えられたものであるのに、与えてくれた父を無視し、自分勝手なことをして人生を送っていた弟息子。。
ここに私たちの姿を見ることができるのです。

父なる神様から離れて、自分の生きたいように生き、自分のしたいようにしている私たち。。

このことをまず、私たちは自覚しましょう。


2.我に返った弟息子

そんなどん底の状態にいた弟息子が我に返ったのです。
:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

私たちは、父なる神様から離れて、自分の好きなように人生を送っていると、どうしようもない状態になることがあります。
たとえそうは思わなくても、実は自分がどうすればいいのかわからない状態になるのです。
自分はこのままでいいんだろうか、本当にこんな人生を歩みたかったのだろうか。

でも、解決があるのです。
弟息子は、「我に返った」とあります。本来の自分に気付いたのです。そして、父のもとに帰ることを決心したのです。
自分は父の元にいるべきだったということに気付いたのです。
でも、大きな罪を犯してしまった自分は、子と呼ばれる資格などない。だから、雇い人にでもしてもらいたいとお願いしよう、と思ったのです。

ここにも、私たちの姿を見なければならないと思います。
好き勝手やってきた。罪を犯してきた。でも、本来、私たちに命を与え、地上での人生を与えてくださった父なる神様のもとに帰るべきであることに気付かなければならないのです。
そしてそれは、あなたが変わらなければならないものということではなく、本来あるべき姿に返るのです。

あなたは、父なる神様が造られた、神に似せて造られた、神の傑作として造られた存在なのです。
しかし、その神様から離れてしまって、その人生を今まで歩んできてしまった。
そして、今どんな状態であっても、我に返って、本来の自分を造られた神様の元に返る決意をするならば、それがあなたの本来あるべき姿になるのです。

本来の自分を取り戻しましょう。


結)息子として迎えた父
父の元に戻ってきた弟息子を父は雇い人としてではなく、息子として迎えました。
私たちの目から見れば、弟息子が言っているように、息子と呼ばれる資格はないようにも思えます。しかし、父は息子として迎え、宴会を催したのです。

ここにも重要なことをみることができます。
この息子は、どんな状態であったとしても、父にとっては息子なのです。
親子という関係は、たとえ出て行ったとしても、迷惑をかけたとしても、罪を犯したとしても、変わらないのです。

私たちも、神様を信じたから神様の子となったのではなく、私たちは既に神様に造られた神様の子供なのです。しかし、この弟息子のように、父のもとにいなかったため、子供として権利も恵みも受けられなくなってしまっていたのです。
もし、父の元に返らなかったら、この弟息子は飢え死にしていたかもしれません。
私たちは、神の子として造られています。
だから、神様のもとに返るときに、本来の自分を取り戻し、本来あるべき姿を見ることができるのです。

あなたは、まだ、父の元から離れたままではないでしょうか。
もし、そうであるなら、今日、我に返って、父の元に返りませんか。
父なる神様は、あなたを息子として迎えてくださいます。何も責められません。
弟息子が返ってきたときに走りよって父のように、あなたに走りより抱き、迎えてくださるのです。そして、宴会をされたように、あなたが返ってきたなら、大きな喜びで迎えて下さるのです。

今日、本来の自分の居場所に戻られるなら、幸いです。

また、そこにいるなら、それを感謝して喜びましょう。
そして、まだ戻ってこない子供たちのために祈るなら、幸いです。